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映画「北村の方向」ホン・サンス監督シネ21インタビュー

☆映画「北村の方向」撮影現場風景
☆Source
“映画は言語的な束縛を抜け出してどこかに行ってみようとすること”
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                <北村方向>公開控えたホンサンス監督インタビュー



<北村の方向>は、2010年12月10日から27日まで、7周目にかけて、北村一帯で作られた。六回目の撮影の最後の撮影の間に4、5日の休止期があった。ホンサンス監督が聞かせてくれた、ほぼすべての回答の冒頭だった30余度の"記憶がよく出ないのに"は、省略したことを申しつけておく。<北村の方向>のスポイラーが当然含まれている。

-前作<オッキの映画>は、すべての条件が劣悪な状態で、"このような極限の状況で作成すると、どのようなものが出てくるだろう"という好奇心と"私はどんな状態でも映画を作ることができる"と確認してみたい気持ちで開始されたと記憶している。<北村の方向>の開始はどうだったのか。

= <オッキの映画>を2009年の冬に撮った後、映画祭に通って公開させるてみると何をしたか分からないまま時間がいった。2010年に行く前に、新しい映画を撮ってはならないと考えた。実はその間、全北扶安に行ってきた。扶安で撮る話がよく思い浮かばないため、どこかに入ってしばらく考えて思った。[完了] PDが分かる方が安くしてくれたといって、仁寺洞レジデンスホテルで二日を送ることになった。客室には、高い階だったし、ベランダでタバコを吸ったがすぐに見下ろす町は北村だった。思わず見つめたが向こうには撮れるかよりも思った。私は、江北で行く近所の北村にしかできないこともある。飯屋も似た2~3ヶ所だけ行ってコーヒーも、酒場も行くことにだけ行く。。主人公が一つの場所を3回続けて行く話をしてみようする案(案)しか持って開始した。

- <オッキの映画>は、在籍する学校では、ほとんど撮ったが、今回も監督本人が、日常で多くの時間を過ごす場所が映画に入ってきた格好になった。わざわざ、近所レジデンスを選んだのではないから、最初から偶然が働いたのではないか。

=その日、本当に多い。(微笑)

- <オッキの映画>は、神宮(イ・ソンギュン)の一日を描いた1部作成し、2部、4部、3部の順に一つずつついていく方法で完成された。<北村方向>は、"映画監督ソンジュン(ユ・ジュンサン)がソウルに来る"が唯一のモチーフだったのか?それとも、何人かの人物構図があったか。

=最初にユ・ジュンサン氏定め引き続き順序ははっきりしないがソン・ソンミ、キム・ボギョン、キム・サンジュン氏と一緒にしようとしている。決定していたのは、同じ場所を何度もいくほどで、俳優たちを一つずつ決める過程で断片的に思い浮かぶものをメモする時間が一ヶ月ほどあった。無理やりでも(治療を)使って入ろうか迷って、結局何もせずに入った。<よく知りもしないくせに>する時はただ10ページもトリートメントがあり<ハハハ>も短くなったりしたがあったりしたが、<オッキの映画>は、1部の話だけを撮影の数日前に定めた<北村方向>は、全体の枠組みや展開が全くなく、日記のように時々書いておいたいくつかのメモだけだった。ただ一日一日つけていこう、どうされるか見てみましょうした。直感的に植えられてセリフ一つに次の撮影回送に接続されてほどける場合が多かった。そのように6回までの難しさなしで行った。6回目のバー"小説"をソンジュンが最後に出る場面まで撮って仕上がりを考えるために皆に数日お時間をもらった。雪来る話があるの天候を楽しみにしてという気持ちもあった。

-映画の結末に雪が降るように願ったことなのか。。

=そうだ。そうするうちに、撮影前日の26日にはどのよう撮るのかを決定しベク・ジョンハク、ギ・ジュボン、ベク・ヒョンジン、コ・ヒョンジョン氏に連絡をしている。三方は、偶然にも翌日、事情が許せされ、コ・ヒョンジョンさんは夜に連絡が取れたが、重要な先約がいる状態だった。直接訪ねて、最後のシーンになるのだから申し訳ないが、その約束を先送りにすることはないかとお願いした。ありがたいことに入ってくれた。

