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by kazem2
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最近の韓国映画の傾向 FILM2.0より

<キム・ソンウック(映画評論家)>
♡FILM2.0 Feature-Featureの記事
韓国映画界がいくら沈滞とはしかし相変らず興味ある韓国映画は登場している. ‘興味ある’と言う話の中には単純に楽しさのみならずこの映画たちの間で捕捉することができるどんな傾向に対する関心も含まれている. そうだ, 特別に特集批評地面を用意したこともこのためだ. 規模と類似素材のトートロジにくたびれた韓国映画は過去とは違うあるいは拡張された位置を占めるために慌ただしい動きを見せている. キム・ソンウック評論家は新しいスタイルの作品軍を形成していると言って姜有情評論家は 20代女性が主な観客層を形成した状況で派手に登場した一名 ‘花美男映画’を青春映画の系譜の中で説明しながらもどんな点で新しいのか分析する. この二篇の非平問は相変らず韓国映画が鎭火しているという証拠だ.

最近韓国映画はトートロジを問題視するとか意識している. 空間と時間を繰り返して過去と現在を連結してそういう繰り返しを通して一定するフレーム中に閉じこめられたりした. しかし多様な繰り返しを繰り返えしながら振ることができてその中で新しい映画が発見されたりする.







繰り返しの振ることを往き来する

去る号に積まれた長律の <裡里>に関する坪でキム・ヨンジンは ‘(この映画で) 世の中の奇蹟はそのように小さくてささいな方式で行われる. 私はこんなジェスチャーが長律映画のすごい美徳だと思う. 彼女は空間に私たちが注目するようにした後死んでいるような事物でどんな微細な運動感を捕捉してそこで生命のリズムを捜し出してそれを適切なジェスチャーで画面に固定させることができる. 主類映画とは違う方式で彼は生を捕捉して憶える方法を自分のスタイルに具体化するのだ.’と書いた.

文の末尾で彼女はまた ‘見られることを見る人にだけ奇蹟が起きる. <裡里>の女主人公チンでは無表情な天使だ. 私たちが見られなかったことを見るようにしてくれる天使だ.’と言う. この言葉に全面的に同意する. 指摘したとおり長律の <裡里>が見せてくれることは他の方式で生を捕捉して憶える方式を自分のスタイルに具体化しているという点だ. しかしここで ‘他の方式’と言うのは何か? それは ‘生’ あるいは ‘記憶’と呼ばれるに値する普遍的な特性か? 彼女はまた確かに天使に似ている. ところでここで天使と言うのはどんな天使を言うか?

即刻でファウルクレーの絵に登場する天使が浮び上がる. クレーは ‘芸術は見えることを複製するのではなくむしろ見えるようにする’と言ったが, これは私たちの感覚によって遅刻された世界の間に存在する場所の世界, 時間ない時間の世界をうかがうようにするのだ. 他に言わば, この天使は時間を守る人, あるいは時間次元の柱石者としてベンヤミンの歴史の天使を意味する.

しかし ‘歴史’という言葉で念頭に置いていることは事実 <裡里>で長律監督が去る我々の歴史を巨大なトートロジで見ているという点にある. 距離(<裡里>と <中経>)と時間(その時と今)の差を持って来ながら彼は ‘今ここ’の問題をトートロジとそれへの反省という強烈な歴史認識で盛り出す. たぶんそれは映画が見せてくれてまたそれだけがやりこなすことができる権能と言うこともできるでしょう.

事実 <裡里>はその企画からおもしろかったことで彼女が内的な経験の時間の内で決して捕捉される事がない過去の ‘こちらに爆破社で’を映画で描き出そうと思ったという点のためだった. 比喩が荒いが 1980年 ‘光州’に関する映画を彼がすると言った時感じることができる生硬さみたいなのが彼の企画にあったのだ. それは非当事者性と呼びそうなことで彼が韓国の歴史と時間と結ぶ独特の関係にある.

