ANEMA E CORE


by kazem2
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チョン・ソンイルの映画評論。。。死体を見よ,そして答えよ②

☆www.cine21.com



不吉さ,あるいは事態を予想する

不吉さ,あるいは事態をイェギョナムグリでまた私たちが何度も見たその路地. 同じフレーム. 遠く離れたカメラ(きてマイク). おばさんたちが集まって話を交わしていて子供たちがその道で走りまわる。 あの遠くからきたおばあさんは手に余るのか中間に置かれた寝床に座って休む。 6分40の間ただその場で持続するこの場面は前部,なので撤去が始まること‘以前’場面中で最も長い。 だがこの場面はプルラン セカンスが違う。 最後の瞬間突然ズームに引っ張った子供の顔クローズアップを見せる。 それからもう平和な場面は全部終わった。 私たちが映画で初めて見る夕方場面. 何度も見た席で眺める鷹岩(ウンアム)2洞の全景. 町内あちこちにあかりが入ってくる。 また夜場面. 町内全景を見せるが事実上闇の中でほとんど見られない。 自動車のヘッドライト. 電信柱の不安定なあかり. また昼間. 町の入り口に立っているおじいさんはしきりに見て回る。 そのおじいさんをカメラはズームで引いて見せる。 今までこのようにカメラを疑うように眺めた視線はなかった。 何がおじいさんでとってカメラをそのように見つめるようにさせたことだろうか? カメラも今まで無関心に見守ったことと違いおじいさんを望遠レンズに追いかけて行く。 ほとんど‘強くこねられるほど’近付いた与える。 その次に遊び場が見える。 この時カメラは遊び場で遊ぶ子供たちに関心がない。 遠くにアパート村でわき上がる演技. ここはバグダッドではない。 都市真中で演技が広まり始める時私たちが感じる不吉だ。 <湖道>はそのように私たちに事態を予感するようにさせる。

沈黙. ただ水が落ちる声. 灰色の光セメント壁について軒で水が落ちる。 この場面が変に感じられるのは季節が分かる時間の記号が全くないのにかかわらず冬という寒さを見るようにさせる。 二番目. そこその家に人が生きているという感じがない。 誰が水をねじっておいたことだろうか? どこで水が漏れるということだろうか? その水滴はつららでない。 言ってみれば人的が消えた荒廃する。 しかしまだ人々が離れたのではない。 また夜. 凄じい夜. 人々が生きる最後の夜. ガラス窓向こう側でテレビ モニターのやや青い光が流れ出る。 その間で人が,もしかしたらモニターに見えるその誰かがかすかにちらつく。 幽霊の跡. 彼が人ならばこの真夜中になぜ寝つくことができなくてそわそわするということだろうか? 彼がモニターの中の影ならば今この深夜に誰か見ているということだろうか? これでもないあれでもないならばあの光は何か? あのやや青い光だけが残った。 あれは灯台ではない。 火消えた町内. そして犬ほえる声. どこにも人の跡は見えることも聞こえることもない。 その時ふとカメラはなつかしいように空を見る。 闇の中で寛容度が非常に低い低価格機種のデジタルカメラで夜空を見る(増えたことは(狂う)及ぼしたことだとか何か必死にそこ見ることがあるという意だ) フレームを埋めるじりじりするグレーン. 夜空に雲が過ぎ去ったら月がこっそりと姿を差し出す。 私はこの映画の初めての場面が昼間煮詰めたことを記憶する。 月はまた消される。

パリが沸き立つ猫,その凄じさ42分10秒. また夏. また遊び場. しかし私たちを引っぱるのは視覚的イメージでなく聴覚的声だ。 突然ガラス窓がこわれる鋭いの声. 撤去‘以後’の初めての場面. カメラを手で持って右側にゆっくりファン(パン)をするこのパノラマ ショットは‘慶祝鷹岩(ウンアム)第8区域管理処分計画なのか’というプラカードを見せる。 家らはすでに窓が大部分取られていったし通りはあたかもたった今爆弾テロにあったように破片が転がっている。 このうらさびしい風の音. 木の葉らはその時のようにはためいている。 二つのはためく。 プラカードと木の葉. 私たちが何度もボンその路地についてカメラはゆっくり後に歩いていく。 移動すると話す代わりに歩いていく,で話した理由は明確にこの後進トゥレキンショッはそのどんなものにも頼らないで言葉どおり手で持って後ずさりをしてとったのが明らかなためだ。

