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by kazem2
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[キムヘリの映画日記]どんなにがんばっても君の声が聞こえて

☆cine21.com
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歯科に行く。 診療室の液晶TVは、7年目の24時間ニュースチャンネルに固定されている。
意図かは分からないが、世界に蔓延した災害や紛争を見ていれば確かにすぐに近づく治療の痛みごろはほんの少しだけではないという気がする。


※<Naver Let Me Go>のネタバレがあります。

3月19日
あてもなく流れて通う私達の視線は、美しさと顔を合わせれば固定する。 美しいもの、美しい人々は彼に届くまでに使われるすべての試験を漂流に作ってしまう。 当初から彼を見るために両目が存在することでもしたように。 ルキノヴィスコンティの<ベニスに死す>で主人公グスタフフォンアシェンバフ(ダークボガドゥ)の目は花の少年タチオ(ビョルンアンドゥレセン)をたえず後に従う。 パン(panning:固定カメラの横方向の動き)の先端はいつもタチオロ決まっている。 しっかりした目標に向かって泳いでいくアシェンバフウイ目の前には地中海の景色も、サンマルコ広場の眺めもゴチュジャンスロン岩礁に過ぎない。 老いた男のジュチェクがきまり悪いだと? 映画の狡猾さをヤトボアソンならない。 あなたは、いつのまにかアシェンバフウイ『共犯者』になって全景ショトイ登場するたびに、反射的にタチオルルさぐる自分を発見することになるから。

<ベニスに死す>を押していくのドライブは、寝たきりの人が抱く青春の哀切な憧れですが、最高の美しさは作られるのではなく、ちょうど生まれたばかりであるという信念にも始まる。 劇中のセリフを使用して、ヴィスコンティは、そもそも人間が創作された美しさは、芸術家の才能と努力の前に存在する美しさを勝つことができないという考えを表明する。 高炉の芸術家は、計画によって美しさを合わせる者ではなく、広大な闇の中のどこかに、すでに自らの存在の美しさにヨヘンヒヒットすることを願って弓ソアデヌングンサダ。 美少年タチオヌン努力しなくても存在するので、より優れた美の現身である。 一生磨き上げた芸術も美人に勝つことなんて何空しい秘宝なのか。 悪徳で簡単にウンウィされる外貌至上主義は、我々が判断するよりもはるかに威力的な強敵である。 既存の標準なら全部壊そうとしたフランスのヌーベルバーグの監督たちも若い肉体の美しさには喜んで奴隷にされていなかったのか?

ジャーメイングリアの本<美しい少年>(The Beautiful Boy)は、神話と歴史の中の美少年を代表するイメージとして、1970年にデビッドベイリーが撮影したビョルンアンドレセンの白黒写真を選んで表紙に書いた。 アンドレセンのキャリアの中で<ベニスに死す>は、開始と同時に頂点となり、以降はすごく長くて退屈な下り坂が待っていた。 この映画で、16歳のアンドレセンは、表示された地点で停止し、ポーズを取って、信号に応じて、にこやかな典型的なマリオネトゥヒョン演技を見せてくれる。 手足の監督が縛っておいた行が目に見える錯視現象が起こるほどだ。 このように、自意識があらわれる未熟な演技にも映画が致命的な害を着ない理由はグクジュンインムルタチオやっぱり演技の中で'であるためだろう。 タチオヌン自身の魅力が高齢の人に与える影響を十分に認識し、その効果を吟味しているところだ。

3月20日
昨日、私が見た<ベニスに死す>は、さすがに十数年前に見た<ベニスに死す>のような映画だとできるだろうか。 今の私はその時点でまだ受け入れていない部分を理解することになったが、それを見て聞いたことの一部にヌンモルゴ耳を閉じるもいるはずだ。 長い時間を挟んで、この場合とは別に、一方の映画をまともに楽しむために、私の右の観覧回数は二度ある。 一度はあまりにも少なく、三度は科する。 最初の観覧は、斥候(斥候)の時間である。 私はガールスカウトになって映画の地形を踏査し、詐欺が埋伏している場所を偵察し、あっというまの秘境を後に注意深く見リラ込めておく。 こうして見ると、最初の観覧の最も重要な仕事は、その映画をもう一度見るかを決定することだと言うこともできる。

3月21日
<Naver Let Me Go>は、ひたすら代替臓器を得ようとする目的で、複製された人間たちの話だ。 成年になって少し前に少ないのは2回でたくさんは4回の『寄付』を終えて、空っぽの袋のように捨てられる子供たちは、途中で強制的にトゥトギョジョナガン成長の塀である。 しかし、一夫石黒の原作小説も、マークハローマネックの映画も、別に時間をとって、人間のクローンのシステムと背景を説明しない。 『クローン人間』という言葉すらほとんど登場せず、三人の主人公が育つヘイルショムの学校では注意を払わなければ馬鹿で健康に気を使うの寄宿学校の程度とみられる。 ただ、死を指す'完遂する'(complete)という表現、の姓をイニシャルだけ書かれている慣習、'グンウォンジャ'(original)など、不慣れな言葉だけが不吉な輪郭を徐々にドドゥムゲする。 <Naver Let Me Go>に対立するレプリカントではない。 厳しい条件を与えられた現実を当然視する、この完全な諦めの空気は(政治的な望ましさを論じる前に)、この映画の最も独創的な部分である。 劇中の世界は似ている漁港のようだ。 生まれたときから夕日の時間を生きる子供たちの世界を、<Naver Let Me Go>は、青とオレンジ色の光で描く。 遠い未来なんてない主人公たちは些細な日常会話の中の権力関係に執着して、小さな心の負債ずるずる引かれて通う。 暗示や比喩で建てあげた世界で育てられたわけで、彼らの話はビョンジュクマン響く特異な話法で行われる。 簡潔に言えば、外の世界の感情が持つ振幅が1から10と打てば人生の多くの部分を想像するだけで体験するレプリケーションの人間たちのそれは3から7程度に制限されている。 この痛みを現実のスケールに換算して受け入れるのは観客のものである。 だから<Naver Let Me Go>の悲しみは、いったん心の底に沈殿されたが、劇場を出てフィジョオボル時だ水面上に浮上する。

