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[ジン・ジュングォンのアイコン]死に向かう欲求

☆cine21.com
十字自殺と「イエスキリスト になること」
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『十字架の遺体』は、聖火に描写されたイエスキリストの死と似ていた。
5月1日、慶北(キョンブク)、聞慶市(ムンギョンシ)、篭岩面(ノンアムミョン)窮気リある肺採石場で元タクシー運転手のキム某さん(58)氏が十字架に刺さって死んでいるのが発見された。 (...)金さんの両手には十字架にぶら下がっていて両足は、十字架の前面に置かれた木の板に釘刺さっている。 右わき腹に包丁で刺された傷が、頭の上には、いばらの冠がある。 イエスキリストと一緒に取り付かれ強さを象徴する小さな十字架が両脇に置かれていて、足元には、鞭の形の物が置かれている(...)肺採石場も聖書に描かれている石墓ゴルゴタの丘と似ている。"

イエスキリスト - になる
この猟奇的事件こそ、人文学の説明力を占う試金石ではないか? このニュースを聞いて、まず頭に浮かんだのは、『ミメーシス』という概念だった。 ラテン語の『模倣』(imitatio)が対象をまねる認識論的な「再現」なら、ギリシャ語の『模倣』(mimesis)は、カメレオンが環境に応じて色を変えるような「存在論的になる」を意味した。 ドゥルーズは彼の有名な著書で、カウンターテナーの女性になる、カストラートの子供になることが、シューマンのクララになるが、モーツァルトの鳥 - になるなど、様々な「存在論的になる」の例を与える。

聞慶(ムンギョン)タクシー運転手の自殺は、『イエスキリストの - になる』の極みといえる。 事実、イエス - になるにも、さまざまなレベルがある。 昔のカトリック教会に通う時、『リトリート』ということを行って、不本意ながら『イエスキリストの - になる』を経験したことがある。 十字架の苦難の道を作っておいて、信徒たちにとって河原の砂利の多い場所を膝をついてに徐々に這うように行くプログラムだった。 もちろん、鞭打ちされていばらの冠に突かれ、重い十字架を背負って、手足に釘が刺さって、十字架の上でウィンドウの胸にささった彼の苦痛を少しでも感じという趣向だ。

フィリピンでは、イースターに志願して十字架にすがる人々がいる。 四肢をひもでしばってぶら下がる場合もありますが、ほとんどは本当に手足に釘が打ち込まれたまま、十字架にかかる。 今年のイースターにも24人以上のピルリピノが自ら申し出て、十字架にかかっている。 カトリック教会では、これを"不審な神学的、社会的な意味を持つ不完全な模倣"と呼んで不快になるが、すでに25回もの釘打ち込まれ、このどちらの社内では、教会がこの慣習を尊重しなければならないとし、自分は"十字架の上で神に非常に近づいたのように感じる"と話した。

もちろんこれは、ミメーシス、つまり真の意味での「イエスキリストの - になること」ではないのだ。 教会によると、それは"不完全な模倣"(imperfect imitation)に過ぎない。 中世の大人たちの『スティグママタ』は、これとは次元が違う。 彼らは、無理やり私の手と足に釘付込むスペクタクルを演出していない。 彼らは、ひたすら祈りと瞑想をしてイエスキリストのようになろうとする彼らの切実な心と身体に変化を起こして両手と両足、そして脇腹に癒えない傷が芽生えたものである。 どのようにそのようなことが起こることがあっただろうか?

簡単な説明は、彼らが他の人々に密かに自傷行​​為をしたということだろう。 しかし、これらの仮説は、尊敬される大人たちを急に詐欺師にしてしまうという問題がある。 それよりもっと興味深いの説明は本当に精神の努力が身体の変化を生んだということだろう。 私たちは、カントのような精神は、自由の領域は、身体は物理の世界に属すると信じるが、実はその二つは私たちが考えるよりもはるかに複雑な関係を結んでいる。 心身(body - mind)の関係についてはまだ科学的に明らかにならなければならないことがたくさん残っている。