<裡里>を見ながら入ったことは彼が義務としての記憶に別段関心を傾けないというのだ. 彼女は過去の歴史を憶えなければならないと主張しない. 映画初盤に見えるメディアのリポーターは 30年前のこちらに爆破事故に対して人々に分かると質問するのに, そして同じく彼女は後で大統領選挙の結果に対してどんな考えを持っていると質問するのに, このような質問方式は実はトートロジに過ぎない.
反対に長律は歴史と記憶と係わって ‘権利’の問題を申し立てる. 証人ではない非当事者(実は大部分の私たちは彼と同じく非当事者であるだけだ)として彼女は記憶にどんな義務があるのではなくかえって権利があると主張するようだ. そして記憶と係わって各個人の記憶と歴史があったら他の人々にはまた他の記憶と歴史があるから一つの記憶と歴史を言いたかったら結局単数と復讐の間の ‘ひま’に対して言わなければならないと, それの振ることを往き来するようにすることが必要だと言うようだ.

繰り返しが新しさができるようにする

私はこのような問題申し立てが最近の韓国映画に反省的事由を申し立てる質問と思う. <裡里>は私たちの生を構成する巨大なトートロジに疑問を投げてまたそんなトートロジの映画たちにも質問を示す. 加令, 近来の韓国映画の中おもしろかったことは巨大な繰り返しが新しく争われているという感じだった.

その繰り返しは言わばキム・ジウンの <良いやつ悪いやつ変なやつ>(以下 <ノムノムノム>)でここではない ‘他の所’を捜してもう一度 ‘ウエスタン’を作動させる時, あるいはその反対に ‘他の所’ではない ‘ここ’でリュウ・スンワンが <TACHIMA LEE-悪人よ地獄行急行列車に乗りなさい>(以下 <TACHIMAWA LEE>)で過去のアクション活劇を再演する時現われる. まるで映画の可能性に対する条件が ‘過去’の繰り返しにあると言うことのようにこの二本の映画は過去の韓国映画をまたこの席で動くようにする繰り返しをお目見えする.
繰り返しが私たちがあえる映画を新しく可能にさせることだからそれはもちろん等しいことの回帰ではない. これらの映画がセルジオ・レオーネの映画とあるいは過去アクション活劇とどんな差を持っているし, そしてどんな点でおもしろくてまたある点では失望なのかを言うことはもう多い評者たちを通じて話された事がある.

私としては繰り返しと可能性の問題を話したいのに, 言わば <ノムノムノム>では恨みの記憶を解くことは悪い記憶を繰り返す ‘やつ’の話が映画の中心に位しているという点でおもしろい. <ノムノムノム>はこちらではない他の所だった満洲でさえ朝鮮での恨みの記憶を取り囲んだ争うことを繰り返していることを見せてくれる. それは他の所での同日韓のの繰り返しだ. 一方, リュウ・スンワンはもしそういう繰り返しなら敢えて満洲に行く必要がないと思うようだ.
それならこちらの空所がそこの満洲の代わりをすることができるし, また漢江が鴨緑江を代置することもできるでしょう. 新しい可能性の条件が形成されるのだ. 時間と場所を横切る繰り返しの遠大な企画はまた <様は遠いところに>でも現われる. 質問はこのようだ. 映画で女人はどうしてベトナムに必ず行かなければならなかったことか, この映画は必ずベトナムを背景で, その所で言わなければならなかった映画だったろうか? ベトナムとここ, あるいは 1960年代後半と今の差がどんなに存在するか?

私は長律の <裡里>が(それとチァックペを成す <中経>とともに) このような近来の韓国映画の繰り返しとそれへの疑問に全く違う事例を提供すると思う. この映画は去る 30年の歴史が巨大なトートロジに異同ではないと言うようだ. いや, その時間の年代記は 10年はもっとさかのぼることもできるでしょう.
映画の中でチンでは数字をまともに数えることができないのに, それでも彼女が酒席では(彼女はお酒を飲めば利口になると言う) 自分が 1977年に生まれたと言う. 極めて奇妙な方式で長律は去る 30年の韓国歴史をトートロジで眺めているのに, そこには毎 10年ごとに周期的に繰り返される奇妙な歴史の年代記があるようだ. 言わば, それは 1977年, 1987年, 1997年, そして 2007年につながる毎 10年のトートロジの時間性だ. 単純に浮び上がる連想だけでもここにはこちらに爆破社でも, 爆発的な市民運動と大統領選挙につながる太めな時間の年代記がある.

