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by kazem2
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若い監督,観客に会う[4] -パク・チャヌク①(シネ21)

不平分子パク・チャヌク
とんでもない映画への入門期を告白する“演出部100ニョネも効果がありません,良い脚本を書いて下さい”

(‘若い監督,観客に会う’ 4回目は本来チャン・ジン監督が予定されていた。 しかし初日予定されたパク・チャヌク監督が全州(チョンジュ)映画祭で上がってくる途中雨に会って定刻に到着するのが難しくなってやむをえずチャン・ジン監督と時間を対等交換をすることになった。 約束時間約15分前,幼い時期自身をひきつけたという映画の中‘スパイ’のように濃厚な色サングラスをかけて現れたパク・チャヌク監督は‘変えた監督事件’の原因提供者として謝罪のコメントで‘私の人生,私の映画’に対して口を開いた。)




チャン・ジン監督に会いにきた方々には申し訳ないと考えます。 月曜日に前週で十分な時間を設けて出発したが雨が降り注いだせいで思わず…. 次の作品の時<シネ21>が酷評をしても受け入れる覚悟になっています。 (笑い)許して下さるだろうと信じて,私が生きてきた話をしますね。 私は1963年に生まれました。 両親両家がソウルだけで永らく何代にかけて生きてきたまれなソウル生え抜きなのに,そのような出生の発見が幼くてはコンプレックス類似したものでした。 たいてい偉大な芸術家はどこの国を問わず田舎の人が(笑い)多いでしょう。 ソウル生え抜きはけちんぼ,芸術家よりは公務員や会社員が似合いそうです。 幼かった時映画が好きなことはしました。 両親が映画がお好きな方だったんですって。 お母さんも映画が好きなので当時<東亜日報>が夕刊であったのに私に週末映画プログラムを読めとさせたりされました。 例えば監督アルフレッド・ヒッチコック,主演誰しながら読めば“ア,その映画! 見なくちゃ”したりしたでしょう。

私は普通私たちの世代同僚映画狂らとは好みがくれといったことのようです。 ジェームズ・ボンドの影響が大きかったし,諜報,スパイ映画に少年らしい好奇心を持ちましたよ。 高校の時映画という媒体に魅力を感じて監督になる考えました。 ところで映画版はタフなところ,弱気な私ができないと考えて映画課は先だっておじけづいてあきらめましたよ。 なぜそのようにこわがったか分からない。 (笑い)芸術に近い違った道をしてみることができないだろうか考えてみたし文才能はちょっと認められたが貧しく生きなければならないといって…. (笑い)美術に関心が多かったし作家はならなくても美術批評ができたと思ったが美術批評課がなくて哲学の一分科で美学課を行こうとしたが周囲の助言で哲学科を行くことになりました。 ところで家が代々古くなったカトリック家だとソウル大でなければ西江(ソガン)大を行かなければならない雰囲気だ。 ソウル大は行けなかったし,西江(ソガン)大を行ったがそこ哲学科は当時には美学に全く関心がない所でした。 中世教父哲学での美学,おじいさん神父様のトーマス アクィナス講義(笑い)こういうものだけ聞いていようとすればできなかったんですよ。

失業者生活,日雇生活,そしてデビュー作

早目にあきらめてサークル活動に趣味を付けたが映画とそれさえも似た写真班に入りました。 西江(ソガン)大は映画と関連した本が比較的多くの学校だったがそのような本の後に貸与カードに名前が書かれているでしょう。 ところで西江(ソガン)大は小さい学校だから借りた人が明らかだから。 一つ二つ会い始めましたよ。 83年頃には全国に映画を真剣に勉強するという人々が多かったです。 チョン・ソンイル,キム・ソヨン,そのような人々会って体系的に映画を勉強してますます深々とどん底に陥ることになりましたよ。 卒業する時ぐらいなると広くて果てしなかったが親しく過ごした友人が現場で本格的に映画を習えと忠告しましたよ。

イ・ジャンホ監督様の会社に演出部末っ子に入ってユ・ヨンシク監督の<カムドン>をしました。 イ・ジャンホ監督様はものすごく多血質だと色々な苦労したが,当時演出部セカンドしたクァク・チェヨン監督が“製作会社整えるから助監督しろ”して高速昇進しましたよ。 一緒に脚本を書いて<雨の降る日の水彩画>という映画を作りました。 ところで,クァク・チェヨン監督様はまたイ・ジャンホ監督様低利という程多血質なのでちょっと大変でした。 それで出てきたが,その時はすでに結婚もある状態と生きる道が漠然として…. このように終わらせることにはならないからシナリオでも一方使ってみるやして初めて長編シナリオを一人で使いました。 ところで使って見るとこういう才能を忠武路(チュンムロ)から出るようにするのはあまりにも大きい避けてしたくて(笑い)心を取りまとめて小さい映画会社に就職しましたよ。 安い外貨買って字幕翻訳もして,報道資料も使って。 ふろ敷包商売のようなものをしたことでしょう。 その時その映画会社では映画ができる最小限の製作費だけ集まればデビューさせてくれるという約束がありました。 有難くも製作者が約束を守りましたよ。 1億ウォンが少し越える製作費で映画を作ったがその時はデビューだけできれば何でもするという考えであったからとりましたよ。