ヘイルショム学校の生徒たちには木の箱に大切な物を収集する習慣があるが、これは彼らが自らをすでに考古学の対象として眺めていることを露出さに胸しびれる。 この作品のタイトルは"私を離れないでください"ではなく"私を送らないでください"だ。 一人ではなく、去る人が言うことだ。 主人公もサラジョガル人たちなので。 三人の主人公のルース(キラナイトレイ)が離れた席には、キャッシュ(キャリーマリガン)とトミー(アンドリューガーフィールド)が残って、トミーが離れた席には、キャッシュが残る。 映画は、そこに観客の手を引き下げます。 最後に、その場に呼び出され、キャッシュの"私を送らないでください"という哀願を聞かなければならない者は、最終的にオリダ。

<Naver Let Me Go>には、同時代を舞台とするSF特有の涼しさがある。 現実ではまだ気流にだけ流れている兆候を、是非実物の形状を持つサブカルチャーに目の前に投げて置くことだ。 日本の大地震で原発の放射能漏れの危機を乗り越えて、世界が、必ずこれだけの電力を使用しなければするのか疑問を抱いた。 代替臓器の需要の一部は、医学の発展によって、人間の寿命が前には、夢を見ていなかったのラインを超えたために発生する。 やがて道徳的な党のためではなく、種全体が生き残るためには以下の欲望し、少ない消費しなければならない時代が到来するのではないか? 家に帰ったら、日本人の友達がフェイスブックに残したメッセージが届いていた。 "地震は、ここの人々の生活や考え方をどうにか大きく変えてしまった。 みんなの分岐点をマトダクトゥリョトダゴ感じている。"

3月23日
エリザベステイラーが他界した。 私リーズテイラーは、"世界で最も美しい女性"はなかった。 しかし、クレオパトラになるために生まれた女性というのには共感する。 二人は、必ず同じ話ではない。 訃報に接してリーズテイラーが1993年にAFIの生涯功労賞受賞の感想を発表する動画を探してみた。 "評論家たちも私自身も、私はあまり真剣に扱っていませんでした。 だが、そう悪くはんですよ? でそうですか? (一座笑)(中略)自ら学ぶように感じることができるようにしてくれてありがとうございます。"彼女はかなり長い感想を、一寸の誤差なく、効果的に調整された表情やイントネーションに転送し、女王のペースで段を降り立った。 動画中の起立拍手をする聴衆の中には、昨年故人となったデニスホッパーが見えた。

文: キム・ヘリ 2011.04.08
Commented by エリ at 2011-04-09 03:16 x
今回のヘリさんの記事はタイトルからして幻聴を連想した私は、精神障害を患っている精神障害者です。
いくら頑張っても相手の声が聞こえるのは、リアルでなければ幻聴です。
仕事中に相手から注意された、それはリアルです。
しかし、相手から注意をされたりなどしていないのに相手の声が聞こえる、それは幻聴です。
しかし、私たち障害者は皆、社会復帰を目指してリハビリ等を頑張っているのも現実です。
仕事中などに聞こえる幻聴は私たち障害者だけでなく、普通の健常者の方も辛いと思いました。
この記事も似たような内容っぽいような、違うような…。
そんな気がするのは、私だけでしょうか…?
Commented by kazem2 at 2011-04-09 08:14
☆エリさん
おはようさ~ん

今朝のお目覚め いかが~^^

この「君の声」は幻聴でもリアル声でもなくて
映画の中に見える監督の気持ちというか「思い」だと思うよ

ヴィンスコンティが生きた時代は「同性愛」ということについてはタブーだったと思うのよ

今では「同性愛」は市民権を得て 国によっては違うけど結婚もできるし 自分が「ホモセクシャル」とカミングアウトしても みんながそんなに驚かないよね

個人の趣向というか それもあり得ることと思える人が増えたのね

映画の中で監督は自分は「ホモセクシャルではないよ、
これは映画だよ」と頑張っているようにみえるけど

画面のあるシーンとかに「僕は男が好きだ」というのがヘリさんには見えたのよ^^

ヘリさんも若いころに見たけど その時は監督のそういう趣向までは見えなかった 

年を重ねた今では見えたんじゃない^^

Commented by kazem2 at 2011-04-09 08:14
つづき

ヴィンスコンティは結婚もしているけど

本当は美しい青年が好きな「同性愛者」だったのかもね

監督って自分では気がつかないかもしれないけど

映画の中に見えたりするのよね~

男の人を美しく写しだしたりする監督はネ^^

やっぱり 映画は監督のものだと思う^^
by kazem2 | 2011-04-08 22:13 | Comments(3)