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[ジン・ジュングォンのアイコン] 世界は救いを待っている

☆cine21.com
救済批判や救援
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「救済批評」(Rettende Kritik)という言葉がある。 用語は、ヴァルターベンヤミンのものだが、その考えはずっとレッシングのところにさかのぼる。 このドイツの評論家は、啓発の一環として、これまで誤って理解されてきた古代の著者たちを弁護する。 まるで弁護士が法廷で被告を擁護するように、アドレッシングは、古代の著者たちの美学的濡れ衣をむいて下げている。 長い間、彼らの芸術的な限界として指摘された欠点も新たな視点から見れば、決して非難に値することはできないということ。 このように古代の著者たちを世間の偏見から救い出すことを彼は『救い』(Rettung)と呼んだ。

忘却の海で
歴史学ではしばしば起こっていることが例になるか? 例えば、卑怯で卑劣な者と思われていた元均が、実は李舜臣に劣らず、すばらしい長寿だったという解釈を読んだことがある。 私たちに邪悪な女として知られる張禧嬪も、女性主義的観点では、自意識を持った主体的な女性に現われるのか知らないし、狡猾な人物として知られている韩ミョンフェも、政治学の観点からは、韓国のマキャベリのような存在で明らかに飛ぶことができる。 このように伝承の中で、誤解や偏見の犠牲になった人物たちに新たな光(=視点、解析)を照らし、彼らを脱出させるのが、レッシングが言った『救い』の概念である。

世間の偏見を打破するという意味で、レッシングの『救い』は、啓発のプロジェクトだった。 ベニヤミンの『救済批評』は、この世の'啓蒙'よりも宗教的な'救援'の色彩が強く浮き彫りにされている。 また、レーシングが'人物'の救済に注目すれば、ベニヤミンは、主に『作品』を救済することに関心を示す。 神が人間を堕落の状態から救いように、ベニヤミンは、作品を伝承誤解や偏見、そして何よりも、世俗の忘却の淵から救うためである。 この場合、批判は、まるで海女さんが物質のように、過去の海中に跳び入り、そこで忘却された真珠をケネヌン作業に近づくだろう。

しかし、『救済批評』には、それより重要なもう一つの次元があるだろう。 たとえば、"決して書かれていないことを読む"には、ベニヤミンの批判主義がそれである。 これは、テキスト批評の次元を超えている。 ここで、救済の対象となるのは、'テキスト'ではなく、『物』そのものだからだ。 このように物事自体に向かうとき、批評は認識論的解釈の作業ではなく、存在論的な救いの働きになる。 しかし、物事や記号は異なっている。 したがって、物事を記号のように読み取るには、まず物や言語間の境界を崩すばならない。 ここで、ベニヤミンは、ユダヤ教の創造神話を導入する。

結束の創造物語によれば、神は御言葉で世界を創造された。 すべての被造物は、結局、神の口から出た言葉だということだ。 しかし、物事には声がないから、その言葉を発火させることができない。 沈黙する事に声を与えるために誕生したのが、人間の言語。 神はアダムを自分の創造した被造物たちで先頭に立っててくださって、アダムが称するところがすぐに事物の名前になるように言われた。 アダムの言語は命名される言語です。 もちろん、アダムが物事に名前を勝手につけたわけではない。 彼は物事に内在された神の言葉を見て、それを人間の声に忠実に移した。

言葉が入っていると、その頃の事も、人間とコミュニケーションをすることができる。 その時だけでも、人間と物とは、『君と僕』(1人称-2人称)の関係を結んだ。 しかし、すぐに堕落の歴史が始まる。 堕落した人間たちは「アダムの言語」を捨てて、「バベルの言語」を使用することになる。 バベルの言語の中で、人間との事は「私はそれ」(1人称-3人称)の関係の中に入る。 物事は、もはや『対話の相手』ではなく、ハンガト'操作の対象』に転落する。 この普遍的な堕落の状態で、再びアダムの言語を回復して物事を救援すること。 それがすなわち神の創造の働きを助ける仕事だ。

