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CINE21 [映画を読む]音楽は死に挑戦する

☆cine21.com
リアリストのダルデン兄弟が"自転車に乗った少年"でベートーベンの"皇帝"を使った理由は、
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※この文には"自転車に乗った少年"の内容のネタバレがあります。

最初は耳を疑った。ダルデン兄弟の映画で音楽が出るかは予想できなかった。しかし、導入部からの脱出を試みていた主人公の少年は、保育スタッフにつかまえられるとき、その彼が落胆して歩いて行く時、私たちの耳に聞こえた音は、ベートーベンのピアノ協奏曲第5番、別名"皇帝"の第2楽章です。映画で音​​楽が使用されることは極めて当然のことだ。しかし、それが厳格なリアルメダリストダルデンの映画であるときは、話が変わる。

<皇帝>、ダルデン兄弟初の映画音楽
ダルデンの映画で音楽が使われたことはなかった。今後の映画内に音源があり、音楽が聞こえる場合はあったが(ディジェシス)、一般的な映画のように映画の中の現実を無視したまま、外部からの音楽を与えた場合(非ディジェシス)はなかった。つまりダルデン兄弟は音楽を書くときも、それが画面の中のリアリティーを取得した場合に限られていた。そんな時も感傷的な音楽は避けた。ところが今回は、ただ感情をコントロールするために、外在的な音楽を書いた。私たちは、音楽がどこで出るのか全く知らないまま、ベートーベンのピアノ曲を聞くのだ。

このような音楽の使用は一般的な映画では自然なことだ。しかし、ダルデン兄弟には大きな変化である。厳密に言えば自分たちの固有ミハクインリアリズムの悲惨させた。映画の中の現実ではない音楽をドラッグするならば、それはリアリズムの公式を違反したからだ。ところが、私にはまさにそのような変化は"自転車に乗った少年"をより一層魅力的に見えるようにした。映画音楽の人為性、または新派的態度を軽蔑しそうなダルデン兄弟が節約するように少しずつ聞かせは、ベートーベンのピアノ曲は、劇的な緊張とカタルシスはもちろんのこと、音楽の崇高さまで美しく配信しているからだ。

"皇帝"は、ベートーベンの最後のピアノ協奏曲です。帝国の首都であり、ベートーベンを受け入れた音楽の首都ウィーンがナポレオンの攻撃を受けて風前のともしびの時に作曲した。もう耳は聞こえておらず、共和主義を裏切ったナポレオンの恨みが運命論に達する時だった。空の音楽界の"皇帝"であったベートーヴェンが、戦争の残忍さと人生の地獄に恐怖を感じる時に作った曲だ。派手で壮快な1楽章から始まったこの協奏曲は、死のように静かな2楽章を経て、再び1楽章の派手さを繰り返す仕組みだ。映画の中で書いている部分は、第2楽章"アダージョ運ポコモソ"(Adagio un poco mosso、ゆっくりだがやや活発に)である。1楽章はピアノ協奏曲の中で最も華やかな部分ならば、2楽章は、嘆きは出てくるビガダ。映画はこの雨を四回にわたって分けて利用している。4膜構造のドラマを引っ張っていく転換点ごとにベートーベンのアダージョが聞こえてくるのだ。

最初にこの音楽が聞こえるときは、まるでソナタの導入部で主題音楽が演奏されるように、短くて強烈な弦楽器の悲痛さが脱出に失敗した少年の落胆を慰める時だ。映画は典型的なダルデンスタイルだ。私たちは、少年がなぜ脱出しようとし、父と離れて住む理由が何か、今どのような問題と格闘しているのか全くわからない。彼らの映画はいつものように約20分ほど経過して全体のストーリーの方向性をつかむことができる情報が一度に押し寄せてくる。しかし、導入部の胸を斬るような短いアダージョは、映画に対する観客の態度はある程度決定している。我々はまだ話がどこに流れるかは分からないが、ベートーベンの悲痛さに既に感染しているのだ。

