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「コラム」 授賞式の経済学

去る 8日イギリスの <タイムス>が抜いた ‘2008年最悪の映画 100編’ の中韓国映画一編が入っていた. その映画は今年国内映画賞 28個を一気に処理した ‘追い手’だった. 28個の賞を受けたとしても各映画賞ごとに偏差はあった. ‘追い手’は大宗上映話題 11個最多部門に候補に上がったし, 作品賞, 監督賞, 男優上など 6個部門にかけて受賞した.

7回に迎えた大韓民国映画大賞では 7個部門を席巻した. しかし青竜映画賞で ‘追い手’には主演男優賞一つだけ与えられた. 作品賞は ′ウセングスン′だったし ′ノムノムノム′が監督賞を受けた. 椿事映画祭ではこれら作品ではなく他の作品を選択した. 映画 ‘クロッシング’は椿事映画祭で最優秀作品賞・撮影賞など 8個部門を荒した.





もし大衆賞や大韓民国映画大賞さえあったら ′追い手′が唯一無二した作品になったはずだ. 反対に椿事映画祭や青竜映画賞さえあったら ′追い手′はそのようにもてなしを受けることができなかったはずだ. しかしこれら授賞で共通的に多くの賞を受けたことがあった. すぐ主演男優賞だったし, その首相の主人公は ′追い手′の金尹錫だった. 彼は 6個映画賞で主演男優賞を受けた.
上を一気に処理した作品が名作だと見られないだろう. ただ, 多くの映画祭からまんべんなく共通的に受けたらそんな可能性が高いだろう. 2008年 ′追い手′を通じて金尹錫が上を普く受けたから彼の演技力を認めなければならないようだ. ところがイギリスの <タイムス> 選定で金尹錫の演技に対して酷評が加えられた. もちろんイギリス <タイムス>の依頼した評論家たちの下った評価が絶対的な数はない.
時間的な連続上次元で見れば星他に差がないが, 年末なら各種授賞式が進行される. 特に各放送社の授賞式が話題になる. 映画賞で賞を受けても名作なのかわからなければ放送社賞を受ける作品はもう言うまでもない.
映画賞とは違い放送社の授賞式は皆各放送社ごとに各自のプログラムだけ持って授賞するので重なる作品はありえない. しかし製作社と出演者は多数重複される. それなのに自分たちの放送システム範囲中でばかり受賞範囲が決まって問題が起こる. 客観性と信頼性はもっと疑問視される.
まるで乳児院教室みたいだ. 相違濫発される. すべての人々に賞を与える姿だ. 賞を受けるに値する作品のないのに上が与えられる. ここに分けて墨期とか共同受賞が濫発される. ドラマ ‘オンエア’でオスングアは放送社授賞式を批判した. "対象に共同がどこある? これが皆勤賞なの? 先行賞なの?" “商銀サングダウォはする. 分捕り合戦式慣行は相議稀少性と信頼性を落とす” こんな言葉を残して授賞式場を去った.

現実でこのようなスターはいないが事新しい話でもないのに放送上授賞式の問題点のため統合授賞の必要性は早くから申し立てられて来た. 映画界のように普く受賞を受ければその客観性を保障受ける余地はのちほど. しかし放送社統合上は実現することができなかった.
どうして実現することができないか? 毎年こんなに繰り返される理由は本来から賞ではなかったからだ. 広報の手段だ. はじめから利害関係によってマーケティング次元で成り立った. 製作社, スター-演技者, 放送社は相違目的ではない. また放送社授賞場は一つの市場だ.

例えば, 放送社と芸能企画社間授賞式商科出演連携取り引きが成り立つ. 授賞式の視聴率のためにスターを出演させるために受賞結果を知らせてくれるとか適切に按配して他の放送社と重ならないようにする. 自分たちの収益をあげるのに視聴者は付添い人期のため統合賞を運営するということは収益メカニズムをあきらめるのだ.

これが年末授賞式の経済学だ. 一種の ′オウォズノーミックス′(Aawardnomics)だ. 相議権威がないからそれを確保しなければならないと主張することは当たらないのだ. 商銀経済的収益を新たにつくるために用意されるが, 全体的な観点で見た時そのように自分たちのトンネル視野に遮られて效率的ではない.
その授賞の基準は視聴率に全面的に寄り掛かる. このためにどんなに真書でも視聴率さえ高めてくれれば良い. このために韓国のドラマは作品性と実験性より運が良くなければならない. 演技がいくらお上手でも視聴率が出ない所で熱演しても無駄だ. 演技ができないとか大略しても視聴率さえ出れば賞を与える.
演技ができなくてもただ人気ドラマに出演したという理由だけで立派な演技者になって年末の授賞式はこれを確証する例式だ. 良い演技に対する偏見を強化する. スターたち宥め上, 視聴率相違消えたらと思うという視聴者の念願はあずかり知る所じゃない.

12月は大衆文化の暗黒期だ. 一年を整理するコンテンツだけが整然と並ぶ. 収容者たちは一年を再編, 要約, 整理した内容だけ接するようになる. 12月に起こる事は一つもないように見える. 一年を整理する作業が来年のための生産的な元肥になったらそれは決して意味がない作業やコンデンツではないだろう. 授賞式は生産的なこととは遠い場合が大部分だ.

派手な作品はすなわち授賞式後記憶で易しく忘れるのが普通だ. そのドラマを通じて多い賞を受けた人々も消えるのが常だ. その相違本当に私たちの記憶に長く残るに値する作品だったから与えるのではなかったからだ. どうして 1年だけ単位にするのだろう. 3年, 5年いや 10年ずつ良い作品で人をほどのものなどを抜いたことは不可能な事だけではないだろう.

一部ネチズンたちの間で故崔ジンシルに 3年後に賞を与えようと言った. 一放送社で故崔ジンシルを大賞を与える可能性が高いという消息が分かるように分からなく伝わりながらだ. このような動きは放送が 1年ごとに視聴率に全面的に寄り掛かって迎えるに対する批判だった.
2008年にきらっと迎えずに 3年後にも崔ジンシルを憶えて称えてくれと言うのだ.

今年故崔ジンシルが多い媒体を通じて刻印になったから授賞さえそれを商品化することではないかと言う批判であることだ. 必ずそういう側面だけで見られないが 1年単位でとても易しく捨てられる作品とスターたちに切なさが滲んでいる. うちの社会は 1年記憶証があるようだ. それで忘年会あるいは忘年会という名前が年末に膾炙されて来たのも分からない. 1年単位にだけ憶える時歴史も文化も結局発展の蓄積は難しいしかない.
何より ′オウォズノーミックス′がよく作動しようとすれば公正なルールと原則が確立されなければならない. このような要素は信頼と密接なのだ. 信頼を忘れてしまうマーケットは效率性はどころか行為主体者たちを根本的に脅威する. 今放送社授賞式はこのようないくつかの点を皆失ったから ′オウォズノ−ミックス′を望みにくい.

<金献食文化評論家>
2008-12-22 09:51:55
by kazem2 | 2008-12-22 11:49 | News