『批評』(kritik)は、『危機』(krise)の産物である。 二人は同じ語源で、すなわち『ガルダ、分割する'という意味を持つギリシャ語'kritein』に由来する。 『救済』としての批判は、危機の時代に物事を救援しなければならない。 たとえば、いつかセマングム干潟が埋め立ての危機に処したときに、スギョン僧侶はこう言った。 "私はセマングムに住むオクジョチャンセンウル代弁して話をしている。] 堕落の言語、バベルの言語が自然を、ただ『資源の宝庫』として見ているなら、救いの言語、アダムの言語は、このような声のない被造物に、人間の声を付与して、彼らが自分を主張することができます。

「救済批評」で超越的、神学的な器械を蹴り出そう。 「決して書かれていないことを読む」ということが何を意味するのでしょう? 実際に私たちは、まるで文献を読むように、この事を読み取ることができる。 例えば、考古学者は、発掘された遺物を読み取ることで、まだ文字がなかった先史時代の文化を再構築してないしていなかったのか。 しかし、考古学の日常に属するこの作業には、『救済』の意味が抜けている。 もちろん、成果物を読むのも、ベールに包まれていた一時代を無知の闇で入手するものと見ることもできる。 しかし、考古学者たちがグロソ遺物の権利を擁護することはないじゃないか。

批判的に物事を救援する例はおそらくアドルノの美学で見ることができるはずだ。 広く知られているように、現代美術は、ナチスは反民族的『退廃芸術』の烙印を押されて弾圧を受け、スターリンはバンギェグプジョク退廃的芸術とみなされて排斥された。 さらにルカチさえモダニズムを冬の時代のブルジョア階級の文化的退行的に見た。 大衆は、大衆に現代美術を嘲笑した。 このような危機からアドルノは批判を介して、モダニズム芸術を救済しようとする。 現代美術は、内容のない形式なので、彼の批評は、作業には形式を読むこと、すなわち、物事を読むことになるしかない。

アドルノは、現代美術の'型'の中に何も言わずに解決されているメッセージを読み取る。 たとえば、現代芸術が醜いのは、社会自体がチュハギだ。 現代的な絵画が抽象的に駆け上がるのは資本主義社会での人間関係が抽象的に変わったのである。 それがモンタージュとなったのは、現代の分業システムの中で、人間の労働が全体性を失い、片化したためだ。 現代音楽がブルヒョプファロいっぱいのことは、現代社会の確執を反映する。 現代演劇の不条理になったのは、社会自体が不条理であるためであり、現代詩が無意味になったのは、社会の中で、すでに意味が消えたのである。

破壊と救援
救済批評が無条件の擁護を意味するものではない。 批評の語源となった『kritein』は『ガルダ、分割という意味である。 批評とはあくまで作品や事物を言語で分節化する作業である。 一言で言えば、それは切って分けるの確執の作業である。 しかし、アドルノから​​現代アートが唯一の社会との和解を拒否することによってのみ、社会との真の和解に到達するように、批判は、物事の作品を救援するために、ウェリョそれを冷静に切って分けて解体する。 '救済批評』という表現は、一見形容矛盾のように見えるが、その中で救いという『好意』と批判という『敵』は、一つに統合される。

'文化批評'という名前の書き込みは、結局、何も言わない事を読み取る作業である。 それは何も言わない事に、人間の声をあげて、それが自分で自分を話すことに至るようにしなければならない。 バベルの批判は、物事を第便宜ように、財団が、アダムの批判は、物事に含まれている言語の本質を完全に読み取る。 救済批判は、物事を命名していたアダムの作業を延長するものであり、グロソ神を助けて神の創造の働きを完成させる道だ。 危機の時代に、世界は救いを待っている事でいっぱいです。 鋭敏な批評家の耳には事物の、その音のない救援の要請が聞こえるのだ。

文:ジン・ジュングォン( 文化評論家 )

イラスト:ジョン・ウォンギョ 2011.04.08
by kazem2 | 2011-04-10 20:33 | Comments(0)