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[ジン・ジュングォンのアイコン]未読の本について話す法

☆cine21.com
非読書の美徳
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最も真摯な読書はトイレで行われる。 そこでは別に企てることがないので、面倒な関心から解放され、完全に焦点を合わせることが可能だからだ。 そのため、トイレに持って行く本を選ぶときには注意しなければならない。 書架から本選ぶ時間が長いほど圧力も増加しますが、そのように高められた圧力は次の高められた快感に戻ることになり、忍耐に続く、その耐えがたい苦痛の中でも、最終的解決と到来する至高の悦楽に対する手に余った期待が存在する。

本を読まない方
そのように厳選された本がピエールバーヤールの<未読の本について話す法>。 便器の上で、この本は、肉体と精神は、二重の解放を意味した。 文を書いて暮らすならば読まなかった本に対して話さなければならない場合が如何に多いのか? だがあふれる非難に対する恐れで小心な墨汁は、誰も疑わない彼らの純潔さにもかかわらず読むこともなかったし読むこともない本の脚注を、できるだけ原語で付けながら、不本意ながら偽善者として生きてきたのだ。

バーヤールの小説<特性のない男>を引用する。 350万冊の蔵書を持つ皇室の図書館の司書は、"私がいかに多くの書籍をすべて知ることができるか疑問ですよね? (...)それは、まさに本を読んでいないからです"。 バーヤールはそうコメントする。 "彼は慎重な態度での本の周辺だけに留まるのは、むしろ本を - すべての本 - 愛すると思い、その本のうちいずれかの本にも関心を傾けると、他の書籍をないがしろにするんではないかと恐れているのだ。"

"すべての本"への愛、"他の本"をないがしろにすることに対する、恐怖が彼だけのことなのだろうか? 避けられないことに日常化されたが、非書の長所を、バーヤール以前には誰もあえて弁護することができなかったのは非常に奇妙なことだ。 "すべての本"に向けたアガペ的愛には4つの場合があるという。 『本をまったく読んでいない場合は'、'本をざっと目を通した場合は'、'他の人からの話を聞き覚えの場合』、そして『本の内容を忘れてしまった場合は、'だ。

著者として、私も非書の長所を強調して、いつも"読書文化の要諦本『読む』のではなく、本を『生きる』ことにある"と主張してきた。 バーヤールの非書が付いている精神的な美徳を看破したが、残念ながら、彼は彼の美徳の基礎となって物質的条件への洞察には至っていない。 考えてみてください。 非書がない場合はすなわち、人々が必ず読む本だけを買う場合は、書籍市場の規模は1 / 10以下に減少する。 これは、書籍の文化全体の崩壊につながらないだろうか?

この認識は、次のような独自の分類につながった:「零度(零度)の読者」、つまり私の本を買い、少し読んでくれる読者だ。 これらは、書籍の文化にそれなりの重要な貢献をする。 続いて「+1度の読者」、つまり、自分の本を買って読んでいない読者だけど、私に師事を求めることのない人々の気高さを高く評価する。 最後に、「+2度の読者」、つまり、自分の本を買ったことを忘れて、また生きている人々は"すべて新しさは忘却の結果"と高らかな哲学的な洞察力によって、私の格別の尊敬と愛情の対象となる。

もちろん、図書文化の振興には全く効果がないマイナス評価の読者もある。 「-1度の読者」、つまり、自分の本を他人に借りては読者。 そして、「-2度の読者」、これらは社会的に無益な存在として、借りて読んだくせに私の本の悪口を並べる人たちである。 ただ、読者たちに非書の美徳を勧めることにとどまっている場合は、それはやはり偽善だから私も普段から非書を実践することを怠ってきた。 非書を使って記事を書いても、学会で発表したこともある。

