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[ジン・ジュングォンのアイコン] 神の呼びかけ?

☆cine21.com
主体号名と存在の美学
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旧約聖書<出エジプト記>には、荒野に住んでいたモーセが神の召命を受ける場面が出てくる。 主は彼に、イスラエルの民をエジプトの地から解放させるよう命令を下す。 しかし、神の声を聞いたモーセは、自分の弁舌が拙いできず、言葉でファラオを説得する自信がないと言う。 すると主はモーセに弁舌が良いの兄アロンを連れて行ってと言う。 この物語で興味深いのは、主がモーセがイスラエル民族の指導者として'呼名'して、アロンを使ってマルジュビョンがなかったモーセに『弁舌の能力を付与するというモチーフだ。

神の召しを受けたのはモーセだけではない。 例えば、少年サムエルは、ある日、寝ていて誰かが自分の名前を呼ぶ声を聞く。 少年は、ラビが歌うことができて、隣の部屋の師匠に左右される、ガーナ、ラビは少年を呼んで敵でないと返事する。 同じことが数回繰り返されると、初めてのラビは少年を呼ぶ声が主であることを認識し、その呼びかけに応答するために、少年と一緒に祈りを上げる。 旧約聖書の預言者たちはすべて神の召命を受け、その呼びかけを受け、オンスルの主体になることができる。 旧約聖書の大部分は、これらが書いたものだ。

イエスキリストは、共生の弓を開始する前に、荒野で40日を送ったという。 ガリラヤの町で普通に暮らしていた青年が、突然、荒野に出たのにはきっかけがあったのだろう。 聖書に特別な言及はないが、モーセのように、イエスも、主の声を聞くのだろうか? 荒野でサタンの試みを克服し、社会に出て、イエスはもはや普通の大工の息子ではなかった。 彼の本質を貫く、視覚と直感的な比喩の能力で観客を雲のように運転して通う優れた演説家になっても、体制を脅かす人物とされることまでした。

市場と国家の呼びかけ

中世の秋が暮れて、宗教改革期に達すると、神の『呼びかけ』というモチーフの内容が急激に世俗化し始める。 たとえば、カルヴァンの『職業ソミョンソル』で神の呼びかけは、もはや預言者の聖なる使命ではない。 それは、平凡な人々の世俗的活動の名前になる。 私達が付いている職業、それ自体が、実は神聖な神の呼びかけということだ。 「vocare」は『歌って』という意味を持つラテン系の動詞として、ここで出てきた言葉『仕事』を意味する「vocation」である。 広く知られているように、このプロテスタントの倫理が、後に資本主義的市場経済の精神的な柱となる。

神が存在すると信じていない場合は、'プロ'に人を呼ぶそのプリンシパルとは、結局、『市場』であるしかない。 一言で言えば職業とは、『資本』の呼びかけである。 の変化は、土台だけに起こったのではない。 カトリックという普遍的な教義の下、精神的には、一つに統合されていたヨーロッパは、教会の権力が崩れ、徐々に複数の民族国家としてナヌィギ始める。 近代的民族国家の形成期に呼名の主体は、神の『国家』や『民族』に変化する。 『神の呼びかけ』を代わりにして登場した「祖国の呼びかけ」。 これが人間の行動と言説の近代的な『主体』にしてくれる。

祖国の呼びかけを視覚的に示す例がある。 例えば、ソビエト革命期のどちらのポスターでは、赤い星が付いた帽子をかぶった敵(赤军)兵士がポスターの外の観客を指で指して、"お前、支援したか"と問う。 第2次大戦当時の米軍の徴集のポスターでは、星条旗の文様が描かれた絹の帽子をかぶったアンクルサムが同じジェスチャーで同じ質問をする。 興味深いことに、ナチスもポスターに同じモチーフを使用した。 鉄兜をかぶったドイツ軍兵士が指でのポスターの外の観客を指して祖国があなたを呼ぶと扇動する。

