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[キムヘリの映画の日記]誰もがこの世の中に数十編の映画を残して

☆cine21.com
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本人の姿が取れたCCTV映像を収集して作成されたオーストリアの作家
マヌールックスのビデオアート<消された顔>(Faceless)





5月13日
2週間後、来韓するイザウィペルを待ちながら片手間に、彼女の映画を見る。 出世作ともいえる<レース編みの女>(La Dentelliere、1977)をDVDプレーヤーに入れて緊​​張した。 かつて私に強い印象を残した映画を再び見る事は小さな勇気を要する。 例えるなら別れた恋人とお茶を飲む気持ちと似ている。 <レース編みの女>から純粋無垢な処女ポムムウィペルは、オーギュスト・ルノワールの絵からまっすぐ歩いて出たようだ。 触手のような綿毛に覆われており、体のすべての角には緩やかに丸く包められている。 彼女は知的で、完全な白紙状態のまま、充満して見える。 ところが、映画が終わる頃に衝撃的なことが起こった。 恋人に捨てられた後、心が深く病んで療養所に収容されたポムムが編みをしている途中に突然顔を上げて観客を見つめている場面だった。 私の記憶によると、このシーンの背景には、明らかに赤い落ち葉に覆われた老人ホームのベンチだったアングルは、正面、サイズはミディアムロングショットだ。 溢れた秋の日差しの角度やポムムの表面にレース模様を出したの葉の影までまだ鮮やかである。 ところで、再確認し、映画の中でポムムは白い壁に囲まれた食堂の椅子に身を振ってカメラを見つめていた。 一体これは何か解りますか? 私に入力された細かいイメージは、果たしてどこから来たのか。 それがヨン・ウォンハン'場所'を発見するならば国は、人間に対して非常に多くの真実を知ることになるようだ。 とにかくこのようでは、アンドレ・マローが話されていた『想像の美術館』とは別の意味で『想像の映画館』を別々に建てなければならない局面である。

5月14日
「ポンドフッテージフィルム」(Found Footage Film)は、既成の映画(秒)の部分を再構成し、衝突させて作った映画を指す。 ソウルコリアナ美術館は5月末日まで<フィーチャリングシネマ>(Featuring Cinema)という名の下に10点のポンドのフッテージフィルムを展示している。 見物してみると映画と映画の間、あるいは映画のイメージの間に新作路をくぐって橋を架ける再編集作業が大半である。 例えばイム・ミヌクの<犠牲 - ジャンプカット>は、タルコフスキーの142分にも及ぶ映画を『わざと』乱暴なな手で、8分に圧縮された作業であり、ノ・ジェウンの
<God4Saken>は49個の色面を古典的なフィルムヌアールで選別抜いた四十九のシーンに通じるのインターフェイスとして設計された作品だ。 特定のモチーフのコラージュも大勢ですが、たとえば、クリストフジラールにとマティアスミュラーの<クリスタル>は、ミラーがオブジェとして登場する映画のシーンを組み合わせて、自己陶酔や人格、愛と破壊の物語を演出している。 ちょっと。 演出だと? これは、編集と呼ぶほうが適切ではないだろうか? アーティストたちは映画の原作者と著作権についてどのような合意を見ているのか気になった。 ベ・ミョンジ学芸員に連絡したら、新しい創造的な作業とみなされる場合、法的に問題視し​​ていない国もあり、通常は『芸術家同士の暗黙の了解』が成立するとする。 ビデオアートの場合はオブジェではないため、個人が購入所蔵されることが珍しく商業的利益を取ったと判断する曖昧だという点も影響を及ぼすようだ。 そんなに観客の立場で言うならば、一つの作品がどんな有機体のように両作品のインスピレーションとして生まれ変わりして、あっちこっち出口を開いて世界の中を流れにさまよう光景は、かなり楽しい見ものだ。 ところが、これを可能にする芸術家同士の了承のカギは、法的判断ではなく、再創造作が私の作品を尊重したのかについての美学的判断である。 尊敬や賛美ではなく、尊重である。 あなたが監督ならどのような場合に尊重されたと感じるか? 現実的には取ったんだと思う必要がなく、結局、自分の映画を引用し、その作品自体が芸術的にどのように立派に集められないだろうか、支持はないだろうか?

