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[ジン・ジュングォンのアイコン]修辞の戦争

☆cine21.
論理が要求される修辞学の技術
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今日の"修辞学"といえば、ほとんど軽蔑語でされるが、古代の修辞は、自由市民が持つべき教養の一つであった。"人間は政治的動物"というアリストテレスの言葉は、"ポリスの一員となって政治に参加して初めて本当の意味での人間になることがある"ということを意味した。少なくとも民主主義社会での政治というのは、最終的に多数の支持を獲得する事で、そのためには、まず国民を説得する必要があった。修辞学は、すぐそこに使用される技術であった。政治を通した人格が完成されると信じている社会の中で修辞も、人文教養だった。

ゴルギアスとソクラテス
当時は法廷でも利害関係者が​​陪審員の前で、直接言葉で勝負をつけたので、公的生活だけではなく、私的な領域のためにも修辞学は、非常に重要だった。哲学史では、"ソフィスト"と呼ばれるこれらのほとんどはそう普及したように説得の技術を教える人々だった。広く知られているかのように哲学者たち、特にプラトンは、これらをあまり好まなかった。今日、ソフィストが最初から詭弁論者の代名詞となったのは、これと関連している。哲学と修辞の葛藤を示すプラトンの対話編がある。まさに、"gorgias(ゴルギアス)"方だ。

ゴルギアスは、今日で言えば"論客"。彼は敢えてソクラテスの前で自分の落語を自慢し始める。いつか手術を受けなければ命が危険なのに、必死に体にメスを入れることを拒否する患者がいたという。医者も彼のこだわりを曲げることができなくて説得を断念してしまったのに、自分が出て、いくつかの言葉の言葉で彼を説得し、最終的に手術を受けることにした。だから、もし、市の代表を選ぶ民会が開かれ、医師に自分が出馬すれば人々は、果たして誰を選出するのかということ。もちろん、これらの自画自賛が老獪なソクラテスに通じるわけがない。

ソクラテスの反論、簡単、明瞭である。たとえば、数学者は、情報を使用し、他の学者たちを説得して、医師は専門的な医学的知識と患者を説得する。しかし、ゴルギアスて、医学と関連して、君に"エピステメ"(epistheme)、すなわち、真の知識があるか。もちろん、流れ者の論客にそのようなことがあるはずがない。しかし、君は、患者を説得することに成功した。しかし、真の知識を持って彼を説得したわけではない。一言で君は真理なしで説得した。しかし、誰かを、真理なく、説得するのと同じくらい危険なことが再びあるだろうか?

怪物のレトリック
プラトンは大衆は臆見に巻きこまれやすい存在と見た。gorgiasが自慢し次第、本当に民会で真の知識なしで説得の技術だけ持った者が選ばれるならば果たして国の姿が何になるだろうか?
プラトンが民主政治を懐疑したことはこのためだった。これがどこに古代にのみ適用される話だろうか?
ドイツは真理ない説得で大きな歴史的誤りを犯さなければならなかった。よく考えることと違いナチは徹底的に民主主義的な方式で執権した。彼らは宣伝扇動をして大衆を説得して自分たちの側に作った。

一方、ゴルギアス篇で注目すべきもう一つの大きな課題がある。まぁゴルギアスは、医師も納得していない患者を説得し、結局、彼の命を救うことに成功した。彼の言葉が事実なら、なぜ、彼を非難すべきだろうか?問題がある場合は、むしろ真の知識を持っても、患者を説得していない医師の無能さに求めるべきではないだろうか?あるいは、こう話すことはできないか?ゴルギアスは、捜査的能力で、患者を説得し、医師は医学的知識に患者を手術した。二人の協力により、患者は命を救った。Good job。

これには2つの両極端が存在する。一つは、説得力がない"エピステメ"、もう一つは真正性がない"レトリック"だ。1930年代のドイツ社会は、真実からかけ離れたレトリックの狂気にとらわれていた。ゲッベルスに代表されるナチスの宣伝扇動は、経済危機で無力感に陥っていたドイツの大衆を完全に魅了したのに対し、ナチスの主張が虚偽であることを知っていた知識人たちは、ナチスの政治的修辞を無力に眺めながら、自分たちの研究室に閉じこもっていた。ナチスの政権は、このように、エピステーメとレトリックの極端分離の中で可能だったのだ。

