キム・ジウン監督 "ショートカット"
2009年 03月 23日
<印象深い句節>
春樹が言った.
'ショートカット'には三種類意味が込められていると.
一つは '短くベイン傷'
もう一つは '近道'
最後の意味は文字のとおり
'映画の短いカット'
あなたの 'ショートカット'は何か
'ノムノムノム'の監督キム・ジウンの暗鬱な(?)学生時代とフリーター時代に対する懐古が盛られている面白い本.
読んだら春樹の 'ショートカット'に対する一番目正義のように頭の中に鋭い傷を出すだけ閃かすキム・ジウン式自己の定数を味わうことができるようだ.
それに真摯な話のようなのに, 訳もなくひょろひょろ笑いが漏れるのは仕方ない. このような現象は, もしかしたら愛でありなさいという話を使わないのにメロドラマを作りたかったし, 罪の思いという言葉を使わなくて罪の思いに関する映画を作りたかったというキム・ジウン監督の望むこととも無関係ではないようだ.
<本で下線を引いた言葉>
サリエリがモーツァルトがキゾックゴリョドン楽譜を報告
"いや, まったくもう? この野郎は天才ではないか....? うーん....... ところで今日夕飯は何を食べる? "と目障りだったらどうだったろうか? 少なくともサリエリの生がそんなに下品ではなかったんと言うつもりだ. ここで出る他人の才能に対するひどい関心が酷い自己嫌悪と他人不正を同時に持って来ることができるということに薄気味悪くなるのだ. 才能がなければクールされるとかしなければならないのに....
# ここ補でパントジョッダ. ところで今日夕飯は何を食べる? だなんてハハハ
年を取るということは世の中にこれ以上期待するのがないということを見抜くというのだ.
#シックした彼の正義が気に入る.
こんなくそ! いつもそうだった. ノダブジモッハダという言葉が人々をいくらぴくりとできないようにするのか, そこでいくらすり抜けて来たいのか多分他の人々は分からないだろう. もちろん自分生まれたとおり, できたとおり暮すのが重要だ. そうなのにそれがたまには不便になる時があって一度変えて見たい時もある. そうな時は一度遠く出た入って来ることも悪くないと思う.
#自分自身がステレオタイプで暮していないか? して返り見るようにする書き入れ時
もしかしたら私の記憶を自ら操作していたかも知れない. たぶん多い人々が便宜的に自分の記憶を操作しているかも知れない. それでラテン語で '真実'の反意語は '偽り'ではなく '忘却' というではなく今更大きな響きに近付いたお正月朝だった.
#できるなら傷つかない方で憶えたがるから記憶が '操作'になるのではないか?
'忘却'は完全な忘れることがなく操作されて加工されて変質された記憶かも知れない.
サッカー実力がむちゃくちゃな国であればあるほどゴールを逃したことに対する表情やジェスチャーが大きくて先進サッカーであればあるほど結果にクールするようだという気がする. すべてのものがそうだ.
... ゴールインや露骨であることであってゴールインである所なことはないことのように結果に出ていなければそれはないのだ. 結果にクールされる必要がある.
#いくらプロジェクトたくさんして論文になる所だった研究たくさんしたと言ってザングテングではない. 論文で出ていなければ限りのがないのだ. 結果論的な話と心に刻んでおいてしまうことはできないこと.
無労働ストライカと皮肉受けるピルリポインザーギ. ソルロングソルロング走りながらもどうしてもゴールは成功させるのにセリエAで最近 300ゴールを果たした. 結果論的には最高のストライカ.
我が国の記者たちは "どうしてその映画を作ったんですか?"と問って見る一方外国記者たちは "どんなにその映画を作ったんですか?"と問って見る. なぜと問って見れば返事するのがとても難しい.
'なぜ'は観念と名分を, 'どうに'は実際を見せてくれる. 'なぜ'は観念の秘密を, 'どうに'と言う実際の秘密を盛っているからだ. 私は我が国の映画人がすぎるほど映画を観念的に思っているのではないのかと思う時がある. 創作者には問題は 'なぜ'ではなく 'どうに'だ. 特に我が国ではもうちょっとそんな必要がある.
#学会発表場で一番聞きたくない質問は 'その研究をどうしてしたんですか?'だ. これ位研究者の買うのを折る質問もないように. 勿論研究の必要性を取り揃えることも非常に重要だが, そのようにまで研究の柱根を振る必要があるか? こんなに言葉を変えて何度もじっくり考えることもできるよう.
研究者(または工学者)らがすぎるほど研究(工学)を観念的に思っているのではないか? 研究者(工学者)に問題は 'なぜ'ではなく 'どうに'だ. 特に実用性を重視する工学ではもうちょっとそんな必要がある.
(ものがない方にもかかわらず, 一緒に働く俳優の長所を最大限引っ張り出すキム・ジウン監督の秘訣を問う質問に対する答で)
"その生とお酒を飲んで, たくさん話すことも重要だが, その人と別れた後にでもずっとその人を思いながらその人のどんな点を映画に引き入れればゾッウルジを常に思うのがもっと重要だろうか分からない"
# 仮に映画ザックアップエソマンだろう.
(上に似ている脈絡で)
例えば一緒に暮らしてから後ろ向きになればどんな考えしなくて, 感情を持たないよりは一人でその人に対していろいろと考えるのがその人をもっとよく分かるようになるようです.
<8と 1/2>人家から出たせりふの中にこんなのがありますが, 芸術する理由に対して "真実を現わす時はどんな誰かは大きい傷を受けるしかないのに, 芸術はあるいは映画は傷を最小化しながら真実を現わす媒体"というせりふがありました.
#人生がもうちょっと芸術に近付いたら, 傷ないながらも真実でいっぱいになった世の中にならないか?
他の暮すことがなくて作品だけ思う人々には何か明るい光みたいなのが感じられます.
#ここで無事心性(Disinterstedness)とセレノーする(Sereno)の連結の輪を見つけるようになる.
とにかく劇場で見られなかった 'ノムノムノム', これメガTVでも見なくちゃいけない.
ドックソノートイポストを..
ドッグル書き取りヨックイングル書き取り共感
<出処> キム・ジウンのショートカット|作成者 sortie76