展示作品の中で、オーストリアの作家、マヌールックスの<消された顔>が目立っていた。 彼女は自分の姿が捕捉されたCCTV映像を収集し、群集の顔は、丸ですっかり消してしまって自分だけの顔がある市民として登場する、一種の未来の映画を作った。 プライバシーや肖像権保護の観点からどうせ越えなければならないプロセスを逆に利用したアイデアだ。 美術館から帰る途中の角のあちこちに付着したCCTVカメラにわざわざ一度意味を持った目を与えた。 だから誰もがこの世の中に数十編の映画を残していくのだ。 永遠に編集されていないだけ。

5月16日
午前9時40分。 往十里一(ワンシムニ)、マルチプレックスの<カンフーパンダ2>試写を見に来た目がまだ覚めない記者を対象に、JJエイブラムス監督の<スーパー8>のうち、20分間のクリップが上映された。 冒頭にJJエイブロムスが身をもって登場して映画の製作過程を簡単に説明するオルゴ投プレゼンテーションの腕前が通常を超える。 DVDに登場し、機知に富んで魂を省くピクサーの人々と比べるに値する。 披露した20分の分量によると、<スーパー8>の要素は二つある。 一つは、野球のキャンプの代わりに近所の友達とスーパー8フィルムで映画を撮って、夏休みを過ごした70年代の映画キッドたちの思い出であり、第二は、<クローバーフィールド>怪獣ホラ―だ。 後者の方が3Dスペクタクルのために縛り付けた風呂敷の包みのように空回りするだろうが、映画の分かれ目となりそうだ。

今日披露された<スーパー8>クリップには、良い俳優の威力を例示するきれいな場面があった。 ずさんな装備を持って夜の撮影に出た少年たちは駅で別れている夫婦の会話のシーンをリハーサルする。 監督はあわてては、悩みを張って男主人公はこちこちだ。 ところが、急いで交渉してきた町内の少女アリス(エルファニング)が、この中途半端なカオスの真ん中で、突然本物の排気煙を示しています。 一瞬時間が止まって誰かの初恋が始まる音がかさっと聞こえる。 アリスは、挙句の果てに丸太のようだった相手役からも好演を送り出す。 少年が"僕も君を愛してる"と震えながら話しているとき、劇中の少年も観客も、それが演技であることを実際の証明であるかどうか見分けにくい。 有能な俳優は、利用した指圧師のように、相手の胃の中にかたまっていた感情のツボを解いて真実が外に純然と流れ出るようにする。

5月17日
昨日の<カンフーパンダ2>と、今日<パイレーツオブカリビアン:見知らぬ鳥>を見て、私の感想を並べて置いてみると共通部分が大きい。 デフォルトでは、パンダのポー(ジャックブラック)とジャックスパロウ船長(ジョニーデップ)は、虚の英雄だ。 アクションを主な楽しみと約束する計画だが二人はアクションヒーローではない。 ポーの最大の威力は、体が柔らかいという点にあり、ジャックスパロウの武器は、息もつけないほどの攻撃をよろよろと避けていく芸にある。 私たちが彼らを愛しているのは、せいぜい最後通告をしたが、距離が遠くて悪人が聞き取ることができない船長のくせに、他の船員たちにでたらめに無視される時である。 両方の続編ブロックバスターは、1編から前もって設定されたキャラクターを利用したジョークでは、意図した笑いを与えているが、今回の本の話を操作するために、新たに作り出した人物の葛藤とプロットは全く観客の興味を引き付けることができない。 英雄の父や2世が登場したり(<インディジョーンズ>タイプ)偽物が出現したり(<スーパーマン><バットマン>タイプ)の設定では、よく知られているが退屈だ。 一方、永遠の若さの源泉を巡って二転三転する<パイレーツオブカリビアン:見知らぬ鳥>の物語は、非常に複雑ですが、観客には全然気にしないタイプのプロットがあるかどうかを示す事例だ。 二つの映画の面白さは固定された要素から出てくる。 常にやかましく動く二つの映画が静的に感じられるのはそのような理由だ。

3D映画の中で没頭を邪魔置くの要素は、多くの人が挙げることができるだろうが、その中で最悪の障害は、最も前面平面でこれ見よがしに堪えている字幕である。 スクリーンのはずれには、字幕を抜き出すことができる方法はありますか無駄に工夫している途中、毎回映画の序盤数分は集中に失敗したりする。 まともな韓国語の3D映画が出れば字幕が与える負担を正確に計ってみることができるだろう。

文: キム・ヘリ 2011.06.03

写真提供:コリアナ美術館スペースC
by kazem2 | 2011-06-03 22:49