真理を捨てるという話でしょうか
真理がハンドルならレトリックは、動力源とすることができる。カントの言葉をパラフレーズする。そこで、"説得のない真理は空っぽで、真実のない説得は盲目である。"問題は、その修辞が多くの場合、真実とかけ離れているということにある。修辞学がほとんど軽蔑語で転落した今日では、政治でも、修辞が乱舞する。重要な選挙を控えていたり、重要な政策決定をしなければならない時が来れば、政治家たちは大衆を私方で作成するために、いろいろな種類のレトリックを駆使するものだ。その結果、マスコミを通じて修辞の戦争が起るようになる。

修辞の戦争の中で最も印象的なシーン。第17代大統領選挙の時、保守言論と保守政党は、"盧武鉉候補の職人がパルチザンだった"と攻撃した。これはもちろん、盧候補に赤の色の変更のための不当な攻撃だった。連座制を禁止することが、すでに私たちの社会で合意された法の常識だからだ。普通の人なら、"私は無実だ"と弁解している途中のペースを失っているだろうが、盧候補は、適切な修辞的に危機をむしろチャンスに変えてしまった。"その後、妻を捨てるのですか?"全国の妻たちは、この一言に深い感動を受けた。

ロジックは、論客の実力なら、修辞学は、彼の武器だ。例えば、洪準杓ハンナラ党代表がパク・ウォンスン候補に向かって、"聴聞会レベルの検証をする"と述べた。もちろん、もちろん彼の話がなぜ適切でないのか句句節節問い詰めていって論理的に反論をすることもできるだろう。

しかし、それでなくともあふれる情報の洪水の中に浸すだけのようなこの時代に、その長い話を聞いてくれるほど暇な国民はいない。この場合、短い、論理防御と政治的な攻撃を同時に行うのが適当であろう。"ハンナラ式聴聞会ならばユ・ヨンチョルも長官になったこと"

修辞学の道理
修辞学の目的は、人々を説得して特定の方向に動かしていることにある。論理は行動につながらなければならない。ため、修辞学は、脳と身体を結びつける、すなわち、大衆の感情と情緒を向ける。それは時々怒りを、時には同情を、時には感動を、時には笑いを誘う。私の場合は笑いを好む。ヴァルターベンヤミンが言ったように、"場合によっては、横隔膜の発作は、より大きな真理を伝え、"るからだ。このように感情を刺激して行動するように作るという点で、修辞学は、扇情的な(煽情的)であり、炎症性(煽动的)である。

そのための修辞は、非常に危険な武器でもある。たとえば修辞は、論理学ではないから、そこには、課長(いわゆる"修辞的な誇張")があるものだ。先ほど上にすべての例にも課長は存在している(いくら、ハンナラ党も、まさか連続殺人犯を大臣に任命するのか?)。しかし、これは過去に聴聞会で私の候補者のあらゆる疑惑を覆い与えていたハンナラ党の行動を浮き彫りにするための文学的装置紙、、文字通り、彼らは凶悪犯を擁護するわけではないであろう。大衆もそれを知るにその言葉に驚愕することなく、笑うのだろう。

修辞学は、琴線に触れる為、多少の誇張と歪曲を可能にする。いわゆる"政治的正しさ"から少し外れも許される。運転にたとえると、走行をしてこそこそと相手側の車線を踏むのと同じだとか?しかし、そのいずれの場合も、修辞、論理の車線を超えてはならない。その場合、修辞学は、例えば、ゲッベルスのそれのように非常に厄介な種類の宣伝扇動に転落してしまうだろう。また運転に例えると時々論理の車線を外れても、修辞学は、決してセンターラインを超えてはならない。

文:チン・ジュングォン   イラスト:ジョン・ウォンギョ 2011.10.28 Share it
by kazem2 | 2011-10-29 18:40