皆が離れてしまったこの町内でチョン・ジェフンがあうのはほとんどつぶれてしまった花壇で遊んでいる一匹猫だ。 この時私たちはこの猫を今までチョン・ジェフンが買えということを見せたのと同じ方法でとっているという事実を喚起しなければならない。 過度にズームに近付いてピクセルがそっくり見えるほど強くこねられてしまった画面. なぜチョン・ジェフンは人と猫を同じ方法でとっているということだろうか? 言ってみれば擬人化のショット. 何回で繰り返して見せた限界許容値を抜け出した与える。 チョン・ジェフンはそこにあるのは猫でなくおばあさん,あるいはおじいさん,もしかしたら飛び回った少年少女らだと考えるということだろうか。 あるいは彼らを記憶する彼の方法であろうか。 もしかしたらそうするかも知れない。 猫でゆっくりズームアウトするカメラはカメラと猫の間に割り込んだ二匹の蝶々について動く。 当然もこの蝶々はCGではない。 偶然に割り込んだ蝶々. チョン・ジェフンは鋭敏にその偶然のリズムについてカメラの視線を移る。 しかし蝶々はとても冷酷にもすぐフレーム外側に抜け出る。 撤去は続いているがチョン・ジェフンはその現場にこれと言った関心がない。 彼が見るのはひたすら跡らだけだ。

チョン・ジェフンが猫次にあうのは路地を飛び交う犬一匹だ。 そしてその犬をついて行く。 その犬は私たちがすでに見たその路地,子供が走りまわってカメラをすぐに眺めたそちらであたかもその子供のように一人で遊ぶ。 誰が捨てて行ったことだろうか? 晴れる食べ物を探してあちこちごみ箱を検索する。 だが人々が離れたこの路地に食べ物が残っているはずがない。 そのかわいそうな犬. その犬の首に縛られているネックレスを保健大恐らくインドキョンだったようだ。 その犬なしでその犬の主人は家の外に出ることができるだろうか? 残っている存在らは離れた人々を考えるようにさせる。 チョン・ジェフンはしきりに木を眺める。 いや,いっそその残酷な風景で視線を転じるために気を使うことなのかも分からない。 遠くからフォーククレーンが家をたたきつぶす声は休みなしに聞こえてくる。 チョン・ジェフンはその声を聞いて自分がよく知っている道,すでに私たちが見た階段,カメラが立っていた席を順に訪問する。 そこに感情を入れるのではないが見る私たちはすでに消えてしまった風景の前から追い出された過去の時間を見る。

映画が始まって54分15秒. あの遠くから工事するフォーククレーン. 今や姿を表わした巨大ロボット. つぶれる家ら. 飛ばすほこりの粉塵. そこにはどんな哀悼もない。 誰かが置いて行った洗濯. 風にはためくイ仏宝. そのふとんが呼び起こす考え. ふとんは寝る時覆うことだ。 私たちは睡眠を家で寝る時一番気楽だ。 自分が住んでいた家を離れて見慣れないところで寝る時の不便(不快)だ。 ところでなぜふとんを置いて行ったことだろうか。 ふとんが不便(不快)な荷物になる人生を想像してみなさい。 この風景を眺めるのは電信柱のスズメらだ。 チョン・ジェフンはあたかも彼らを出演でもさせたように自分のカメラ中に入れる。 一匹,二匹,家かなたで鳥群れが群れをなしてこちらを離れる。 言ってみれば今は誰も生きられない所. 飛んで行くことはできないカメラは視線を落とし込むように土地で視線を転じる。 そこ私たちがちょっと前に見た猫が死んで花壇に捨てられている。 この話の傍点は捨てられているということだ。 そこで死んだことでなく死んで捨てられたという話は誰かがこの猫を殺したという意だ。 誰が? 返事は明白だがぞっとする。 人々はこちらを離れたし残った人は二つのうち一つだ。 こちらを離れることはできない人と今こちらを撤去する人. この猫は誰の猫であろうか? こちらを離れることはできない人. こちらを撤去する人に最も面倒なことは誰であろうか? 離れない人. 彼を離れるようにする方法は何だろうか? 脅迫. 最も恐ろしい脅迫は命を置いて行う交渉だ。 死体を見せるのは最も単純で直接的な威嚇だ。 パリらが沸き立つ猫の死体. 死体が見せるこの場所の凄じい状況. この時<湖道>でほとんど唯一ノイズに近い音響効果を聞くことができる。 スピーカーを破るようなフィードバック ノイズ. 死体という結果の中に含まれた暴力を見るために必要なことは想像力でなく現実中で暮らしてみた私たちの時代の撤去に関する経験の共有だ。 万一この死体をただなにげなく行き過ぎるならば毎年貸し切り理事心配なしに生きるあなたがただうらやましいだけだ。

