ANEMA E CORE


by kazem2
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映画と人文(人紋) ごろつきは誰か。。。

都市裏通りをうらつく無労働の幻想

<ナンバー3>(1997)

ソングヌングした <ナンバー3>(1997): ごろつきはだれか

1. 本文の中で論及したベブルランの主張をまた移せば宗教, 政治, スポーツ, そして戦争は根本的に有限階級の特権的生活方式に配置されます. 加令 (擦れて越すこと惜しい主題だが) 中世の西欧貴族たちが身分的特権のように楽しんだ鷹狩りの伝統はこんな根の一段落をおもしろく例示しますね. つねて ‘組織暴力団’ではなくても位階による上司の命令に服従(上命下服), 義理と忠誠, 懲罰的暴力, そして男性注意のような ‘組織暴力団的行動’の観点で見ようとすると, 宗教・政治・スポーツ・戦争の集団的主導者は果して組織暴力団的です. この気取ってミッジルだと存在たちは世の中の果て日まで我がのそばにあるゲブニだ

ごろつきは労動の時間割りに閉じこめられた都市の中で祭りと暴力を憧れる高中税実績感受性によって労動という産業社会的費用を支払わないというファンタジーだ




厳然な組職の 2(3)因子であるテズ(ハン・ソッキュ)は “眠り一度垂れるように寝て見るのが願い”である位日課がノックロックザンはごろつきだ. “これ元々ごろつきという職業がむだ飯を食うというのに, 私が計算して見るから平均 12時間半分を働いていたよ”とずるいふざけた言い方を落とす. 碌な組職を持つことができなかったがウェッゴンダルである粗筆(ソン・ガンホ)が組織暴力団(組職暴力団) 合宿訓練講義(!) 中に説明するように “ごろつきは汗を流して労動をしない不汗党(不汗党)”だが, テズにはただ “ナワバリは広くてすべきことは多い.”

そうするので ‘一日働かなければ一日食べない’<一日不作一日不食>は百場清堰(百丈清規)を突き付けてもテズのように勤実(!)するように働くごろつきたちを扱き出すことは難しい. 世相とその運用を見ていたら働かなくてポシルするように生きて行く族属たちを捜探するために敢えて ‘ヤングサンガングモグリパ’や ‘洛東江鴨アルファ’を追い回す必要はない. 私の身冷やかして自分の汗ばまないことに履歴が付いて微粒が生えた人々に打とうとするとムルギョング数百万名が不汗党である側だから馬だ. 言葉を吐いたところにもうちょっと運を付けようとすると, 一体この時代のその誰が正直な取ることでムルチォになるように番お金を希望するか? ざっくばらんに言わば ‘不汗党’こそ 21世紀の資本主義が遂に到逹した夢の職業ではないのか?

不汗党, 資本主義が到逹した夢の職業



過去に労動しないで食べた階級, すなわち不汗党はあんまり特権層だったし, 彼らの地位と行世(行勢)は現代の組織暴力団と違い当代の権力体系によって公式化された. そして朴斉家の <北学議>
(1778) などでちゃんと見えるように階級構造変動の時期には労動の新しい秩序が社会の話題になるものでもある. 他の一方多数の両班/貴族たちには実利なしに奇勝を落とす自由主義者たちが焉敢生心見下げることができない日常生活と上の(威儀)があったことが事実だ. 今は何にも知らなくてズウォソムギゴンする ‘ノーブレスオブルリズ’(Noblesse oblige)の態度もそんな厳切した伝統の中で作られたのだ. しかし資本除籍都会化以後の現象で打たなければならない組織暴力団現象は当然中世的階級や身分秩序に根拠した不汗党の伝統とは割れる. これらを受け継ぐ職業は組織暴力団ではなくかえって聖職者たちや政治家たち, あるいは職業軍人たちだと言わなければならないでしょう. もちろん一部の社会学者たちは聖職者, 政治家, スポーツマンそして職業軍人たちはその職業の体質構成上組織暴力団的速成を避けることができないと説明する. 特別にベブルラン(T. Veblen)によれば ‘有限階級’は野蛮文化の初期分業形態である男女区別で祈ったし “有限階級制度は初期の所有権者たちが生産に追い付く不名誉を避ける目的に助長した結果たち中の一つ”だ. ところでこの文の論議で鼓動になるに値するベブルランの命題は “有限階級は平和で好戦的生活習慣で履行する過程で徐徐に出現”したというのだ. ‘好戦的生活習慣’のハムウィを豊かに解いて近現代の社会的変動たちを的実するように適用して見れば, 組織暴力団といっしょに聖職者, 政治家, スポーツマン, そして職業軍人たちを一クェミに編むことができるかどうかを見当をつけることができるでしょう. そのように寸なら, 全方位的にほとばしるかんのむしと冷笑の中で南韓社会に対する怒りを持ったまま使って作ったというソングヌングハンのこの作品は組織暴力団に対するイヤギがというよりかえってそのものがすなわち組織暴力団的だ.