第二の使用は、映画の中盤部だ。少年が、自分は父から捨てられたという事実を知って、車の中で自害する時だ。ダルデン兄弟映画の人物たちが、通常そうであるように、少年の父親は、資本主義の犠牲に、ジョルジオアガムベンの用語を借りれば、"ホモ サケル"だ。誰も見る人がいなければ、どこに置いてしまっても誰一悲しむそうにない追放された人間である。ところで制度で押し出されて捨てられた彼は困ったことに金を儲けるとして、換言すれば不可能な夢をかなえるとして、自分の子供を捨てた(捨てるべきである)だ。少年は、自分が捨てられたという事実を信じなかった。ではないと信じてと思わなかった。だから二回目のアダージョが聞こえるときは、少年の世界が崩壊した日、いわば"家族ロマンス"が無惨に壊れている日だ。理想的な父は全く存在しなかったのだ。最初のアダージョよりやや長く、音楽は慰めるように演奏されて、私たちは泣いている少年を見る。

ダルデン兄弟の映画はいつも社会的な問題への批判の刃が鋭くなっている。残酷な運命の前に涙ぐむ契約職労働者("ロゼッタ")、新生児を売っても、一日を延命しようとする放浪者("ザ・チャイルド")、人の尊厳を放棄しなければならない外国人労働者("ロナの沈黙")など、私たちの時代の矛盾を露出する犠牲者たちがこの映画の主人公だ。人の意志ではなく、制度の矛盾のために地獄に追い込まれた人物たちを見ていると、私たちが作った文明というのは考えてみれば資本家の陰謀に過ぎないだろうという疑問がするほどだ。このようにダルデン兄弟の映画は、社会的テーマに傍点がつけられている。

メロドラマの中の"自転車"
ところが、"自転車に乗った少年"は、このような映画的な態度にも大きな変化をもたらした。ナレーティブの構造を見ようとすると"自転車に乗った少年"はメロドラマだ。父 - ウィタンモ(類似の母親) - 少年の三角関係は、典型的な家族のメロドラマの枠組みだ。唯一血の繋がった実父から受けようと思う'当然の愛'が拒絶されるところでメローの葛藤が生じる。一人は、しつこくしがみついて、もう一人は非情に背を向けるの話は、数多くのメロドラマが繰り返される関係だ。少年の夢は、拒否された家族関係を復元するためにあり、実父がしつこく訪ねてくる息子を、まるで"変身"の虫を見るように避ける。

少年が夢見る復元された家族は、自転車に象徴化されている。いわば自転車は他人のように家族がいた幸せな時代に戻ることができる唯一の​​手段である。その少年は、サイクリングに掛かる。自転車に乗る時は、家族関係の回復への希望を置いていない時だ。二番目にベートーベンのアダージョが演奏される部分、すなわち自害する時から再び少年が自転車に乗って一人で道を走る姿が見えるまで、この音楽が比較的長く演奏されるのは、いわば少年の家族への願いが切実に表現された部分である。

自転車のこの映画の象徴はもちろん、ヴィットリオにシカゴの"自転車泥棒"(1948)から出てきた。ここでも、父 - 母 - 子の三者で構成された家族のファンユがまさに自転車だ。自転車は家族の一部であり、家族の絆を結ぶ安全な装置だ。その自転車を盗まれており、家族は危機を迎える。いわば"自転車泥棒"という言葉は"家族の泥棒"に書き換えることができる。父と息子が盗まれた自転車を取り戻すために一日中ローマ市内を歩き回るのは墜落の危機の家族を救おうとする心焦がれる心情だ。<自転車に乗った少年"も、自転車がなくなったところで、つまり家族がいなくなったことから始まる。

見捨てられた人々は愚かにもその傷を繰り返して確認する。これもメロドラマの古い常套性の中の一つだ。
アダージョの第三の使用は、そんな時に演奏される。少年は、捨てられた事実を知って自害までしたが、愚かにも、また実父を訪ねる。父がお金がなくて、自分を捨てた誤認(誤認したい)少年は、犯罪を犯してできたお金を持って、父にもう一度掛かる。少年は切実な目つきで手に紙幣を入ったままお父さんを眺めるが、冷酷に夜に道端で捨てる。またしても捨てられた少年が自転車に乗ってウィタンモに戻るとき、"皇帝"のアダージョが演奏されるのだ。三番目のアダージョは、少年が自転車に乗って夜道を一人で走る姿を背景に演奏になってそうなのか、前のケースよりも感情的に感じられる。