家を壊すのは思い出でなく現実<湖道>は始終一貫道路で,路地で,階段で進行された映画だ。 だが56分30秒になった時チョン・ジェフンは家中に入る。 だが彼が家中に入って何か発見しようとするのではない。 家はすでに全部つぶれたしそこには人生の跡がない。 チョン・ジェフンは部屋の中でほとんどつぶやくようだ。 いったい家眼科外側が何の差があるのか。 その時誰でもびっくりするようにドン,声が聞こえて風きめに門が閉められる。 この鳥肌が立つ声. 人いない家でドアを開けたり閉めたりする望む。 カメラが部屋の中を見回すためにゆっくりひと回り回れば取られられていった窓外側ではフォーククレーンが家を壊している。 その時開いたり閉じたりする訪問の声と傾いていく天井,ゆがむ建築物の柱が出すサウンドはあたかも消えていく家が出すうめき声のように重くて悲痛だ。

<湖道>の最後の場面は7分15の間フォーククレーンが家を付随はただ一つのショットだ。 周辺はすでにすべてつぶれてその多かった家らは消えたしあたかも空地のように空っぽの空間に三軒の家が立っているだけだ。 爆弾をむかえたような風景. いや,いっそここは月表面のように見えると話したいほどだ。 その中中で家をフォーククレーンが壊し始める。 チョン・ジェフンはそれを眺める。 この場面はとても短い。 ここでこの時間は特別な細井だ。 7分15秒は二階の家一戸を完全にみなたたきつぶすのにかかる時間だ。 事件ない事件. 敗北が火を見るようにある状況の政治学. つかんだ私たちの生活の防御線だ。 それを持つために人生の大部分を送る。 その家で追い出すために私が知らない交渉テーブルで再開発決定される。 その次にその家を壊すにはせいぜい7分15秒ならば充分だ。 暴力的に企画された秩序. それを適うことはできないかわいそうな存在の悲しい地理学. チョン・ジェフンは二度この町内を最後に360度回転して眺める。 ほとんどみなつぶれてしまった町内. それが単に記憶の撤去とだけ話せるだろうか。 家を壊すのは思い出でなく現実だ。 青い空. きれいに晴れた日浮いている一点転がる。 今日は天気が本当に良い。 鷹岩(ウンアム)2洞はそのようにほとんどみなつぶれた。 その次にエピローグのように付け加えた場面. 花火が燃え上がっている。 花火. 私たちの心にあるその花. ただ灰になるように放っておくのか,でなければその花を来た野原に広まり始めるようにするだろうか。 待つ。 期待がこなければならない未来. 期待,そして未来.

“私は家の外に出て行って町内を永らく見つめたりした。 そのように町内に留まって私が見聞きしたこと話になった”チョン・ジェフン自身の<湖道>の紹介の文. その悲痛な過去完了試製. もう彼はこれ以上この町内に留まることができないだろう。 これ以上永らく見つめるだけのことはあったのもなくなっただろう。 これ以上見聞きするだけのことはあったのもなくなっただろう。 だが<湖道>は騒ぎ立てではない。 その反対に私たちにこの沈黙でぎっしり埋まった映画は要求する。 正当な要求. 要求の正義. 答えなさい! あなたが答える順序だ。 共に答えるあなたにある力を皆出し合ってハッピーニューイヤー!

文:チョン・ソンイル(映画評論家) 2010.01.08
by kazem2 | 2010-01-08 12:59