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by kazem2
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[ジン・ジュングォンのアイコン]究極の価値も相対的でしょう

☆cine21.com
ニヒリズムと主人の道徳
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‘ニヒリズム’は‘無’を意味するラテン語‘ニヒル’(nihil)から来た話だとする。 この概念が広く知られたことはやはり離反ツルゲーネフの小説<お父さんと息子>を通じてだ。 そこでニヒリストは“どんな権威の前でも屈しないで、いくら周囲で尊敬を受ける原則といってもその原則を信仰に受け入れない人”と紹介される。 ニヒリストの主人公バザロフはパーヴェル キルサノプに‘家族の中でも、社会の中でも絶対的軽蔑を受けないほどの制度が一つでもあるならばニヒリストであることをあきらめるぞ’で話す。

だが‘ニヒリズム’という概念を初めて哲学に導入したことはフリードリッヒコビーというドイツの哲学者であった。 私たちの目には多少とんでもなく見られるが、彼はこの用語を‘理性主義’を批判するのに使ったという。 たとえばカントの批判哲学のように人間の理性を信じる哲学は必然的にニヒリズムに陥るほかはなくて、ここから抜け出そうとするなら理性をある種の信仰や啓示に変えなければならないということだ。 正確な論証は分からないが、‘水自体は分からない’でハン・カントの不可知論が‘認識論的’ニヒリズムと見えたことでもあろう.

キルケゴールはニヒリズムを‘均一化’(levelling)の結果で把握する。 角張った石が本当に合うというだろうか? ‘均一化’という(のは)社会が一個人の個性をこれ以上他の人々と区別されることができないほど抹殺することをいう。 たとえばどんな大義に献身する情熱を持った個人もこの社会は容赦なく均一化させてどうしても気が抜けた平均に戻す。 この時、私だけの価値と意味を確認できなくなった個人は虚無の状態に陥る。 キルケゴールはこのニヒリズムを克服して有意味な人生を取り戻さなければなければならないと主張する。

キルケゴールは相変らず有意味な人生が可能だと見たが、本格的なニヒリズムはこの世の中に客観的だとか絶対的な価値はどこにもないという感じと一緒に始める。 ニーチェが話したニヒリズムはこういうものであっただろう。 彼のニヒリズムは‘観点主義’(perspectivism)と関連がある。 遠近法の時点が常に‘その誰か’の時点であるように、ニーチェにはすべての主義(注意)や主張はいつも‘その誰か’がした話だ。 したがって客観的認識や絶対的道徳があるわけがないということだ。 エントロピーの増加による価値観の熱死というか?

音楽的ニヒリズムと美術のニヒルリズムビスタン現象は他のところでも見ることができる。 音楽には‘黄金の5音程’ということがある。 どんなジョーダン自分と5音愛想がつきた組と音階が似ている。 たとえばC長調の音階はFに#だけ付ければすぐにG長調音階となる。 これを利用すればC長調の曲が自然にG長調へ渡って戻ってくることができる。 G長調はまたそこで5音愛想がつきたD長調と音階が似ている。 Cに#だけ付ければ良い。 ‘黄金の5音程’を利用すればC長調の曲が自然にG長調で、そこでD長調でしばらく遠足を行ってまたC長調に戻ることができる。

だが、逸脱は一時的なので曲全体を支配するのは相変らずC長調だ。 古典音楽には全体を支配する弔歌ある。 たとえばベートーベンの5度<運命>はC単調、9度<合唱>はD単調だ。 だが、上に言及した過程を継続すればどうなるだろうか? たとえば一歩だけさらに踏み出してE長調まで遠足を行ってきても結果は紛らわしいだろう。 C→G→D→E→D→G→C. これほどになれば全体を支配する弔歌何か分からなくなる。 これを極端に押し進めてみるならば、自然に曲全体を支配する締める最初からなくそうという考えに達することになる。

ここで無調音楽が誕生する。 たとえばシェーンベルクの12音技法ですべての音は全体の支配から自由になる。 音楽は音符らの数学的組合に近づく。 曲のエントロピー(無秩序も)が大きくなりながら‘音楽的意味’というものも消えてしまう。 これを‘音楽的ニヒリズム’といえないだろうか? 全体を支配する弔歌消えた音楽を聞く聴衆は支持台を失って空で裕福な感じであろう。 かなりの忍耐なしではこの退屈さを、この混乱するということに勝つことができないだろう。 真のニヒリストという(のは)こういう音楽に鍛練された者に似なかったのだろうか?

