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映画「北村の方向」時間の不透明さを象徴する白黒

☆Source
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                       <北村の方向>の撮影現場



どうやらボイスオーバー、ナレーションの活動を言わずに飛び越えることは難しそうだ。ホン・サンス映画の吹き替えナレーションが、様々な機能を果たすだけでなく、時間の圧縮と拡張にも深い関係があるということは既に明らかだが、"北村の方向"のボイスオーバーナレーションは意外に身軽だ。それがこの映画の吹き替えナレーションの特別な点である。<北村の方向>でボイスオーバー、ナレーションを持つのはソンジュンと京津二人の人物だけだ。しかし、使われ方は相反する。ソンジュンのボイスオーバーナレーションは完全に彼の内面の状態のみを記述する。京津のボイスオーバーナレーションは徹底的に彼女の存在をソンジュンに想起させるためだけに使われる。いわばソンジュンのボイスオーバーナレーションは惑いをされる存在の心理的なボイスオーバー、ナレーションで、京津のボイスオーバーナレーションはいつでも彼を惹きつけると表示される京津という存在の時間的なボイスオーバーナレーションだ。京津はソンジュンにテキストメッセージを送信するたびにキム・ボギョンがそれを読む。決定的にソンジュンが酒場のドアの前に立つと京津の声が登場する。酒屋さん昔(つまり肉体のキム・ボギョン)が食べ物を買いに行ってあげるから、フレームを膜の外に出るとき、その後ろ姿を見ていたソンジュンを刺激する京津の文字(つまり声のキム・ボギョン)が行って飛びこむ。2回飛びこむ。京津の声は一度は静かに思い出を取り上げて魅了して、また一度は自分を捨てたソンジュンを非難し、恐ろしく惹きつけた。とにかく魅せられるのは同じだ。その時目の前に物理的に存在しているその女性、以前と声でちょうど到着した女性京津この張りつめた緊張を成す。その時に魅入ってあれこれしてもできないソンジュンは、思わず二度も目に見える、以前に付いていく。<オッキの映画>のトイレの前でオッキのナレーションナレーションが年配の男(ムン・ソングン)と若い男(イ・ソンギュン)の時間計を合わせて出したパラメータであったことを記憶してだそう。ここでの京津のボイスオーバーナレーションはソンジュンの時間の系を完全に襲ってしまう。

その次に感じなければならないのは夜と昼とその間をつなぐ白黒画面だ。ホン・サンスの二番目の白黒映画だと"北村の方向"を言うのは無用である。この時、黒と白のは、記憶や過去とは関係がない。それよりも、夜と昼の確実性がまず重要です。<北村の方向>の時間感覚は時計で測定可能な物理的な時間感覚ではなく、闇(夜)と明るさ(昼)と呼ばれる明暗の時間の感覚です。人物たちは何時か​​ら何時までどこにあるのではなく、正確に夜と昼、どこにある。したがって、ここでの時間は、(前に)に行くのではなく、ただそのまま昼夜だけ変わっていくのである。変わってはいるが進展しないということがカギだ。それはカラーであっても同じだったはずだ。だから、黒と白のは、その次こそ重要である。白黒の画面が、昼と夜を区別しないように二人をほのかに結びつけることも考えられるが、夜ナトマンな時間というものをより強調するために、ラップとも見ることができる。世の中はすっかりモノクロなのにしかもその中には、意味上の夜と昼だけある時間ということをさらに強調するためにかばうこととも見ることができる。
ホン・サンスならこれを時間を押して、アイロンをかけると言うかもしれない。だから、<オー!修正>の白黒が"記憶の曇り"のためのものであったなら<北村の方向"の白黒は、"時間の不透明さ"のことである。<北村方向>は、昨日や今日の夜と昼が繰り返されるのであり、昨日の夜の後に、今日の昼につながるものではない。

