映画「悪魔は見た」悪魔のような世の中、悪魔のような映画
2010年 08月 18日
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<悪魔を見た>を見た。 締め切り中であるのに無理までしながら試写会を探したのは巨大なクエスチョンマークのためだった。 そのクエスチョンマークは皆さんの頭の上に浮いているそれと違わない。 映像物等級委員会が二度も制限上映可判定を下す程表現が強いというのにいったいどうなので、という気がかりな話だ。 結論的に表現程度は非常に強い。 それでも両目をふさいで見ることができない程ではない(何、いくつかの場面では目を隠したりしたが). 以前バージョンを見ることができなくて速断する訳には行かないが死体をかごに投げる場面や人肉を食べて犬にあたえる場面などが付け加えられていたとしても“人間の尊厳と価値を顕著に傷つける”という感じを受けてはいないようだ。 すでに<おじさん>試写会直後“<悪魔を見た>行って<おじさん>より100倍強い”という話を聞いたし、映画の中でもイ・ビョンホンが‘フィアンセが殺されたから復讐する’というセリフを反復的にする場所と心の準備は十分になった状態だったためだ。 今になって表現の自由問題をまた取り出す必要はないが、今回の判定はいくつかの特定場面でなく映画の全体的な雰囲気を問題視したような感じでもある。
この映画を良く見た側でもぞっとするように見た側でも同意する地点はキム・ジウン監督が‘最後まで押し通した’という点であろう。 キム・ジウン監督が極端を追求した結果が映画美学的成功を意味するのか、大失敗を意味するかは以後もう少し細かく議論しなければならない懸案だがその間韓国映画が極端表現にケチだったという点を考慮するならば<悪魔を見た>の試みはそれなりの評価を受けるだけのことはあるという考えだ。 そしてこれを評価するに当たりオリバーストーンがした次の話は参考事項になるだろう. “私が極端の力を信じるのは極端の中で人間はさらに巨大な生活を送ることができるためだ。 人生を膨張することによってさらに広い世の中を見るという話だ。”
また、一つ個人的関心は最近になって韓国映画の表現程度、特に暴力の程度がなぜ高まっているのかだ。 映画産業内的に見るならば<追撃者>の成功が作り出した‘残酷スリラー症候群’が相変らず作動中だと説明できるだろうが、そうとばかり見るには何か生ぬるい隈があるのが事実だ。 映画の流行と傾向を社会流れと関連づけることはとんでもないだけでなく時には危険さすら感じるが、最近の雰囲気はそのような無理な方法でも投げるようにさせる。 なので最近の映画がかもし出す過度なほどの暴力性と狂気が今韓国のどんな集団心理的風景を反映するのではないかという疑問を感じるという話だ。 切なる人生の要求が無視されて踏みにじられて折れていくこの退屈な現実を抜け出すために2010年の韓国映画は復讐と報復の暴力という夢を見るのではないだろうか。 軍事政権時期、武侠誌の中‘ファンタジーアクション’で乱世を救うという隠密な夢を見た私としては‘リアル残酷アクション’で世の中に臨もうとする最近韓国映画の夢がそんなに遠く感じられない。
文:文石2010.08.16