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[ユ・ウンソンのシネマナウ]二重拘束を脱げ

☆cine21.com
批判の中の日本映画に新たな美学を期待する
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                   <ギルティ·オブ·ロマンス:欲情のミステリー>




多くの人々が、今日の日本の映画が昔のそれだけはないと口をそろえて言っています。しかし、お決まりであることこの上ないが不満を少し違う観点から見ると問題となるのは、日本映画の実質的低迷ではなく、同時代の世界の映画界が、アジア映画に割り当てられた機能と、日本映画に割り当てられた機能の間に存在する間隙 - 歴史的に見たときに、日本映画はアジア映画の外に位置し、アジア映画の中心となる逆説的な機能を担ってきた - ではないかという疑問を抱くようになる。
アッバスキアロスタミ、チアジャンコ、アピトチャポンセタ、蔡明亮、ラブ·ディアス、ホン·サンスなど、最近アジア映画の最前線をなすこれらの作品を見ると、程度の差はあるが、伝統的に尊重されてきた叙事やミジャンセンの効果を部分的に活用するがある種の独特な概念図式にそれを配置する近代的な美学を駆使するという共通点があるが、これこそが、これらの監督たちが担当していると、同時代のアジア映画の芸術的な機能がということができる(興味深いことに、これらの監督たちがそれぞれの概念図式をより前面に押し出した作品ではなく、その概念図式が情事やミジャンセンと "調和"を成すように見える作品が多くの場合、高い評価を受ける)。ところで、日本映画はこのように概念図を活用する映画が非常に珍しいですが、たとえあったとしても、日本映画に割り当てられた機能を満たしていないため、影響力が大きい国際映画祭の招請では排除されてしまう。最近の国際映画祭が日本映画に割り当てられた領域は、表現的で様式的な作品や、 "アジアンエクストリーム"という用語に代表される過剰のジャンルに限定される傾向があり、これは昨年のカンヌ映画祭河瀬直美の <ハネジュ>、三池隆の "切腹"、 園子温の <ギルティ·オブ·ロマンス:欲情の謎>を招待したのに続き、ヴェネチア国際映画祭が 園子温の"モグラ "、塚本晋也の<ゴトコ>、清水崇の <トメンチドゥ>のような映画を限定的に招待したという事実からも明らかに現れている。今日の日本映画は、一種の二重拘束にとらわれていると思われる、まさに概念図式を活用する現代美学に依存せずに完全に現代的なドラマやジャンル映画を生産して出さなければならないということだ。つまり、日本の映画は同時代のアジアの芸術映画を現代的な美学を駆使しながら空席を担当すること - 再びアジア映画の外になることで重心を生み出すことを、中心として外部になることを - 強いられているわけだ。

そのような場所にいなければならないという強制から抜け出そうと早くから努力した人々は蘇信弘、黒沢清、青山真治、てしまう國利などを挙げることができますが、これらの映画は、まだこれまでの努力にふさわしい評価を受けていないと思われる。ここ一年何人かの日本の監督たちはもっと実験的な方法で、ある種の概念図式を日本映画のスタイルと融合する作業をしようとしたが、小林正弘の "危機の女たち"と真理子哲也の中編映画 <いい日が>がその中で最も注目に値して、非常に巧妙だと言うことは難しいが、面白い作品らでは山本雅史の <スリーフォーポインツ>と石井そごう(石井学類に改名)の"生きている人いますか? "を挙げることができる。一方、昨年の日本映画界が輩出した最高の成果である富田勝也の "サウダージ"が同時代のアジア映画と日本映画のギャップを正確に認知しながら、その両方をジグザグに行き来する戦略を取っているという点は興味深い(ブラジル出身の移民とタイとフィリピンなど東南アジアから来た売春婦たちが日本人と絡んで生じた文化的な対立というのも、その形式的パターンにとてもよく似合う)。いつも従来どおりの、新たな美学は、窮地に集まったときに発芽法である。

文:ユ・ウンソン 2012.02.10 Share it
by kazem2 | 2012-02-10 22:13