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[オ・ドンジンのピュパインド]映画は映画以上でなければならない

☆movieweek.co.kr
  [オ・ドンジンのピュパインド]映画は映画以上でなければならない_e0109292_22424027.jpg




<悪魔を見た>を見た。
<悪魔を見た>を見れば本当に悪魔を見ることになる。
映画は残酷でぞっとする。 キム・ジウン監督は今回の映画を撮りながら一度行くところまで行ってみると考えたようだ。 そのような面ではキム・ジウン監督がミカエル ハネケについて行ったと考えた。 <悪魔を見た>の山荘場面(主人公チャン・ギョンチョルの友人でありまた他の殺人魔がある浮遊した家の別荘で行う殺人劇)はハネケの<ファニーゲーム>に似た。
映画は始終一貫激烈に打ち合って、破って、とって、煮まくる。 そしてさらに切りまくって切りまくる。 映画を見たら殺人者の言葉が頭の中で離れない。 “腕、足、頭順だ。 合うだろう? じっとしていればはやく終わって。 じっとしていろと!”韓国映画でこのように残酷な映画が出てきたのも初めてだ、と話してもそんなに言い過ぎではないだろう。

1970年代ハリウッドではこういう類の映画が唯一多かったことから記憶される。 サム・ペキンパー監督の1971年作<わらの犬>は田舎社内らに輪姦された妻のために復讐劇を広げる限り小心人の話だ。 この故人弱い男は劇後半でますますますます残酷になる。 1974年から始まったチャールズ・ブロンソンの<デッド ウィッシュ(狼よさらば)>シリーズやはりチンピラらに順に輪姦された妻と娘の復讐のために都心の裏路地を通って報復をして通う限りホワイトカラーの話であった。

一種の自警団映画として<デッド ウィッシュ(狼よさらば)>は反戦運動とニクソンの再選の間で政治社会的に混乱を経た米国社会が生存のためには殺人も不死することができるという、保守的情緒の脈絡を入れた映画であった。 それでも人々はその映画を見ながらチャールズ・ブロンソンが無表情な顔でチンピラらに銃を撃つ姿に心の底から喝采を送ったりした。 こういう問題はいつも二通りの道で人々をギョッとするようにさせる。

<悪魔を見た>の捜査責任者のオ課長(チョン・ホジン)の口を借りてこのように話す。 “獣を捉えると獣になってはいけないのではないですか?”だが、たびたび人々はいっそ同じ獣になりたい。 同じ悪魔になりたい。 1980年代後半ジョージ・ブッシュと大統領選挙で正面対立した民主党のマイケル テュカキス上院議員が遊説過程で記者からこういう質問を受ける。 “あなたの娘が強姦にあって殺害されたといっても死刑制度を反対するのですか?”その質問に迷ったテュカキスは間違いなく選挙で負けてしまった。

サム・ペキンパーの映画ら大部分がところが、暴力的な表現の程度が高いといって暴力的な作品になるのではない。 かえって表現程度とは違ってそこには社会哲学的枯淡峻論が含まれている時が多い。 パク・チャヌク監督の<復讐は我にあり>(2002)がそうした。 主人公パク・ドンジン(ソン・ガンホ)は拉致犯のリュ(シン・ハギュン)を輪切りして失脚までの過程を通じて映画は今の階級社会が伝統的な資本家と労働者の戦いでなく(少し良く暮らすことになった)労働者と(相変らずがまんできない)労働者の血みどろの戦いに変わったことを見せてくれる。

キム・ジウン監督の前作であり、もしかしたら彼の最も明確な社会映画ということができる<スリー-メモリズ>(2002)も同じだ。 映画はちょうど開発された新都市の空間で広がるミステリー殺人劇をついて行く。 そして現代資本主義社会がどれくらい根源的な暴力性を含んでいるかを表わすようにする。

最近発表された二編の作品、<悪魔を見た>きてイ・ジョンボム監督の<おじさん>はそのような面で多少中身が陥ったような感じを与える。 <おじさん>は特に韓国アクション映画がこれぐらい進歩したという感じを与える程その派手なアクション感にもかかわらず、香港ヌアールのファンシー型作品という考えを消すことができなくする。 <おじさん>は主人公ウォンビンの報復過程と動機が個人的なことで社会的なことで少しだけ席移動をしたらはるかに立派な映画になっただろう。

<悪魔を見た>はそのような脈絡で大きく自由なのはできない。 ぞっとする殺人魔チャン・ギョンチョルを育てた私たちの社会中の根源的悪魔性は何だったのだろうか。 キム・ジウンは十分にその答を知っている人であるのにわざと今回の映画では意図的にその部分を避けようとする。 <おじさん>きて<悪魔を見た>は明らか今私たちの社会のぞっとする環境を反映する。 だが、その解決方法は非現実的だ。 それでなぜかこの映画らの結末はファンタジーという考えを持つようにする。 映画は映画であるだけであろうか。 それでもたびたび映画は映画以上でなければならない。 それが合う話だ。
by kazem2 | 2010-08-28 22:51 | kim jee woon