情報と印象が回転し、交差して作り出す認知的錯覚と撹乱も重要である。この点が非常に言い回している。その中でも代表的なのは1人2役だ。ホン・サンス映画の伝統的なものではないかと思います作用がちょっと違う。ホン・サンス映画の1人2役はだいたいどのような存在の"形状"の類似さや同一さや違いに影響を与える。<女は男の未来だ> <劇場前>がそうで、それを展開すると、<オッキの映画>となる。ところが、"北村の方向>は、正確に時間を向ける。人物の存在は、混乱がないのに、彼がすると言うので、私たちの脳が自分自身の世話を​​混同して、悩みながら、この時間その時間を合わせてみようと動くようになる。背筋が寒くなる一場面がある。ソンジュンが一行を置いて、バーの外に食べ物を買いにいった以前の第二付いて行って彼女とキスをするときに、最初は消極的だった昔は、突然"お兄ちゃん!別れて来るですよね?私に?"と言う。その二人は出会ったばかりでいくらも経っていなかったり初めて会ったのではないか。その瞬間に私達の目は以前に見ているのに、彼女のセリフが以前の肉体の上に京津をかぶせる。意味的にそのセリフは無理と今居酒屋で別れ、私は次の私は(以前)に来なさいという話だが、すでにソンジュンと京津の関係を知っている私たちの脳は分かって、それを"私に帰ってきなさい"は、京津の清聞く。ここまでなら存在だけ揺れるのだ。ところでもう時間も揺れるようになる。例えば、ソンジュンは、以前とのセックスを終えて、"私はあなたが誰だか分かるようだ"と言うがその時、以前は"誰だかわからないのに"と言う。それとともに以前は、"兄のようにそう私をみつめた人いなかったように思える"と語る。この時重要なのは"なかったようだ"というセリフの時制が与えるニュアンスだ。それから私達の脳は、映画の導入部で京津を訪ねて行った日にひざまずいて泣いてソンジュンに自分の目を見るように勧めていた京津を思い出す。見られる順序にはソンジュンと昔の神が後ろにあり、ソンジュンと京津の神の前にある。しかし、目を見てのレポートを間に置いて、いざ、その時系列の認知が逆転する。ソンジュンと昔の今の状況は、ソンジュンと京津のかつてのように見えるようになる。過去に、彼らは目を見て、お互いにきれいだと言う間だったからだ。

そして最後に、我々は、これまでホン・サンスの映画についても語られていないものかについての<北村の方向"を契機に言う時が来た。差異と反復がホン・サンス映画のものだといつも言ってきた。それのために大邱(テグ)も対称にも重要だった。しかし、彼の映画での接続と、接続がいかに重要であるかについては疎かだったようだ。<北村方向>が、その点を明確に拡大する。<オッキの映画>と比較するとなればなおさら。<オッキの映画>で、私たちが確言することができなかったのは人物たちの存在感であり、アイデンティティーだった。誰が誰なのか不明なもの。それは<オッキの映画>の謎であった。ところが、今考えてみると<オッキの映画>の、その謎を支えていた重要な役割をしたのはサブタイトルやクレジット、すなわち、その果実の膜区分だったようだ。<オッキの映画>はうまく付けるのではなく、うまく切り離すのが重要な映画だった。

私たちは、<北村の方向>で決してソンジュンという存在が混同ではない。ソンジュンはソンジュンであり、やりがいは価値がある。京津/以前という人物の間の妨害があると述べたが、その二人の印象が妨げられることであって、<オッキの映画>のように彼らの存在を規定することができないところまでではない。<北村の方向"で判断がつかないのはソンジュンと呼ばれる存在ではなく、ソンジュンの時間である。<北村の方向>の違いと反復をあまり目立たないようにした代わりに、接続と接続を強力に露出されたおかげだ。今までホン・サンスは概して多くの映画では一つの大きな全体を想定し、それを分割して再配置して可能となるには無数のミクロ性を重視してきた。そのミクロの可能性がある目的地に到着する映画だった。そのため、閉鎖的な循環の映画が多か​​った。その過程で、自然の違いは、繰り返し、果実だけで、大邱(テグ)、対称性が重要だった。ところが、"北村の方向"には、5枚の小さな全体がある。決められた枠の大きな全体はない。その小さな全体、すなわち時間が固まり目で分岐して交差し、接続して接続され、再配置されて定められていない、その外側のどこかに出て流れていく。ホン・サンスは、それがどのようになっていきていることを見て思っています。したがって、今、この映画で、私たちはホン・サンス映画の閉鎖的な循環を越えて無限にも言えるようになったのだ。それを<オッキの映画>で、"存在"として経験している場合、"北村の方向"では、"時間"として経験する。だから、ボルヘスの文章を覚えていてくれたら良いだろう。でたらめな図形の絵を覚えていてくれたら良いだろう。接続と接続が重要だという話を覚えていてほしい。ソンジュンは、零号機に会うことも、そうでないことも、やりがいのある中原に会うこともそうでないこともあり、京津/以前に会うこともそうでないことも、一人で飛び交って、他の人々に会うこともないかもしれません。この映画の時間は無限大になる。その結果、北村には、私たちは言葉もないと言っていた宇宙的な系の時間が、最終的に共存することになる。<北村方向>で"何もないのか、重要なこと"としての時間は、最終的にそのように成り立っている
by kazem2 | 2011-09-06 20:58 | Comments(0)