こういうことをアルトィセルは'呼名'(interpellation)と呼ぶ。 アルトィセルによると、イデオロギーは、まだ形成されていない抽象的な個人を呼名して、彼を『主体』にしてくれる。 このような個人を主体に撮って出すにはもちろん、家庭、学校、職場、マスコミを包括する『イデオロギー的な国家機構』が関与している。 個人的には呼名に応じて主体となることで初めて、社会の中で考え、発言し、行動できるようになる。 ラカンの鏡に対応するというか? 私たちが鏡を見て自意識過剰に到達するように、人間はイデオロギーを介して自分のアイデンティティを獲得する。 しかし、呼名を使って作られる自律的な『主体』とは、実は「理念的な国家機構」という打率を使って作られた『オブジェクト』に過ぎない。 神が私のかたちに人間を作るように、資本も、題をかたどって人間を撮って僕に決まっている。 しかし、資本主義の『理念的国家機構』は、価値観の多様性を可能にする。 そういうわけで、資本主義社会にも私の中に、自分に反対するもう一つのイデオロギーの存在を黙認する。 もちろん、そのイデオロギーがブルジョアの手当を超えてシステムを脅かすほどに達すると、「理念的な国家機構」の代わりに、すぐに『抑圧的国家機構』が出動するのだ。

どこの国の市場だけである。 歴史も我々を呼び、民衆も私たちを呼んで、階級も私たちを呼ぶ。 このように歴史と民衆と階級の呼びかけを受けた人々は独自の言説と独特の行動の主体となる。 もちろん、それがどこにいても『召命意識』を感じることは問題にならない。 どうせ言説や行為の主体になるにはイデオロギーの鏡が必要ではないか? 問題はそのイデオロギーに呼名されたこれらが示すドクソンイルだ。 を持った仕事にもかかわらず、多くの場合、熱狂的な闘士たちが不快に感じられるのは、おそらく彼と関連があるのだ。

呼名という幻聴

『神』や『国家』や『階級』という理念がなく、それを持ったことを行うことができないのだろうか? 主体になるために、あえて特定の理念の鏡を使って自分自身を眺めなければならないか。 わたしたちが私達自身の言説と行動の主体にすることができるようにするには、他の道は存在しないのだろうか? 私の知る限りではミッシェル・フーコーが死ぬ直前まで悩んでいたのが、まさにこの問題だった。 晩年のフーコーは、近代的主体が、実は、オブジェクトに過ぎないことを暴露するレベルを超えて、自我が自分で自分を形成する代替方法を模索し始めたのだ。 その代わりに、彼が提案したのが『自己のテクノロジー』という存在の美学である。

政治家たちはなぜ出馬したのかという質問に、しばしば、"国民が呼んで"と答える。 問題は、国民は自分たちを歌ったことがないということにある。 いったい彼らが聞いたのは何だろう? 幽霊の声? 歴史と民衆と階級の呼びかけとこれと違うか? 先日、進歩新党の一党役員は、"価値の政党は、理念政党にならなければならない"と述べた。 "進歩新党は、その理念を追求するためのオデュッセウスの航海を去った。 (...)航海終了時に私たちは、国を運営する理念を持つ必要があり、これが私達が新しい進歩政党運動に乗り出した理由だ。"ここで私達は『強制』を、いわば理念がなく、すぐにアイデンティティの不安にはまる近代的な主体の強制を読み取ることができる。

この固定を解いてくれるのにはおそらくコメディアン ジョン・ユソンの伝説的なパフォーマンスがジェギョクイルだ。 いつが、彼がコメディアンの後輩たちと一緒に海雲台(ヘウンデ)にMTを行ったとする。 一行がビーチにダトジャ、ジョン・ユソンが急にぼんやりとした表情で海を見ながら、そう語ったという。 "みんな、海が私を呼んでいる。"その言葉を後にしたまま、彼は海に向かって歩いていたら、服を着たまま水の中に入って始まった。 水が首にみなぎるポイントに着くと後輩たちにはぶったまげていた。 瞬間、彼が後ろに回って再び水の外に歩いて出始めた。 すっかり濡れた体で帰ってきた彼が後輩たちに言った、"君たち、海が私呼ばなかった"って。

文:ジン・ジュングォン( 文化評論家 )

イラスト:ジョン・ウォンギョ 2011.04.22
by kazem2 | 2011-04-24 20:57