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by kazem2
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<甘い人生> [2] -キム・ジウン監督インタビュー

<甘い人生>の,キム・ジウン監督インタビュー
“私が芸術家のようにとって,商売人のように編集したのか?”
<甘い人生> [2] -キム・ジウン監督インタビュー_e0109292_204499.jpg

-題名を<甘い人生>だと作った理由があるのか。

=最終の題名に浮び上がった候補らが皆既にあった映画の題名らだった。 <義理ない戦争> <トゥルーロマンス> <元に戻すことはできない>このような形で。 事実みな題名で使っても似合うほどのものなどでもある。 その中一つが<甘い人生>だった。 私は偶然にもフェリーニのこの映画をまだ見られなかった。 だが映画的雰囲気とニュアンスが最もよく生き返ることができる題名はこれ同じだった。 他の見方をすればこの映画は甘い自分内部の欲望によって甘い夢を見て,甘い想像をしたことに対する代価を払う映画であるためだ。





-どのような話をしたかったのか。

=試写会場で“アクションが加味されたヌアールプンの血まみれラブストーリー”といったがそれが合うようだ。 ヌアール ジャンルをしたかったし,その中でもアクションの見どころを見せることができるヌアール,その上にハード古語的な強烈な印象と感じを与えたかった。 片方では最高の純真な一人の男の純愛的なラブストーリーでもある。 人は生きながらどんな選択の岐路に立つことになるのに,倫理的選択か,美学的選択かという場合すぐに印象的な選択を出来ないから,どんな名分を引き込んで選択する時が多い。 しかしそのような合理性の談論を持って入ってきて選択した時,その名分が偽り名分であったということ,動機や意図が事実違うものにあるということ,しかしそれはいつかは代価を払うほかはないということだ。 なので<甘い人生>は自分の感情に下手な一人の男が曖昧な感情の揺れるということのためにきわめて困難な状況に置かれることになって,それが想像を超越する途方もない破局に突き進むことになって,あたかもそれは自分の身に火を付けて破滅に駆け上がることなのに,結局それを最後の瞬間に受け入れる話だ。

-それなら印象の選択という側面で,ソヌがヒスの襟首を初めて見る視線が映画の中で重要な瞬間とも話せるか。

=何かこの人を慰めて慰めた印象らがあっただろう。 その人だけが持っている欲望が触られたことで,重大な何かを選択して決めなければならないその瞬間にそれが作動することだ。 そのような点で見ればそのイメージの残像らが大きい動機になりうる。

-個人的に考えるヌアールというどんなものか.

=一つは主題面で,また一つは形式に対する魅了だ。 30~40年代米国ヌアールに対してはよく分からない。 私がヌアールと考えてみた映画はアラン ドロンが出てくるフレンチ ヌアール,また最近出てくる<貯水池の犬ら> <LAコンフィデンシャル> <コルレトゥロル>のような修正主義ヌアールだ. こうしたのが私が見て,また影響を受けたヌアールだ. その中でも暗い面に捕われた魂に対する人物ら. こういうものらが最も私をひきつけるテーマであるようだ。 成功できないことということを運命のようにリアリティーに受け入れて生きる人々から出る知性と純粋を発見する。 彼らは苦痛を受けたり,敗北をかけないと思って純粋な形態を維持する。 そのような人物が良くて,私の映画にたくさん出る人物らがまた大部分そうだ。 四つの長編に出てくる人物ら全部ヌアールジョクという気がする。 片方では映画的な引用らを豊富にするという点。 それも重要な選択動機だ。

-エリックの出演に対する質問をたくさん受けるようだ。 事実理由をよく分からないですが….

=何の関係がない人だ。 だがソヌ自身が処理できなくて行って通ったことらが最後まで追いかけてくるというそのような意味だ。 エリックというスターに集中して偏見が入ることだ。 もしエリックが引き受けたテグの役割が無名だったら私が意図したとんでもないということが加えたことだ。

-アクション演出にどんなポイントを置いてとったのか気になる。

=銃撃つ映画をしたかったためにヌアール形態を借りてきたことだ。 銃に行く前の過程で火角材アクションも必要だったのだ。 徹底してその空間は一度入ってくれば出て行かないそうな,開かれたように閉じられたような空間だ。 そこでは感情を激烈に表わすことができるアクションが必要だった。 角材や腕力よりさらに強烈な。 それで火角材アイディアが出てきた。 わずか雨の中でゾンビのように駆け寄る誰何ら,こういうものらがカオス的な感じを与えた。 凌辱にあった空間を壊して出てくるという意味でカースタントまでしたのだ。

-主人公ソヌがスタンドを(パチパチする)ちらつく瞬間に東南アジア組織暴力らが登場する場面はリズムがとても良い。 それがソヌとヒスが同時にする行動でもあり,突然誰か現れるという衝撃もある。 複合的だ。

=それは家で私がするクセなのに。 (笑い)この人らを何で疎通させることができるだろうか,何で移転させることができるか考えた。 そうするうちに何かの感情に陥って行く時という習慣のようなものですればどうだろうかと思った。 互いに確認されなかった情緒的な連帯感を捉えてくれればどうだろうかと思って出てきたのだ。 ある瞬間には他の人らが家に入ってきていそうだったり。 前では人物らの情緒状態を処理する機能だったら後ではその情緒を繰り返すと考える時ぐらい,何か新しく緊張を与えてまさかそうしはしないよという時突然来る衝撃だ。 ビジュアルの数えた感じらを伝達しようとした。 それもあまりにもあきれるように外国人らだ。 (笑い)こういうものらがおもしろい設定がよいと思った。