当時には低予算映画という概念があまりなかったし,興行はしなければならないからとても土俗的なストーリーに形式はこのようにしてとても衒学的な態度で<月は太陽が夢見る夢>をとりました。 主演俳優は映画会社でイ・スンチョルをさせてと言いなさい。 当時麻薬波動のために人気はあるのにTV出演できないからこのような時映画作ればどれくらい良いか(笑い)イ・スンチョルでなければとらないでしますよ。 先輩監督に会って悩みを打ち明けるからデビュー可否により待遇が変わると無条件でそうしましたよ。 ところでイ・スンチョルがとても忙しい人だとまったく会わないの。 撮影前日初めて会いました。 (笑い)最初の一言が“監督様,あらすじが何ですか?” (笑い)とにかくデビュー作は失敗して,その後で長い間の失業者生活をしましたよ。 文を書いて,放送出演してする日雇生活. その頃にイ・フンという人に会いました。 早く死んで皆さんはよくご存知ないだろうが,本当に安モノ B急映画を二編(便)作った人なのに,その人を紹介されて米国で買ってきた映画を見て映画に対する考えが根本的に変わったようです。 生きて動いて,荒くてとんでもなくてユーモラスな映画の世界を分かったことでしょう。 本当に私には大きい影響を与えた友人です。 こういう友人らの影響が<月は…>と<三人組>間にあります。 とにかく<三人組>道(ド)興行にならなかったし…. 私の映画で作りたいアイディアはあまりにも多いがずっと出ることの映画だけ持って話していると耐えられなかったよ。 それでお金を求めて短編映画<審判>をしてミョンフィルムで<共同警備区域JSA>企画を依頼受けて仕事を始めました。 この程度までして質問を聞きます。

曖昧さが残っている映画が良い

-雑誌で読んだが,<共同警備区域JSA>をクィオヨンファで行こうかと思ったというのに….

=韓国,北朝鮮病死(兵士)のウ・ジョンウン弱い。 あの程度持って感動が来るかという気がしましたよ。 それでそのまま友情でなく愛で。 (笑い)どうせイデオロギーでなく個人と個人のヒューマニズムを抑圧する体制との戦いを扱った映画だから兵士たちの愛とそれを容認できない軍隊が重なれば主題がさらに強くならないかと思ったが,一言の下に拒絶されましたよ。 (笑い)いや,返事をしなかったんですよ。 沈黙がしばらく流れるとその子供を最初から聞いていないふりをするの。 また話したところ“冗談でしょう?”これでそのまま戦いが終わってしまっただろう。 結果的にそんなにしないのは良くやったことだと考えます。

-映画監督ならば誰でも悩む問題と考えるんですが。 監督が話そうとするのを観客が理解できない時があるでしょう。 観客とのコミュニケーションをできないことをどう思いますか。 <復讐するは我にあり>でも<共同警備区域JSA>を観客が監督様が願うだけに理解したと考えられるんですか。

=観客は色々な人で成り立った集団であるから観客により違ったことでしょう。 一つの解釈だけを望んで作るのではなくて,多様な解釈があるほどおもしろいです。 <共同警備区域JSA>は比較的似ているように受け入れた映画だったら<復讐するは我にあり>は本当に多様な解釈が存在しましたよ。 ところで他のものはみな興味深く受け入れるのに,道徳的非難は受け入れるのが難しかったんですよ。 君監督ではないことでとか,人名(人命)を軽視するといえといおうが。 また明確な政治的路線を持って作った映画ではないが,でもスターリン主義と。 (笑い)どんな方はこの映画で政治的な話はそのまま笑おうといった話だ全く真剣なのではないという方もあるのに,みな良いです。 自らの読法があることで。とにかく本当に立派な映画は1行で通されないで何か曖昧さが残っているどんなものがあってこそおもしろいと考えます。

-<復讐するは我にあり>に対してお聞きするでしょうね。 クルミ理論だと,ハード古語はうわべ(殻)が固くてかめば歯が抜けて本当においしい中身は食べることはできないクルミと同じだという話を聞いたことがあるのに<復讐するは我にあり>がそのような場合ではないかという気がしますね。 監督様がしたかった話がとてもかたいうわべ(殻)のために観客が理解するのが難しかったと考えます。 それに対するどう思われるんですか?

=その程度でハード古語といえるか? (笑い)とても残忍な暴力描写とかこうしたのに目を奪われて本当に重要なのをのがすことができるという言葉でしょう? それはこの場合には合わないと考えます。 この映画はトマトです。 皮も食べて,中身も食べて。 (笑い)なので暴力描写も私が同じように重要だと考えたこの映画の核心で。 その中にそれでなく他の何かおいしいのがいなかったことでしょう。

-短編<審判>道(ド)そうで,<復讐するは我にあり>道(ド)そうでとても宗教的においがするのに,さっきカトリック家といいましたが初めからそのような解釈が入ったのか気になります。 また<復讐するは我にあり>最後の場面がだいぶ残念だったが,ソン・ガンホが死ぬのにペ・ドゥナ氏組織がきて殺すでしょう。 それ以前までペ・ドゥナ一人で考えだと思ったが本当に組織がきて殺すことが刺々しかったし,また組織で胸にさした罪名をソン・ガンホが見るでしょう。 それが若干やぼったく感じられましたよ。 そのような点で監督様の死に対する哲学をちょっと明らかにして下さい。

=宗教的雰囲気で成長したのが明確に影響があると考えます。 カトリックという宗教が罪と救援(旧怨)の問題を鮮やかに目に浮かんだイメージで提示するのもそうで,人間の冤罪(原罪)や数多くの成人らの純教師のようなものらが映画的な要素をたくさん持っています。 私の映画では常に罪と救援(旧怨)の問題が重く扱われるようです。 <復讐するは我にあり>の終わりは見ること次第であることのようです。 私はその場面がやぼったいということの反対と考えるのに,極端どうし会うといったのにそのように見る方もあるようです。 そしてソン・ガンホが判決文を見る部分は,私ならば死ぬ前に自分を殺害した人が何の理由でそうするのか分かると死のうというという心ができそうだったためでしょう。

写真:イ・ヘジョン整理:ウィ・ジョンフン| 2002.05.17
by kazem2 | 2009-11-29 18:38