ヨハネの黙示録第7章によると、終末の日に、神は彼のしもべたちの額にある(印)を打つ。 私の身に、イエスが十字架の上で負った傷を刻むことほど、神の人を受けたという確実な証拠はどこにあるか? 神の人を求めている魂の状態が私達がまだ知らないどのようなメカニズムに応じて、身体の変化を引き起こしたのだ。 しかし、そのメカニズムを科学的に証明するとして、教会はあまり喜ばない。 その場合は、スティグママータイの伝説を包む神学的なアウラが消えるためだ。

韓国の教会は、もしかしたらこの事件がキリスト教全体が狂信的に映るのではないかと戦々恐々のようだ。 案の定、教会の外では、韓国キリスト教のあきれる狂信性がこのような惨劇を生んだという非難の声が出てきた。 しかし、教会の主張するように、この事件は、キリスト教自体とは別に関係がない。 教会で言う『イエスキリストの - になる』とは、イエスの行いと魂を類似していることを言って、イエスキリストの伝記をまねることを意味するわけではないからだ。 そのようなことはミメーシスではなく、"不完全な模倣"に過ぎないだけだ。

いざ注目すべきは、セクシュアリティーだ。 過去にも宗教を口実に性欲が乱舞したことがあった。 バロック時代のカトリック教会は、活版印刷を武器とするプロテスタントのテキストの攻勢に扇情的イメージに対立しようとした。 大衆扇動のために教会は、壁にいろいろな種類の聖者たちの残酷な拷問と殉教の絵で装飾されたが、その根底には、いわゆる「バロックの秘密のエロチック」が敷かれていた。 フィリップアリエスは、その頃一日一日、大聖堂に行って、壁画の中の聖者たちの悲鳴を聞いて秘密の快感を感じていたある少女の話を伝える。

小学校の頃、屋根裏部屋で、イエスキリストが苦しんでいる英語の聖書の挿絵を見て妙な興奮を感じていた記憶がある。 その興奮は、思春期が過ぎた後に、初めて感じることができたのは、『興奮』とほぼ同じだった。 たまに私の同僚の男の子たちがいたずらで小娘のふくらはぎを殴る真似をするのを見て、彼らも私は屋根裏部屋で感じたその『興奮』を感じると思っていた記憶も飛ぶ。 このように思春期以前にも性欲は存在し、それの正体はサディズムだった。 もちろん、自虐的にも思春期以前から存在するのだ。

サディズムとマゾヒズム
性欲には、ただ'生殖'の欲求だけあるのではない。 死へ向かう性欲も存在する。 生まれる前に我々は無機質だったので、私たちの無意識には、生命以前の状態に回帰しようとする衝動が存在する。 これは、身体を破壊し、破壊されることから快感を感じるサディズムとマゾヒズムの性欲に表示されるのだ。 お互いに反対されているこれらの欲求は、三島由紀夫の場合のように一体の中で組み合わせることができます。 聞慶の裁判、イエスも同じだ。 電子がヘレニズムのバージョンであれば、後者はヘブライジュム版といえる。

舞台のセッティングは違っても、自己破壊の欲求は同一です。 自分の日本刀を持った武士の姿で演出するサディ​​スティックな性能と木にかかって矢を射殉教者セバスチャンに演出する被虐性。 これらの欲求は、刃物で自分の腹を切る行動の中で、ようやく一つになる。 苦痛を与えて楽しそうなローマ兵のサディスティック性と、自ら十字架に走りたいする被虐性。 自分の手足に釘付け行動の中で、両方の欲求は、一つになる。 遺体に「ためらい傷」ひとつなかったというのは、その行為にある種の快感が伴なったことを強く示唆している。

この二つの自殺事件を貫通する共通の欲求は、おそらく、後期フロイトが言った『死の衝動』である。 舞台のセッティングは、二人が置かれた具体的な状況に応じた偶然の差だけだ。 しかし、この事件の猟奇性は、本来、他のことにある。 事実、キリスト教は「生の衝動」の極端な表現である。 この地に住んでいるだけでも足りず、初めから『永遠の命』の欲求だからだ。 この「人生の衝動」がその対極の『死の衝動』を実現する舞台の設定に使用されたというパラドックス。 この事件の背筋が寒くなるということ(Unheimlichkeit)は、そこに出てくるのだろう。

文:ジン・ジュングォン( 文化評論家 )2011.06.10

イラスト:ジョン・ウォンギョ
by kazem2 | 2011-06-12 15:16 | Comments(0)