5年前、ある学会に参加しなければならなかった。 うつ病に苦しんできた時代だから本を読んだり文を書く気は全くなかったが、大学の恩師のお願いだから拒絶をすることができなかった。 要求されたテーマは『近代哲学に現れた死の概念』。 近代哲学に入るには、まず、その背景となった中世の部分を落とさなければならなかった。 その部分に関しては、数年前に本を書いたことがあるので、一応記憶を辿って、中世初期の『霊肉一元論』が中世後期の『霊肉二元論』に変わる過程をスケッチした。

本を読んで論文を書く
問題はその次だった。 「合理主義の哲学の死の概念」に到達するために、一応「デカルト - になる」を実行することにした。 <方法序説>の著者として、私はこれまで、精神と肉体の二元論を主張してきた。 肉体は空間を占める'延長実体'だから無限に裂くことができ、したがって、豊かな時だ。 一方、精神的にはスペースを使用しない'理由実体'だから裂くことができず、従ってそれは不滅するしかない。 このような推論の下に一応、デカルトは霊魂の不滅を主張したと書き込んだ。

以下は、英国の経験主義哲学。 今回私は頭の中にヒュームの魂を仕えた。 私はすべての知識の根源がこの経験にあると信じているが、私の死は私が経験することができるものではない。 したがって、それについての知識を持つことはありえないことだ。 さらに、私の『意識』は、デカルトのそれとは異なり、才能豊かなものではなく、外部から入ってきた感覚的な印象の乱れ連合、フラックスに過ぎない。 そのため、『魂の不滅』という話は、文法上の勘違いから始まったたわごとなのだ。

で、私はカントになって、デカルトやヒュームの考えを総合しなければならなかった。 私はこれまでの認識が可能な領域と不可能な領域を明確に区別しようと主張してきた。 私には『魂』というテーマは、認識可能な対象の範囲外にある。 しかし、そこですぐに魂がないという主張が出てはいない。 '定義'が可能にするには、たとえ生前に贅沢を享受してから、死んだ悪人に正義が行使されるには、魂は不滅である。 すなわち、魂は'実在すること'ではなく'実在しなければならない'だ。

最後に、ヘーゲル鬼(おばけ)が来られた。 私の言う『絶対の精神』とは、一人一人が持つ主観的な精神ではない。 絶対精神の展開過程で、一人一人が持つ主観的精神は、法律や倫理などの客観的精神と弁証法的統合をなすなか、「止揚」されなければならない。 永久的なことは絶対精神であって、一人一人の精神や魂がない。 そのため、一人一人の死は、何の慰めのない、来世の約束がない「ただの死だけだ」 こういうことを『演繹コメントを書く』と呼ぶべきか?

問題は、これを根拠にすること。 もちろん、それのために、デカルトの論文掲載、ヒュームのエッセイたち、カントの三部作、ヘーゲルの精神現象学をすべて遅れを取る必要はない。 コー​​ナーにめりこんでいた哲学思想の本をすくい取りながら、かつて私は自分の推論が正しいことを確認した。 神を正しくみつめたのかほとんど私が推測した通りだった。 残ったのは、ブログを裏付ける引用文を見つけること。 それは哲学史の本の脚注を追跡するように解決することができる。 ほとんどの才人用ですが、脚注をつけたら結構もっともらしくなった。

タイトルには、オラチィウス有名な詩を使用した。 "私の全てが死ぬわけではない"(Non omnia moriar)このタイトルは、論文の主題に合致したうえで、個として私は、ラテン系まで、という印象を放つという利点があった。 論文は、二箇所の学会で発表され、内容がかなり良いとか学会誌に掲載依頼まで受けた。 その要求を私は拒絶してしまったのですが、枚数を増やしたり、型を合わせてほしいという要求よりも自分の精神を苦しめたのは、原稿料を支給しない学会誌の慣行だった。

文:ジン・ジュングォン( 文化評論家 ) | 2011.06.03


イラスト:ジョン・ウォンギョ
by kazem2 | 2011-06-04 14:12