-最後の場面の通行人が必ずコ・ヒョンジョンでなければならなかった理由は何ですか?存在感の強い俳優先の内容を飲み込ましまう逆効果を懸念することもできますが。

=もちろん、事情がダメだとしたら、何らかの方法で他の方を求めて表示するんだろう。言葉で説明できなけれただ、そこにコ・ヒョンジョンさんがいてくれたらいいと思った。私は信じて俳優がその場にどかんとなければならないしように見えたし、最初に浮かんだのがコ・ヒョンジョンさんだった。

-人物が動き回る北村の複数の場所で監督の頭の中で中心となったところがあったのか。

=事前に一箇所を決めてみても、店主がある回想撮影後、心が変化することもあるのではないか。場所利用料をたくさん差し上げることができる状態ではないからいつも私の頭底辺には予期できないどんな事情が生じることがある、それで変えるという考えがある。ただ中心に酒を飲む場所というのは知っていた。韓食店"優しさ"でも酒は飲めるが、"小説"があり、路地の姿、"小説"という名前が与える感じ、室内の雰囲気が気に入っていて、そこに決めた。

- <オー!修正>に続いて二回目モノクロ映画だ。白黒に行こうという決断は、どの時点でどのように降りてなったか。

=編集中に一度、白黒に変えてみたところぴったりの感じがしてキム・ヒョング撮影監督に了解を求めた。何度も一緒に作業してみたことだし自分の道を理解してくれる。(笑)単純に押さえる感じもあって...。<オー!修正>もそうだったが私は少しの冬を、特にソウルの冬を白黒で見るとより綺麗に見る面があるようだ。

-ホン・サンスの映画に対して"この映画は何の話か?"という問いは無意味である。モチーフを粘土塊のように監督が投げて置けば俳優とその日の条件がつきながら映画がからだを肥らせていく方式であるから。これで、偶然この映画をスライドさせていくという確信を持って作業しているようだ。それで映画を総括している質問は、"今回は、その偶然がどれだけスムーズに作用したか"にならなければならないようだ。

= 6回までは順調だったという、さっき言った言葉がその答えです。1回目で、ソンジュンが知っている女優に会う場面を撮って、彼女が"学生たちに会うことにした"というセリフを短めに入れた。そして枯渇櫛家でソンジュンが偶然、映画の学生たちに会うが、彼 ​​らは、女優の学生で、後に戻ってくるという考えはなかった。編集されても編集されないでも関係ないからひょっとしたらと思って短く入れたセリフと忘れていたが結局後半部の場面になった。
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- "急げば何も見えない"と、ソンジュンが女優にしたアドバイスが後で製作者(ギジュボン)でソンジュンたちに戻ってくるのも、6回から"20分で、映画に関連する地の四人を次々に会った"は、やりがいの逸話をソンジュンこの体験になったのも同じなのか。

=最後の場面には当然前に撮影された、すべてを使用できるのではないか。どんな作品でも撮影中盤が経ってからはたまに結末を考えている。しつこく心配するのはなくて、たまに意識してああだこう考えてみる。

-の前で撒いたきっかけを徴収する点だから結末部だけは偶然と思うの比率がちょっと違うと見ているだろうか。

=ところで気が偶然によって起こるのではないか。重要な事件とポイントは偶然がほとんどダイだがその間を私たちが人為的に結びつけて一つの塊で作ったり廃棄処分したりもすることだ。


-今回の映画でユ・ジュンサンの衣装は、監督本人のスタイルだ。似た服なのか、本物の監督の服なのか。

=の中に着た上着の撮影初日、私は着て行った服だ。今度は私の服を与えてジュンサンシ服の中にまともなのがいて着ることにしたが、撮影当日、その友達がしきりに私の服を着てといって、ワゴン車の中に入って変えて着ていた。(笑)(これに俳優ユ・ジュンサンが明らかにした真実は単純で、"監督の服だからでなく、服が綺麗そうだった。幼い時に着ていた肘に革パッドを入れられたセーターが好きだったが、最近売ってなくて監督が着ていらっしゃったので貸してもらって着ていた。")

-ソウルに到着したソンジュンの初めてのセリフ、"どの子も中に会って。ソウルを慎ましくて静かにきれいに通過して行くよ。そして家にシュンシュン!"というセリフが強調して印象的だ。