美術でも似ていたことが起きた。 過去の芸術が情緒的クェを与えるために‘美しさ’を追求したとすれば、現代美術は知性的衝撃を与えるために‘新しさ’を追求する。 その結果得ることになったことは短い時間存在して消える数多くの芸術言語ら. もちろんこの言語らは各々自身がその前のものなどよりましだと主張するか、このように短い時間に芸術言語らがあふれてみるならば後日にはみな似たり寄ったりになってどんなものも違うものよりさらに進歩的だと主張できない段階に到達する。 モダンがポストモダンへ渡る地点だ。

それのみか? 現代の抽象芸術はその極点でこれ以上芸術ではないことに変貌する傾向がある。 たとえばモンドリアン、カンディンスキー、レジェの幾何学的抽象は会話というよりは技術的設計図や青写真に近づく。 超現実主義は無意識に浮び上がる相異や話をそのまま記録するいわゆる‘自動技術法’を使う。 ここで芸術家は機械、すなわち自動記録装置となる。 頂点はデュシャンの便器であろう。 ここで作品は最初から事物になる。 デュシャンのこの反美学、あるいは非美学は美学的ニヒリズムの絶頂といえる。

アンディ・ウォーホルは美学的ニヒリズム時代に芸術が生きる方式を見せるのではないか? 彼はマスメディアのイメージや大量生産された商品を絵画的主題とすることによって芸術と非芸術の境界が消えたことを証言する。 彼の作品では同じイメージが数えきれない程反復される。 これはキルケゴールが話した‘均一化’を連想させる。 ニヒリストの目には社会を騒々しくという政治的、道徳的、宗教的価値観らが正確にウォーホルが描いたあき缶らぐらい互いに違うだろう。 ウォーホルは終末論のおおげさな態度なしにこのぞっとする事実を明るい語調で歓迎する。

主人と奴隷のトドンニヒルリズムは現代人の条件(conditio humana moderna)になった。 認識のニヒリズム、道徳のニヒリズム、美学のニヒリズム. まだ哲学がしなければならないことが残っているならば、人間にこの普遍的無意味から抜け出すところを提示するということだろう。 かつてニーチェは虚無とあう二種類方式を提示したことがある。 一つは虚無に勝つために外部の価値に自身を依託したままそれを絶対的なことで持ち上げることだ。 他の一つは虚無を受け入れて自身の内部で新しい道徳を作り出すことだ。

どんな誤り(?)行って歴史的にずっと反復されるならば、そこにはどんな切実な要求が敷かれていると見なければならない。 中世以後にも人々が宗教を信じるのは科学に無知だった訳ではない。 宗教的狂信は崩れた価値らの廃虚の中で虚無を克服するための苦闘のすさまじさだ。 すべての流れた主義(注意)の首唱者らの人生もまた同じだ。 彼らは人生の無意味を克服するために地団駄を踏んでいることだ。 宗教と理念の信奉者らがよく見える独断的態度は実は他人を批判すること大切にしたのでなく自身の不安を追うためだ。

このように外部に存在する価値を絶対化することによって人生の根源的無意味を忘却してしまうことが奴隷の道徳だ。 反面、主人の道徳はすべての主義(注意)と価値の絶対性を否定してそこで出てくる虚無の状態を喜んで抱きしめる。 恐らくこれが真のニヒリストの道であろう。 ニヒリストが主義(注意)と道徳の戦いを無意味に見るのではない。 それはやはりその‘遊び’にかなり熱情的に参加することができる。 だが、その時さえも彼は自身が弁護する主義(注意)や価値が根源的に相対的という意識を置かないだろう。

文:ジン・ジュングォン( 文化評論家 )2011.04.15


イラスト:ジョン・ウォンギョ
by kazem2 | 2011-04-16 23:10