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CINE21[外信記者クラブ」小さな点と大きな文脈

☆cine21.com英語原文付
故キム・ギヨン監督が韓国監督で留まった理由(2006.06.16記事より)
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観客との対話でパク・チャンウク監督がキム・ギヨン監督に対して話すのを聞いたことがある。
‘もしキム・ギヨン監督が韓国でない他の国で生まれたならば今日映画界で世界的な代価と認められたこと’という話だった。 キム監督は1960~70年代に映画監督で作業するに当たり越えなければならない障害物が検閲、物的資源の不足、支持を送らない観客などとても多かった。 ところがパク監督が言及したのがこういう実質的な苦境ではなかったと考える。 <下女>私<離於島(イオド)>のような映画はこういう障害物を克服するのに成功して映画媒体を大胆で革新的な方向で押しつけた。 しかし世界映画界は決して知るようになることができなかった。 キム・ギヨン監督は小さい国に閉じ込められていたし、彼は永遠に世界的な監督でない韓国監督で留まっている。
現代小説家ミラン クンデという<考える存在の美しさ>という本でチェコ作曲家レオ時ヤナーチェックに対して類似の話をしたことがあった。 20世紀の最も革新的な作曲家中1人にもかかわらず、彼が初めてのオペラを作曲して20年が過ぎた1906年にそれが海外で上演された。 (そしてその時になって彼の革新ら中多くの部分はこれ以上新しく見えなかった。) 故国の‘小さい脈絡’内で見た時彼の音楽は変で理解できないことだった。 現代音楽という‘より大きい脈絡’の中で見てこそ意味が成立することができたことであったのに、そのような観点で彼を見た人は殆どなかった。

クンデという“接近しにくい言語の後に隔離されて、小さいヨーロッパ国家(彼らの人生と歴史と文化)は良く知られなかった。 人々は自然に彼らの芸術が国際的認められることができない理由で言語が一次的な障害と考える。 しかしかえってその反対だ。 彼らの芸術を邪魔するのは全てのものとすべての人々(外国人らだけでなく批評家、史学者、同胞らまで)が芸術に大層な民族的肖像画を結びつけて、置いてくれようとしないところにある。”

残念ながら事実はフランスや米国のような大きい国の芸術家ならばこういう地域的脈絡化ではるかに簡単に抜け出すことができて、それで芸術家としてさらに真剣に考慮されやすいということだ。
デービッド リンチを‘米国監督’と描写する時はあたかも彼の目色を描写する時と違わない。
彼が所属した文化の代表者ではなく、根本的に一個人で見なされるということだ。 密接に結ばれた家族とも同じ韓国で生まれた監督の場合そうなるということは容易なことでない。

ホン・サンス、キム・ギドク、パク・チャンウク、ポン・ジュノ、キム・ジウン、チャン・ソンウ…. もちろん彼らは韓国映画を作る。 彼ら映画に出てくる人々は大部分韓国人で、作品の偉ぶる文化と歴史も韓国のことだ。 しかし彼らの芸術それ自体は韓国のことか?

自身の潜在的可能性をみな実現しようと思う芸術家に、いつか故国の社会的慣習と期待から抜け出すことが必要になることができる。 クンデという小説家アンドレ ・ジイドの話を引用する。 “自分だけの家族、自分だけの部屋、自身の過去よりさらに危険なのはない…. そんなことを離れなければならない。”それでも芸術家らならばみな移民に行かなければならないということではなくて、故国での圧迫のために後に退くのでなく世界芸術共同体に参加しなければならないということだ。

もし韓国の一番有名な監督が地域的関心事を捨て始めるならば韓国はどのように反応するだろうか?
もし彼らが海外に映画を作りに行ったり彼らの作品がとても‘見慣れなくて’、‘個人的’や‘異国風’で感じられ始めるならば話だ。 権威ある大学に留学に行った愛する息子や娘を眺める誇らしい両親のようにそばにいるだろうか? でなければ背信に歯ぎしりして背を向けてしまうだろうか?

5年前の記事です
今ではホン・ジュノ、パク・チャヌク監督をはじめ 名前が上がっている監督たちは世界の映画界に名を馳せています
アンドレ・ジィドの話も久しぶりに聞きました^^
by kazem2 | 2012-01-07 13:32