たぶんここに珍書の誕生以前と言える 1967年を追加することもできるでしょうに, これは映画の何場面に見えるベトナム戦争参戦勇士たちの荒くて硬直された男性性の跡だ(後で彼らは珍書を劫奪する.) こんなトートロジの時間性で ‘去る 30年前のこちらに爆破事件を憶えてください’という遠い記憶への質問は同時に 2007年 12月だという映画の現在時点で ‘新たに当選した李明博政権に対してどう思ってください’という質問と重なる.

こんな質問の間で匿名の人々は絶えず今は益山に変わった裡里役をまた尋ねる. 戻ること, また探し, 映画の毎場面たちは繰り返されてまたずっとつながる. 映画の終わりで中経から渡って来た 1977年生まれである中国女人が裡里を尋ねた時彼女を嬉しく中国語で受けてくれることは珍書だ. このふたつの顔の向い合うことはまた他の繰り返しと言えるのに, もちろんここには新しい視線が盛られている.

繰り返しが差を作り出す

こんな繰り返し性と係わって見ようとすると奇妙な一日側だがこの映画の最後の場面は張勳の <映画は映画だ>を思い浮かぶようにする. <裡里>が女性の目の中で作動したら <映画は映画だ>は韓国的男性の巨大なトートロジをおもしろく見せてくれる. 俳優は学ぶ. やくざはやくざだ. 映画は映画だ. 現実は現実だ. ところでどんなに学ぶやくざのように演技して, やくざはまた俳優になるか? あるいは現実はどうして映画になって, また映画は現実のように作動するか? この映画の最後の場面でガングペ(ソ・ジソブ)は自分がする無惨な殺人の瞬間に手打(姜指環)を証人のように立ち会いさせてこれが現実と言いながら ‘君がカメラになって’ 私の事件を盛ってくれと言って注文する. これらの立ち向かい, 彼らの視線交換, それは ‘映画は映画であるだけ’というトートロジの奇妙な拗じれることを作り出す.

歴史の歴史, 記憶の記憶, あるいは映画の映画というトートロジをどんな点にも問題視するとかあるいはそれを念頭に置いているという点で最近の韓国映画は問題的だ. ところでこのような繰り返しの問題設定はもうホン・サンスの監督で見えたのだ. <浜辺の女人>でホン・サンスはその自分のステレオ理論をお目見えするのに, これは無限な繰り返しから脱する脱走の試みだ.
彼が提示するステレオの理論は実体と思うどんな無定形の図形中にいくつのポイントを指定すればそれが換気するイメージたちが発生するのに, そのイメージたちは手軽く三角形で構成されて既存の不潔なイメージ, 実体が消えてもうだが残る丁まげ性の繰り返しが発生すると言う. それを脱皮する方式はそれの外部に他のポイントを指定して他の線を引き出すことで, それほど努力してみると三角形よりはもうちょっと実体に近いイメージ, お決まりで邪悪なイメージから脱することができる方法が生ずるというのだ. <夜と昼>はそんな他のポイントを指定することでトートロジから脱しようとする試みを見せてくれる映画だった.

近来のパク・チャヌクの映画も恨みの記憶, 復讐のトートロジから脱する他のポイントをつかみ出そうとする試みを見せたと思う. 長律の <裡里>はそんなトートロジの内部にイメージを形成する限りない割れ目, 矛盾, 空隙を起こす. 同時に詳細どうしそれの乱反射を成すようにしながらいつも等しいのが回帰する繰り返しを省察するようにする. それは外の視線で歴史のトートロジが, いや映画のトートロジを脱皮しようとする試みでもある.

映画はいつもメディアと正反対の姿勢を見せる. メディアが事実を換気させて結局その事実に対して私たちが力無さを現わしたら, そして恨みの人間を生産する悪い記憶を構成したら映画は他の繰り返しで私たちに見えるようにすることが新しくできたことで作り出す. 現実的なことと可能なそれの決定不可能の地帯, それの振ることで私たちを案内するのだ. 最近の韓国映画はそういう地帯を貫いているようだ. そして繰り返しを繰り返えすが, 同時に新しい差を作り出している映画たちが出ている. 繰り返しと差, それはいつも映画を決める特徴でもあった.

2008.11.25 / キム・ソンウック(映画評論家)
by kazem2 | 2008-11-26 18:18 | Movie