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[キム・ヘリの映画の日記]少年と老人の時間が違うように

☆cine21.com
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開店37年目になる近所の薬局の薬キャビネット。 歳月が経ってツルツルする。 すぐに家具を入れ替えるというというニュースに未練がましくカメラに収めた。 病気がちの多くの人には菓子店のショーケースのように、心の安らぎをもたらす風景である。







5月16日
動物保護のオムニバス映画<ごめんね、ありがとう>は、訴える力の大きい役割を"コンパニオンアニマルは、やがて家族"という前提からなっている。 これは、動物の生存権を優先し、彼らが人間と近くて、似た存在なのか聞いて説得するしかない私達の動物保護運動の現状が反映された結果でもある。 <ごめんね、ありがとう>に登場した動物たちは、主人と同じ物を食べたり、共通の文字を受け継いだ名前で呼ばれたりもし、時には子供たちの姿をした幻影として登場する。 ここには動物は、当然、人間になりたがっているのだろうという私たちの無意識のうちに家が敷かれていることを知らない。 しかし、動物を人と同一視するところから導出された動物の生存権の認識は、以内に限界にぶつかることも事実である。 <ごめんね、ありがとう>のパク・フンシク監督の<私の弟>で、主人公の少女に、弟だった子犬麦が赤ちゃんを生み、"子供の家に動物を置くものではない"という意見に押されて捨てられる光景は、直接的な例だ。 "犬を育てるようでは、人間が必要なくなりそうだ友達と恋人を作成しても育てていく"は、オ・ジョムギュン監督の<チュチュ>に出てくるセリフも同じ脈絡だ。 動物が本当の家族なのではないかが課題になる瞬間の動物は、当然、不安定な立場に陥るしかない。 同じテーマのプロジェクトが将来的に再作成された場合、動物が人間とどのくらい似共感する能力があるのではなく、同様の苦痛を認識する存在であるという前提に基づき、生存権の尊重を力説している映画たちではないかと推測する。

すでに多くの商業映画が動物に愛情を込めてそして、友好的に対処する現実に、「進歩した」動物の映画を標榜した企画が成果を収めるには、もっと具体的な問題意識を盛り込んだ物語をさらに映画的な話法で解かなければならない。 後者の基準では<ごめんね、ありがとう>の中で最も成功した短編は、パク・フンシク監督の<私の弟>である。 伴侶犬を弟として愛し、彼を失くしてしまった経験が一生の方向を決定した女性の話であるが催涙性短編は、監督の長編<人魚姫>と同じような感情の構造を示す。 <人魚姫>の時間旅行のモチーフが呼び起こした切なさの違いを、ここでは、二重の時点の装置がもたらす形状である。 主題の幅と深さの面で魅力的な短編は、イム・スンレ監督の<猫のキス>だ。 都市ののら猫たちが置かれた環境や動物への最小限の支援を与えようとする個人が負うの偏見を指摘した<猫のキス>は、家族のメロドラマの枠を超え、動物と人間の共生を考える。 加えて、『私の家族』を遂げて守ることに全力投球するための一般的な生活様式に従っておらず、名前も知らない街の動物との愛を分けて一人で住んでいる<猫のキス>の女主人公を使ってイムスンレ監督は、別の生き方があることを暗に主張している。

5月17日
観客としての経験を振り返る時20分前後の短編映画で、すでに出てきた場面を再モンタージュで見せてくれるフラッシュバックが出れば気が抜ける。 軽薄に例えるなら、ない暮しにさらにないように見えるというか。 ともすれば短編上映時間も耐えられないほど映画の言いたいのところが貧弱だったり、話術が要領不得という証拠として記憶されがちだ。

5月19日
静かな地下鉄。 バッグに読み物がない。 <ベルリン天使の詩>のダミエルになった気分で人々を盗んで見る。 制服であるかどうか不明瞭な空色のシャツを着る向かい側の美少年は、時間が自分の風よりもゆっくり流れて退屈している様子だ。 一、二サイズ大きいバスケットボールシューズを履いた足が不安なリズムで床を叩く。 一間間違って満たされたかのボタンを手の甲に引かれたボールペン跡は眼中にない。 きれいな若者たちからよく見てスキは、自分の美しさをつまらなく意識しているという点だ。 それは神の公平な処置であるかもしれない。 そのような自意識さえなければ、彼らの美しさは、あまりにも純正で完璧で致命的な効果を出すから。 ジョセフィンハートが小説<ダメージ>に書いたように、"本物の美しさは、困難を自ら招いている"。 隣の席の白髪の紳士は、ペンを握って既に色とりどりの字で詰まっている無極手帳を夢中になって覗き込んでいる。 カバーの内側には、余白にメモがあった名刺が大切に付いていて、会議や相談の日程で満ちている月間計画表の片隅には、単純な情報を忘れていないためなのか芸能人カップルの名前も見られる。 何よりも性格がそのまま表れる、手書きで書いた「人生二毛作」五字が視線を掴む。 少年とは対照的に高齢者は、時間をつぶして一かけらも軽く流していないために尽力している。 誰かが地下鉄のある座席に並んで座った七人の乗客をカメラでじっくり目を通すショートフィルムを作成することもあるという考えを試みる。 タイトルは<彼を見るだけで知ることができるもの>?

