ANEMA E CORE


by kazem2
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

CINE21[全英客桟]あなたは今どこにあるか...映画「奇跡」

☆cine21.com
賢い肯定とぞっとする現実に対するあきらめ<本当に起きるかも知れなくて奇跡>を見た後
始まる憂い
e0109292_19303941.jpg




"誰も知らない"の無責任な母親は、幼い子どもたちを残して家を出た。
ママを待っていた子供たちは、怒りや泣くことなく、いつのまにか自分たちで生きていく方法を学ぶ。
"歩いても歩いても"では、長男の法事のために分散し住んでいた家族が、親の家に集まる。一緒にご飯を食べて写真を撮って話を交わしたが、彼らの心が交錯し、実は別の記憶を見つめている。
是枝裕和の家族の映画は、家族間の抑圧された感情が爆発している劇的な契機を用意して置かない。
感情的な解消後の和解や結束は不可能であり、重要なのは、彼らがどのような形でそれぞれの生活を送っているという事実であり、その人生はいつも別れや死を抱いていて、それが是枝裕和を見て(家族の)現実だ。両親の離婚で離れて暮らすことになった浩一、龍之介の兄弟と彼らの友人、家族を中心に構成された<実際に起こるかもしれない奇跡>(以降<奇跡>)の世界も、上記の二つの映画の間のどこかに存在するようである。

何の役割もしていない空っぽの父母の位置
映画の中で光一が授業時間に読まれる谷川俊太郎の"生きる"という詩はこう始まる。
"生きるということ/今生きているということ/それは喉が渇くということ/木の葉間の日差しが眩しいということ/ふとどんなメロディを思い出させてみること/くしゃみすること/あなたの手を握ってみること。"この詩は言ってみれば<奇跡>が捕まえる生の感覚、すなわち、なじんで日常的なことが新しい感覚で光る時の充満するということが結局は奇跡だと話す映画の視線を代弁する。監督がどこかで"多くなく、明るくて暖かい映画"とこの映画を表現したことがあるが、上の二つの作品が伝えた家族と生と死に対する苦痛だったり寂しい真実を思い出させるならばとても違った話ではないだろうか。<奇跡>にはそのような真実がある日、無心に子供たちを強打してしまったり、誰かの死に顕現させるのではなく、子供たちの無邪気で爽やかなオーラに、その真実を積極的に成長談の中で経験するようにする。しかし、それがすべてだろうか。是枝裕和の既存の作品と<奇跡>の間にはこれよりも注目すべき違いがある。

私の意見で是枝裕和の劇映画のリストから"奇跡"だけに、今、日本の世代論を、あるいは世代の関係をのぞき見た映画はなかったようだ。家族の中で三代の風景を見せてくれる時も、その風景の微妙な亀裂は、世代ではなく、その家族の個人的な歴史の中で説明された("幻の光""歩いても歩いても")。大きな枠組みで見ると、<奇跡>やはり家族の話だが、三代に渡る人物たちの事情は、家族の脈絡内で収束というよりは周りの同世代集団を経て、世代論的に拡張されている側面があり、そして、我々はこれらが共存しているように膳をこしらえて是枝が眺める、現在の日本の社会の姿ではないかと、おぼろげに推測できる。これに加えて、何よりも火山が噴火している場所が映画の背景となったので、<奇跡>を2011年に日本大震災後の生活にどのようなコメントを読むかの誘惑を感じる。死を間近にして、廃墟の土地を、過去に埋めて子供たちは、どのように成長するようになるか。その現在の責任を負わなければならない大人たちはどんなふうに人生を支え、どのような未来を準備しているか。もちろん映画は、地震の前に企画されており、監督自身がそのような解釈の境界を示しているという事実を念頭に置けば、このような質問をいくつか別の方法で変更する必要があるかもしれない。

例えば3月11日の大地震をあえて名指ししなくても是枝は、"誰も知らない"を作ってからのインタビューで明らかにした過去の告白を<奇跡>にドラッグすると、再び考えてみるとどうだろうか。彼は自らを、"学生運動に失敗した上の世代を憎悪しながら、非政治的に生きてきた世代"と定義しながらも、自分が90年代の?後半に起こった阪神大震災やオウム真理教事件など、日本の緊急の現実と社会的トラウマから自由でないが事実を打ち明けた。しかし、知らされたように、初期のドキュメンタリーの作業の後に、彼はずっと生と死の前に立った人間、個々の記憶と内的風景に深く掘り下げてきた。私は彼が<奇跡>に至って初めて、日本の社会での自分の矛盾した(世代的)アイデンティティと彼が意識して"今の時代の肖像"を、自分の前と後の世代間の関係、あるいは世代のそれぞれの物語の中でどのくらいに直面していると思う。その方法と視線が露骨であるか、攻撃的でないし、多少緩いのは事実だが、むしろそのため、"奇跡"は、多くの場合、思ったより冷静な映画になる。個人的にこの映画は、是枝裕和の映画的な進展だと言うのは躊躇しや、そのような点について、一度はじっくり考えてみる必要があると思っている。