テズみたいなごろつきたちは資本主義的都会化の中で成り立った近代的職業噴火のネットワークにクルミッするように捕獲されることができなかった輩らだ. 前述したとおり人々が文字のどおり中世的存在であることはできないが, 無労働の幻想を到着的(倒錯的)に現実化しようとする欲望を引き続くという点ほどは中世的だ. この幻想は贅沢と無駄使いの生に対する貴族的欲望の一特別な変容なのに, これらの存在が映画みたいなマスコミで格別に注目を引く理由は資本除籍生の疲れと倦怠に垢じみた大衆に好戦的生活習慣に対する観念論的郷愁と労動が不在する都市の生というファンタジーを植えてくれるからだ. 言わばごろつきは労動の時間割りの中に閉じこめられた都市の中で祭りと暴力の世界を憧れる高中税実績感受性によりながら労動という産業社会的費用を支払わないというファンタジーであることだ.

共同体のワルチァ, 体系の中のごろつき

だから組織暴力団は徹底的に近県対敵現象で都市的生の裏面だ. それは共同体のワルチァドルではなく体系の中のごろつきたちであることだ. たとえばイムコックゾングやホン・ギルドンや張吉山の連中たちはたとえ組織的な暴力で当代の法体係と代置するが歴史的でも概念的でも ‘組織暴力団’であることはない. 伝統社会のワルチァドルやファゾック(火賊) 連中を組織暴力団と割る一番重要な書き入れ時は, アブエッゴッが共同体の秩序を散らかす個別的行為たちの束ねならドイエッゴッは体系の秩序に寄生しながらその体系の物陰をやっぱり ‘体系的に’ 逆利用するという点だ. こんな点で, 卑近な事例で 1930年代後半以後キム・ドゥハン連中が政治的に濃い仲直り間姿を一覧すれば一方伝統社会のワルチァドルと体系の中で暗躍する組織暴力団を引き継ぐ過渡期的形態とその過程をうかがうのみならずさらには組織暴力団が当代の体系的権力と癒着するとかその屑利潤を取りそらえながら送ることと明滅することをよく見られる. ごろつきも組織的存在だがその組職も徹底的に体系的現象であることだ. 歴史を話で脚色した作品の中では ‘侠客’だから何だからする一見おもしろい人物像らがせいぜいのところ消費者に縮んだザンヤックした現代人の人目を引くものの, それはごろつきを特定のスタイルを持った個人だけで描いたまま伝統社会のワルチァ、義賊イメージと体系の中の組織暴力団イメージを便利にソックバクであり任意に潤色したことに過ぎない. 誰の言葉を借りれば, それは話であって歴史ではなくて, 風景の幻想であって傷の起源ではないのだ. それでそうであろうか, <ナンバー3> の中のマドングパル検事(チェ・ミンシク)は職業的専門性のためかあるいは自分自身の ‘ゾッみたいな’ 性情と帖紙のだからなのか組織暴力団に対する幻想を横切ってその実際に単刀直入する. テズが “是非ごろつきに呼んでくれ”と言ってもマドングパルの口で零れ落ちることはただ ‘やくざ奴’だけだ.
人類の代表的な幻想なら宗教と愛とザギエ(ナルシシズム)だが, 取り取りの幻想たちは人生の欲望と傷に載せられて明滅してたまには悪地を使ってアムが与える実在を押し出しながらミッジルギなの自分の存在を固執するものだ. 組織暴力団とそのごろつきたちは根本的に近現代の都市社会的体系に寄生する現象であり, 映画の中で再現される組織暴力団とごろつきも都市社会的体系の疲れと倦怠に垢じみたザンヤックしてエゴイスチックな消費者たちがロマンチックに再現する幻想だ. 例えばキム・ジウン監督の <甘い人生>(2005)が描いたソヌ(イ・ビョンホン)の悲劇的な最後さえ資本主義的体系の中で官僚人間ー企業人間ー家族人間でアドングバドング, 濃い凍寒洞生きて行く私たちのの地質した日常を一気に暴力的・ロマンチックに超越するようにするファンタジーではないのか? しかし <ナンバー3>を作った同期が “やくざだらけの出たらめな南韓社会に対する怒り”と明らかにしたソングヌングハンの作業ではそんな幻想の余剰の介入するひまがない. 彼はまさにその怒りの力としてその幻想の火を消して, ‘三流人生’らが沸き立つこの社会の壁画をグァザングスロブゴウスクァングスレ点描する. .
 
          

  文キム・ヨンミン哲人
by kazem2 | 2008-10-10 20:31 | Movie