=ソウルにそのような気持ちで来たことを説明するセットアップ(set - up)である。少し早めに行きながら見るのは見て味わうのは味わう程度の接触はあるのだ。それでも知っている人に会って躊躇して座らせてみたいし。言葉では形のみ見るとですが、そんな心がなければ兄を大邱(テグ)で呼び出してたり、兄家に閉じこもっていただろう。

-そうするうちに昔の女の京津(キム・ボギョン)の家の前までのように酒を飲んでいる学生たちを連れて行ったソンジュンが急に性質を利かせて逃げる。それを見ればソンジュンが穏やかな状態ではなかったかよりも好む。普通の映画ならば、ソンジュンの本当の目的地は、京津の家だったが、迷ってそこまで行くために、バイパスを選んだと見る。

=正しい。女の家に行きたい底の心を認めていないんだ。そうするうちに取るかを口実にギョンジンの近くの居酒屋を思い出して、"いいのに行こうと、"学生らを連れて行く。一人で行けばとても自分に明らかだ。実際に到着すると私がなぜこの子らとあるようでお話にならない癇癪を起こして逃げたんだろう。(笑)

-ホン・サンス映画は、旅行に行く映画と行かないの映画に分けられる。今回の背景にはソウルですが、目的地としてのソウルだ。住民のソウルと旅行者のソウルはどう違うのか。一方、ソンジュンはソウルで暮らして地方に引っ越しした立場でもあるが。

=その住民と旅行者のソウルが半々ずつあるのだ。半分は旅行になって、半分は彼のすべての思い出がじっとしているところ。混ざっている空間という点が最初から面白いよ。

-彼と関連して、セックスシーンを除けば、旅行記なのに、ソンジュンの宿がついに明らかでない。どこで寝るかを明示している場面が不必要だと見たか、それとも必ずクリアしないと、したか。

="弟の家が空いている"というセリフが出てきたりする。でも、結局、大きな問題ではならないのは、この映画が日々続いて蓄積されている話のようだが、その日その日はいつも初日のように見えることができる映画だからだ。もし、モーテルでも弟の家でも泊まった出てくる姿が出てくれば、それは明確に、翌日にならないのではないか。

- <北村の方向>と関連して最も重要な部分だ。<オッキの映画>は、ある俳優が演技する同じ名前の人なのに、人物の同一性があいまいなところ、<北村方向>は、時間の同一性が曖昧である。特に酒場"小説"と近くの路地のシーンは、時間が渦巻く場所だ。人物たちはずっと同じ服を着て、2回目出てくる状況を、最初のように受け入れるリアクションもある。一方、映画の一部をかたまりで見ると、その中では最小の先後関係が見られる。

=ソンジュンと零号機(キム・サンジュン)が女優(バク・スミン)と再び会ったとすると、"お兄さんに会うとなるとと何回も会いますね"というセリフが出てくる。それでは先ほどの出会いが先にというのは確認されるが、その両方の出会いが、同日午後1時と4時になされた可能性もあるのだ。また、兄と初めて出会うシーンで零号機がソンジュンから魚の匂いがすると言う。先に京津家で出てくるシーンが、臭いが翌日まで出るはずがないので初日に会った場合もある。そのように感情や情報が蓄積されていく軸があって、毎日が初日のように軸がある。両軸が同時に行ったり来たりする。至っても、別々に存在もしない感じが混合される。

- "小説"の主人、以前(キム・ボギョン)とソンジュンが路地で二番目キスする時もソンジュンは、前回のキスを思い出すのに昔は、知らないことのように反応する。

= 70%は、本当に記憶が起きた可能性があり、30%は、女性が猫をかぶることもできる。言ってみれば蓄積される軸と蓄積されない軸が衝突するのに、壁にもたれてまたチューした後には突然以前がソンジュンを“兄さん!”と呼ぶ。その瞬間、昔この感覚的には京津になってしまう。過去のキョンジンと、今の昔が一体になったような感じを与えたかった。衝突が炸裂してしまうとしなければならないか。