死に挑戦するオルフェウスの音楽
"音楽は死に挑戦する。"スロベニア学派のムルラデン トルラルが<オペラの二番目死>で解釈した音楽の本質だ。彼の立場は根拠は、オルフェウスの神話だ。オルフェウスは音楽で、地下世界の神ハーデスを感動させて死んだ者、すなわちエウリュディケーを生かした。いわば死という避けられない運命にも、音楽が持っている嘆願、あるいは念願の切実な力で変えることができるということだ。その音楽は、あえて死に挑戦するという。

ベートーベンのアダージョが最後に聞こえてくるのは、映画の終結部である。少年はその日の夜、すぐにお金を持って父に冷酷に追い出された日、事実上の大人になった。その日は、夜の外出を阻止しようとするウィタクモの腕をはさみで刺し、路上に出てきた、いわば類似(類似)父親殺害をして出てきたが、愛の対象から冷酷な拒否を再確認した日だ。つまり、少年はその日の夜、幼児期のしきい値で押されて、大人になった。今、彼はもう戦うときは相手を口でかみちぎるグスン期の少年ではないのだ。その日の事故を克服した後、ウィタンモと一緒に自転車に乗るシーンは、新しく始めた、家族関係のスタートを見せてくれる瞬間だ。少年が最初に望んだ家族関係は別にあったが、世界を少し知ることになった今では、制度としての家族関係を理解することです。ここで、映画が終わってもいいのに、映画はエピローグのような余地を残した。犯罪の被害者の息子が復讐するために投げた石迎え、少年が木から落ちるシークエンスだ。

少年は死んだように倒れていて、投石された少年と彼の父親は、事故死に虚偽の報告するために、盛んに話を合わせている。私はこの時、実際に少年が死んだと見た。ところが突然、少年が起き、よろけて再び自転車に乗って行く。この時、最後にベートーベンのピアノ協奏曲が演奏される。今回は、エンディングクレジットがくるまで、2楽章をほとんど聞くことができる。

死んだように横になっていた少年が起きる行為には、復活の感がにじんでいる。その復活に使われた音楽が、やはりベートーヴェンのピアノ協奏曲です。オルフェウスの音楽のようにベートーベンのピアノ曲は、少年を起こして立てている。死に挑戦している音楽とはまさにこのような場合ではないだろうか。オルフェウスの嘆願している音楽を、我々は聞くことはできませんが、おそらく、"皇帝"の第2楽章と似ていないだろうかと思う。少年が、家族への念願を現わすたびに、私たちは、ベートーベンのアダージョを聞いた。いわばベートーベンのアダージョは、オルフェウスの嘆願の音楽だ。そのアダージョのダルデン兄弟は、少年のテーマ音楽として使用している。すぐにオルフェウスの切実に願う心は少年の心であり、その感情は、ベートーヴェンのアダージョと演奏されている。<皇帝>の第2楽章は死を動かすような崇高さを持っている。幼児期との別れ(死)に傍点を撮って、もう大人の道(復活)に入った運命の音楽であるわけだ。

ダルデン兄弟は"自転車に乗った少年"で、美学的な転換点を示した。厳しいリアリズムの態度を少してしまった。それとともに、メロドラマのジャンルの公式にもドラッグして書いている。メロ(melos:音楽)であるため、音楽が自然に必要かどうかも分からない。ところが、このような変化が観客との関係をさらに幅広くするようだ。今のところダルデン兄弟の名声は、シネフィルやヨーロッパに限られた感がある。音楽とジャンルの枠を一部借りたが、世の中を眺める自分たちの鋭い視線を失わずにいて、次の作品をもっと期待させる。ダルデン兄弟の変化は、デビッドクロネンボグが"M. バタフライ"(1993)を作成するときの変化を思い出させる。ホラーとSFの混成カルト映画監督だった"変わり者"クロネンボグは、最初は自分の変化について、いくつかから商業的な変節という批判も受けたが、今では、いつのまにか、"生きている代価"になっている。

文:ハンチャンホ 2012.01.26 Share it

映画を観ていて思いもかけない音楽が流れてくると色々と考えてしまいます
私は監督がどうしてこの曲を選んだのかと思い 嬉しくなることのほうが多いです
by kazem2 | 2012-01-26 23:00