5月23日
ハンス・ジマーの<カリブの海賊>シリーズの主題曲は、観客のアドレナリンを自動的に分泌させるキュー信号がされたという点で<スターウォーズ>と<ハリーポッター>のテーマのような隊列に進入した。 問題は、音楽が高揚した興奮の映画がずっと火をつけていけるかだ。 一人のスターキャラクターが映画の存在感を半分以上の責任を負う<ダイハード>や<パイレーツオブカリビアン>など同じシリーズで主人公を最初に紹介する方法は非常に重要である。 今回の続編では、ジョン・マクレーン刑事が、ジャックスパロウ船長がどのようなポーズで登場し、どんなセリフを第一声に吐き出すのか待ち焦がれることは、ファンに大きな道楽である。 有名なロックバンドのコンサートのオープニングと皆同じだ。 <パイレーツオブカリビアン:他人の鳥>は、袋で顔を覆った容疑者ジャックスパロウを導入部に見せるのに特別なサスペンスが醸し出されることはない。 観客の目には見苦しいく言いなりになって乱暴に惹かれて貧しく哀願する男が私達のジャッ​​クスパロのように見えないからだ。 中盤以降も4編はジャックスパロウの魅力を拡張したり、既存のキャラクターを十分に活用することができない。 もともとジャックスパロウは、問題のトラブルシューティングというより、勝手に行動するうかつに課題を達成するトリックスターで、ロマンチックな概念の天才だ。 テーマパークの乗り物から始まったのがフランチャイズに固有さがあるならば、ジャックスパロウが代弁する海賊感、無政府主義的な風流なはずなのに、4編は、もはやそれを表現するアイデアが枯渇したように見える。

5月25日
Matthew本監督の<X - MEN:ファーストクラス>までに見た結果、このシリーズの評価は、<X - MEN 2> ≧ <X - > > > > < エックスマン誕生:ウルヴァリン>の順で大きな意見の相違で整理されるようだ(<ナイトメア>シリーズや<ハロウィーン>シリーズの不等式を使うよりはるかにやさしい)。 冷戦時代背景のスパイ映画としてのスタイルの鎖を掴んだ<X - MEN:ファーストクラス>は、おなじみのキャラクターたちのチャンピオンを無難に復元した。 また、迫力あり、興味深いことに設計されて最終的なアクションのクライマックスは、劇場を出る観客に好感を残すに充分だ。 Matthewパターン1、2本の監督のブライアン・シンガーが追いつかない大きな課題は、X - MENたちの傷であり、自尊心である様々な超能力を凄然かつ流麗な場面をあげる手並みだ。 既に観客が知っている内容を確認射殺する常台詞も1、2段下だ。 "私たちにはまだ強力な武器が残っている。 それはすぐに出るだろう"などのセリフは、どうもちょっと困る。 イアンメケルロンメグニトに比べて、ケビンベーコンのセバスチャンショウが ​​扮した悪役キャラクターの威厳が著しく低下するという点、新たに導入されたX - MENの中で超音波の大声を出すバンシーを除けば、それほど印象的な人物がいないという点もアキレス腱である。 結局、<X - MEN:ファーストクラス>は、スタイルだけを復古的なことに終わるのではなく、楽しさとインスピレーション面でも、1、2編過去に作られた映画のようにやぼったかった。 もちろん、フリークォルのハンディキャップがある。 私達がよく知らエックスマン対ホモサピエンス、メグニト大慈悲の葛藤が初歩的な形(prototype)で繰り返されるしかないから。 同じ課題を受けて抱いたクリストファーノーランの<バットマンビギンズ>が抜群のフリークォルであったことを改めて痛感する。

文: キム・ヘリ 2011.06.10
by kazem2 | 2011-06-11 20:51