多くの場合成長映画の図式の中で世界は子供と大人のそれと両分される。多くの場合、大人の世界は、抑圧的な富(父)の世界に存在するか、完全に欠如したり、場合によっては成熟し、寛容な世界に存在している。
この図式を<奇跡>にドラッグすると、不思議なのは子供の親の席だ。彼らは上記の3つの場合、どこにも属していない。彼らはそこにあるが、何の役割もしていない、がらんとした場所に存在している。光一龍之介のお父さんは"父"の座を拒絶する。彼はこの世の中の"無駄な"人としての自由を享受して考えている。母親は、夫が去った後、酒に酔って泣く日以外は、このような状況に介入する意志がないように見える。友達の親たちもまた同じだ。俳優の道をあきらめて、今では夫なしで居酒屋を立てる母親は俳優を夢見る娘にあきらめを教える。あるいは後ろ姿だけで登場する誰かのお父さんは息子の切実な願いにもかかわらず、返事せずにパチンコ場を出入りする。これらは、我々は、常套的に見てきた子に執着したり、暴力的な親の形状とも異なっている。これらは極めて利己的、無関心か、困っている。そのようにただ、自分の人生だけを生きる。社会的な自意識過剰なんてなく、子供たちに何かを要求したり、人生の価値を譲る考えもしない。とにかく映画では、この世代は、大人にされていない、または、大人になることを躊躇したり、その必要性を感じることができないように見えるが、映画はその練乳を確認するのに時間を費やすことはない。ちょうど映画がそれらをロストジェネレーション(戦後のベビーブーム世代の物質的な豊かさを享受して育ったが、1990年に始まった日本の長期的な経済低迷の真ん中に投げられたの世代)と想定しているという推測をするだけだ。

共鳴なのか、成長か、諦めか
代わりに、ここで親から分離された子供たちの世代に共鳴する人々は、祖父母世代だ。光一の旅行秘密を適切に知る者は祖父だけで、おじいさんが懐かしむガルカン餅(正確に言えば、過去のその時期)を一緒に作って分けて食べる者は光一だけだ。回復不可能な喪失の時代を生き、過去を享受している祖父との意志とは無関係に行われた、理解できない喪失の前で奇跡を待っている孫、孫娘たちは、幽霊のような、親の世代を飛ばして命を一緒に感じている。旅行に上がった子どもたちに寝床を提供してくれた老夫婦のいたわしい事情も思い出してください。おそらくこの子供たちの両親同じ年頃である彼らの娘はかなり以前家を出て行って便りが切れたし、その空席を一夜騒然と満たしてくれるのは孫娘程度なる子供たちだ。その日、そのうち一人の少女の濡れた髪を丁寧に櫛を入れてくれた老人が尋ねる。"お母さんがこのように、いつもとかしてくれるの?。"高齢者を眺めた少女の答え。"いいえ、私よ。"中間世代の空っぽの席が与え欠乏と寂しさを彼らはお互いを眺めて慰める。ただ、今の快楽に没頭したり、ただ循環している世俗の時間にとどまっている親の世代が人生を抱えている死を無視すると、この二つの世代は、それを別の場所で、一緒に見つめている。例えば火山が爆発してしまうを望むが、その言葉に込められた死の意味を悟ることになる、生きていく日が多く、孫と人間ではない山の立場に立って、噴火は、山が生きている証拠だと言って、死が近い祖父の間の食い違いの話は、奇異に触れている。

取り返しのつかないことは、取り返しがつかない。子供たちが奇跡を叫ぶ場面よりも重要に見えるのは、まさに彼の後で子供たちと向き合う場面が墓場という事実だ。死んだ犬は存続できないし、別れた両親は再会することができず、おそらく父はパチンコをやめられないものであり、洗い流された火山灰は、元に戻すことができない。光一がそのように望んでいた家族の結合を個人的な悩みの方に押されて、今や世界を心配すると言うとき、その"世界"が彼のヒッピーのお父さんが薦めた、あるいはそのお父さんがとどまっている"世界"のようなのだろうか。あるいは彼が家に戻ってそのように嫌いだった火山を眺めた後、唾つけた指一つを空にしばらく広げて“音、今日は裁可積もらないよ”と話す時、その心境の変化をどのように読まなければならないだろうか。私達は映画の半ばでこれと同じ行動と話を祖父がしているのを見た記憶がある。数十年をここで生きてきた高齢者のその行動は、人間の力でどうすることもできない環境に適応する知恵のある肯定的かもしれない。しかし、ここを残しするしていた少年は、数十年を山の老人の行動をそのまま繰り返すことは成長なのか、諦めか。それとも成長は、最終的にあきらめか。私はよく分からない。ただ少年の行動を思い出すと、映画の意図とは関係なく、何度も恐ろしいイメージがここに重なっているのは仕方がない。自然活動である火山の噴火ではなく、人材による原子力発電所の漏れをじっと眺めて同じ行動をする子供の姿。
是枝裕和の場合、この想像を至極の誤読ということは本当らしい。しかし、共鳴していた祖父母の世代が消えて、頼ることができない親の世代を眺めながら、この現実を担当する誰もいない状況では、この子供たちはどのようにかきわけて行くのだろうか。
監督は、今自分の場所をどこに置いている。
映画の外の現実に戻った私は、最後の場面が何度も首にかかる。

文: ナム・ダウン 2012.01.19 Share it
by kazem2 | 2012-01-19 20:48