-長編だけおいてみれば<静かな家族>の山荘,<反則王>のリング,<長靴,紅蓮>の家,<甘い人生>のスカイ ラウンジのように一定のメイン空間が設定される。 映画的な想像をする時ジャンルと関係なしでメイン空間が登場するのに,それらがどのように常に土台になるのか説明が可能なのか。

=人物を描写しようとする時最も大きい助けを受けることが空間であるようだ。 空間が設定されれば,この人がそこでできる行動と感情と状況らを作り出すことができる。 私には空間が重要で,人物を作り出す使い道だけでなく空間が主題になる地点までも行くようだ。 私には装置で主題になる流用した方法だ。

-文石や輩らと戦う時キム・ソヌの背中で捉えた撮影機法は独特だ。

=説明不可能なイメージらを瞬間的に見せて強烈さを具現するために,一度も試みてみなかったことをしてみるや悩んだ。 ポディケムを使えばイメージがとても独特だ。 それを持ってアクションをしてみればどうだろうか考えたし,単にアクションでなくワイアーに乗って空中で非常で落下するビジュアルを作り出せばどうだろうか,こうしたのは誰も試みてみない契丹考えた。 ポディケムをイ・ビョンホンの後にぶら下げて,その状態でワイアーをからだにまた売高,それと共に俳優がワイアーに乗ってアクションを行うことだ。

-そのショットは世の中自体が揺れる感じだ。

=人物の心理的な感じに入ることだ。 火角材で打ち下ろす時もそうで。 三カット程度使った。

-<長靴,紅蓮>を見て観客がエンディングの部分で気がかりなことをたくさん持ったのに,今回の映画でも同じことであるようだ。 二つの映画は映画的にどんな似た理由体系を経て出てきたことではないかと思う。 そんなこんなであるとんでもない事件がたくさん出てもそれが<静かな家族>と<反則王>では叙事で解けていたとすれば,<長靴,紅蓮>と<甘い人生>はショットの連結,編集上の問題で集約されて解けているという気がする。 ところでそのショットの介入ら,エンディングの編集を含蓄的にすることが意味をとてもあふれるようにするのではないかと思う考えになるけれど。

=言葉をちょっととことん行こうとするなら,<長靴,紅蓮>場合は僻地も話ができるという考えで作ったことだ。 同じように<甘い人生>とセリフいない人々の表情が話になることができるということであった。 われ知らず何かに揺れて,またその意味を知っていく表情らが話になることができるということだ。 なので<長靴,紅蓮>時回想シーンを長く付けたことを置いて多くの人々が前に説明できないことを一歩遅れて説明しようとする意図が何かとしたが,私はそれを説明だと受け入れることにむしろ驚いた。 私はそのショットらの続く情緒らを伝達したかった。 スヨンが昼寝から覚めてみるとママが死んでいてそれを見る表情ら,部屋の中の空気,色感,その過程らを通じて一つのどんな情緒を与えるためにだったのだ。 ああだこうだ説明しようとする意図ではなかった。 だが説明で感じる人々がいた。 今でも後のショットらが過剰に感じられたということは…かなりクールに終わらせたかったのに…何かお話が多かったか?

だが,それらが各々一つの主題だったために仕方なかったようだ。 どんな情緒的配列だと考えるだろう,それがイメージの過剰や説明の強要ではない。 一つでも抜けられないものなどだ。 連係のためにそのショットらをぴたっと付けておいてクァヨンのように感じられることはあるだろうが,だがそれが引き伸ばせば限りなく引き伸ばすこともできるから。 そのような気がする。 撮影はアートにして,編集は商業的にする私のジレンマではないだろうか。 芸術家のようにとって,商売人のように編集する。 常にとっておいて見ればおよそ40分,50分ずつ残るのに,ある(どんな)人々は入れなかった40分がより良かったとの人もいる。 それで次からは編集も芸術家のようにしようと。 (笑い)

-<反則王>でも<静かな家族>ではよく社会要件ら,私たちが接することができる社会の中の事件と一定に脈を同じにしたとすれば,<長靴,紅蓮> <甘い人生>はそこでもう少し自由で見たがるという感じを受ける。

=何の話なのか分かるようだ。 ある点では<静かな家族>と<反則王>がある映画で,<長靴,紅蓮> <甘い人生>がある映画という気がする。 このあなた映画をした人が作ったということを知って驚いたと誰か話したよ。 前の映画らが話性を持って作ったとすれば,<長靴,紅蓮>と<甘い人生>は視聴覚的な感じとイメージで表現してみたいもう一つの欲求があった。 特に<甘い人生>は幼かった時見たヌアールな アクション映画で受けた視聴覚的な快感を完全に観客にかえしたいのが映画的動機になったようだ。 事実はそれがこの映画を作った大きいモチーフの中の一つだ。

今考えてみれば映画を二編(便)しかしなかったという考えになる。 <静かな家族>と<反則王>このようにする方。 <長靴,紅蓮> <甘い人生>このようにする方。 二編(便)ずつ同じ性質の映画らであることだ。 それで次の映画はさらによく作ることという気がした。 冗談でプロデューサーや美術監督に次の映画からはさらによく作ることができそうだという話をしたが,前に持っていたことと私が今傾倒していることの理想的な出会いを次の作品からはできはしないかと思って,またそのように行くようだ。 ア,そしてこれ必ず入れてくれ。 <甘い人生>で一緒に仕事をした俳優らは素敵な俳優らである以前に素敵な人々だった。

文:精悍席写真:チョン・ジンファン| 2005.04.06
by kazem2 | 2009-12-18 20:01