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CINE21[ユ・ウンソンのシネマナウ]映画祭の政治学

☆cine21.com
ベルリン国際映画祭が置かれた苦境を思う
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                      <メテオラ>



3大国際映画祭の中で年中で最も早く開催されるベルリン映画祭は、その地位にふさわしく一年の世界の映画の動向を事前に推測できる機会を提供するべきだだろうが、実際にベルリンがそうであろうと期待しているこれは、今ではほとんど(あるいはまったく)ないようだ。
もちろん、ベラタールの <トリノの言葉>とウルリッヒ·ケーラーの<睡眠病>のように顕著な作品が、昨年のベルリンを輝かせたのは事実だが、1年経って、私は今、誰の記憶にも残っていない映画が少なくなかったのも事実である。今年の競争部門も、ごく少数の秀作たち - その中で一方では、今年の映画であらかじめ挙げることができるほど立派だった - が招待されましたがブリヤンテメンドーサ<捕虜>とスピロススターツールロプロスの "メテオラ"などとんでもない映画隙混じっていて、しかも最高の賞は、生活と演技の並行構造をとったタビアニ兄弟の初期の映画 "プロシージャは死ぬべきである"と社会的問題をわざと芸術的盛り出しうとした退屈な虚勢に陥っ万ベネデクプリマスすくの "ただ風"に戻った。一方、ベルリン競争部門の欠乏をなだめるようなプログラムで愛されたフォーラム部門にもなって我慢の限界をテストする映画の割合が高くなり、最近は街で出会うジャーナリスト、評論家、プログラマがフォーラムでは避けるべき映画のリストを毎日のように交換することも行われている。どのような映画祭やレベルが異なるいくつかの映画が共存せざるを得ませんが、非常に非対称的な視線と厳しいゴリヅギで、既存の動物ドキュメンタリーの擬人化の慣習を完全に解体してしまった·ドニコテウイ<寓話>やアバンガルドゥジョク抽象性を政治的テキストと結合に成功したケン·ジェイコブスの "猿の王を探して"のようにずば抜けた作品が、無価値な映画だとしかできないマリアーノルケの <サルシプエデス>のような映画と並んで置かれているくらいになったら、観客としてはちょっと判断がつかないしかない。

しかし、ベルリン映画祭の置かれた苦境を、プログラマの能力不足や目の欠如のせいにするのは不当だ。むしろ、我々は、巨大な国際的な映画間の力学関係、今日の映画祭サーキットを動かす国際配給会社の影響力と西欧 - 非西欧映画界の間のネットワークなどだが入り組んだ映画祭の政治の不思議な光景がベルリンで露骨に表れたものと見なければならない。
ブリヤンテメンドーサ<捕虜>がカンヌとベニスで順番に拒絶された後になって初めてベルリンに目をドルリョトウミョ監督と俳優(イザベラウィペル)のスターパワーが必要だったベルリンとしてはそれを受け入れなければという事実、今年のベルリンコンペティション作品の中で何と五編がドイツの配給会社マッチ·ファクトリーが配給を引き受けた映画であったこと(その中に細片が受賞)、一部の国の映画界との継続的な関係を維持するために、ソゴン映画祭期間に同時に開催されるフィルムマーケットにインダストリーを誘致するために間に無理にスロットを割り当てしても芸術的に含有量未達の映画をあえて招待すること - 例えば、今年のベルリン映画祭の韓国映画の招待作リストを見たときに感じる当惑するということ - などすぐに浮かぶいくつかの事例に過ぎない。以上の言及を実用的に変えて言えばこうだ。映画祭(特に社が大挙参加する巨大映画祭)を訪問して見る映画を選ぶ時に失敗のリスクを軽減したい場合は、可能な限り映画祭の政治学を考慮しながら、特定の映画がどのような経路で、その映画祭に招請されたのを想像してみなければならない。誰でも自分の映画を映画祭に出品することができますが、その映画が、常に同じ基準に基づいて審査されるわけではないからだ。特にベルリンで。

文:ユ・ウンソン
by kazem2 | 2012-03-10 20:22 | Comments(0)