-その場面の台詞も中の的だ。"帰ってくる。も送って"するために、バーの同行を送って、以前に来るような気もしますが、"すべてを捨ててお前に行くね"と、京津たちに言うと聞こえたりする。

=現実的には居酒屋に再びくるという意味で整理がされますが、ソンジュンは、"帰ってくる"という言葉、敷衍して次のセリフを少し外して言う。(その狭間で、他の解釈の余地が生じる。)

- <北村の方向>の時間が異常に流れるの兆しを初めて感じたのはソンジュンと京津がベッドに倒れるショットがソンジュンが彼女の家を出る場面で、ほとんど継ぎ目なく、滑るように接続している場面が出てきた時だった。そこまでは事件との時間を繰り返すことなく、直線的に流れてきたので、普通の映画と同じように観覧したが、その時のタイムスリップが起きたような印象を受けた。その場面を撮影した時点で時間を扱う方法が決定された状態だったのか。

=話したトゥショッは編集しながら減らしたのでなく自然に朝浮び上がって当初そのようにとった。所要時間は、京津家のシーンを撮った翌日だったか、2回目の後にそのように行かなければならないと考えるようになった。

-それでは記者がその編集で受けた感じは映画の後部分によって事後的に重ねてかぶせられたのか。

=前と反る継続そのように互いに影響を与えることだ。
以来、京津のテキストメッセージだけ登場させるか、まったく現在の北村に呼び込むかは迷いがあった。

-結局、路地のチューのシーンで、まるで幽霊のような方法で、京津が北村に手に入れたてきたわけだ。前作の夢のシーケンスが多いが、"北村の方向"には夢がなく、ソンジュンこの条の規定場面だけ一つある。それで以前と京津の一人の女性が夢のシーケンスの位置にあるようでもある。<オッキの映画>とは異なり、キムボギョンさんは、明確な1人2役だが、俳優にどう説明したか。

=そのような部分はあまり話さない方だ。ただセリフを書いて渡して俳優が最初に読み取られるのを見てセリフとシーンの印象を俳優が受け入れるかは、私は望ましい方向であれば何も言うことない。ちょっと誤解されたような言葉があれば修正する程度。私の映画は分析して人物を理解した上で入る映画ではないから。ほとんど何も加える必要がないのを見れば俳優と私の間にどのような作用が明らかに起こるようだ。
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-お酒の席で、ソンジュンが言うセリフにも出てくるが、監督は心理的な動機と結果が直接つながっているということを否定する立場だ。心理的因果に引かれる連続性を生活の中ではほとんど意味がないという立場なのか。

=心理的因果というのは自分がなろうが、他人になろうが観測者が、過去に起きたことを論理的に説明することだ。本人であっても、観測者の限られた情報と、目的によって歪曲されて、観察時の感情の状態によって、また歪曲された結果だ。実際に起きたことを理解する一つの包みにクリョネンというだけだ。その包みは、生活の総体的な映像を適切に描き出したと言うことはできない。巨大な空の包みを当てれのに目の前できつくダニー荷物にしか見えないのだ。ハサミで切ってしまえばすべて出てしまうことだ。

-ということは人間の行為の責任の問題をどのように考えたらよいのか。

=責任という言葉を信じているから何かをすることができると言われて思うのだが、一歩退いて見ると、果たしてそうだろうか。したくてすることができている仕事の責任という話でもして、他の言葉でもしているのだ。

-聞いたら条件にならなくて映画を作れないでいるのか、作らないということなのかという質問に、ソンジュンが、"どのような違いがあるのか"とバン・ムンハンの台詞が思い浮かぶ。夜明けまでお酒を飲んだお客様と酒屋さんが目の朝にタクシーを捕まえて順番に離れる場面がうらさびしいながらも美しい。実際には無くても構わない場面なのに。

=その日の俳優全員が集まったが、それくらいでみんな集まったことで撮影すると、あとで見せてくれる機会がないようだったのが、その場面の単純な理由だ。(笑)撮影済みの俳優たちも行くことがあればいてもらう清が、行ってもできないと思っていたが、みんなとどまっていた。でも、何をとらなければいいのか分からないということだ。(笑)それで、そろそろ表の通りに歩いて出る俳優たちの立ち位置を決めてどうなるのか見た。三テイク行ったのですが幸いにもタクシーが必要なタイミングで到着した。制御か。全くしなかった。記事は通常スンゲクインと思っていたのだ。しばらく行っている途中、タクシーを立てて、基本料金出してもどって来そうだった。(爆笑)

-ファンを自任する女(コ・ヒョンジョン)に写真を撮られる最後の場面のソンジュンの表情のために、この映画は、悪夢のような残像を残すには反応が出てくるようだ。その瞬間の表情をどんな言葉で俳優に説明したか。

=集中する顔を求めていたようだが覚えても出ない。(ユ・ジュンサンの記憶は次のとおりです。"特別な言葉はなかったが、当時はエンディングのシーンが別にあったので、最後のシーンとは思っていない状態だったので、写真の写っている状態だけに集中したが、あとでそのシーンがエンディングになってからラスト新人することができたら、その顔が出てきただろうと監督様が言われた、私もそう思うのなら、それほど不自然な、他のものを意識した顔になったと思う。"一方、現場のすぐ近くにあったジョン・ハンソク記者は、監督が急に体を傾けて"ジュンサンア、雪敷きが急に変わるべきだよ!"と語ったと覚えている。)

-監督様の作業を見守っていると"私の映画が発展して、改善される"という概念がないようだという推測がする。ひょっとして、自然とか、"もっと良くなること"の基準がある。

=私は映画を作る時に堅持する態度と、詳細ないくつかの原則があり、それは時間、人、俳優、無数の偶然とぶつかりながらずっと動いている限り、それでいいと思う。目標点のようなものはない。変わると言うことも嫌いで、どこに向かうと言うことも嫌いだ。

- "動く"と表現したが、頭の中でその運動をどのような形で想像するか?分子たちが流れる運動のようなことなのかピクリ音なのか。

=一度も考えて見ていないのに...。席を移動すること。生活の中で私が行くことができるスペースは、すでに限界が建てられているようだ。有限であり、そこ逃れることはできない。その中で今日はA棟に行って明日はB棟に行って、住んでC棟に行って再びB自動的に戻ることもするのだ。その時ごとに"動いた"という快感がある。同じポイントに戻っても、これまで私が変わったの新しいのを感じる快感もあって。

-ソンジュンは以前と別れて、毎日日記を書くように頼む。監督が考える映画の作成 ​​は、日記の概念と重なる部分があるのか。

=どのような式の日記かによって異なります。普通は責任や世の中のイデオロギーやどんな枠組みの種を持ってそれを私がなぜよく合わせられないか後悔する内容で日記を書く。そんな日記と映画作りは違う。ところが、別の方法で日記を書くには、毎日見舞った日、自分の対応を見ての行為なら、映画作りと似ていることだろう。書くという行為がどのような結果を生み出す点で。しかし、よく使う反省、自己整え、煽ったり、励まそうと書く日記は ​​、映画の作成 ​​に似ている点がない。映画は、言語的な束縛を脱しミディアムを使ってどこかへ行ってみるとすることだから。

ホンサンス監督は、完成された短編<リスト>を9月中に公開する予定であり、今年7月の部ではイザベラ・ウィペル、ユ・ジュンサン、チョン・ユミ、ユン・ヨジョン、ムン・ソリなどと撮った"他の国から"の後半作業を控えている。ずっと雨降った部の母港で、長編映画一編と短編映画一編を相次いで撮影してしまった翌日の早朝。ドントゥは、ベッドと朝食の場に降り立ったホンサンス監督は突然、"あ、映画撮りたい"と独り言をくどくど言って周辺を驚くようにしたという。(特に、キム・ギョンヒPDの顔色は、青くなったと伝えられている。)だから、我々は、2011年に行く前に、彼が十三番目の長編映画を撮るという消息が聞こえても、驚いてはならない。もちろん、あなたの耳にそのニュースが聞こえる頃なら、シュンシュンなされるホン・サンス監督の撮影はすでに完了された見込みは高い。

文:キム・ヘリ 写真:ソン・ホンジュ

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明日いよいよ公開!公開記念<北村方向>シネマトク現場です。
キム・ヨンジン、イ・ドンジンピョンロンガニムとホン・サンス監督イセヨ〜^
by kazem2 | 2011-09-07 21:51