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by kazem2
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[チン・ジュングォンのアイコン]鉱物に似た顔の不気味な美しさ

☆cine21.com
デジタル肖像とオンケニのプンクトゥム
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デジタルは写真の本質で見なされた特性を威嚇する。 すぐに被写体の存在だ。 手で描いた形状は必ず実在する必要がない。 それはただ画家が広げる想像の産物でありうる。 写真のイメージはこれとは性格が違う。 それが何だっただろうがひとまず写真につけられたとすれば、その何かがそのいつかその場所に実際であったのだ。 法廷で写真は証拠と認定されても、絵は証拠と認定されないのはこのためだ。 だが、デジタルは写真と絵の区別を押し倒した。 前に写真は法廷で証拠と認定されるのがますます難しくなることだ。

写真のプンクトゥムバルトゥは<カメラルシダ>で‘プンクトゥム’(punctum)を写真の最も重要な効果で聞いた。 プンクトゥムという(よく‘ピルがささる’でする時のように)写真の中のイメージが私たちを刺すどんな触覚的効果を示す。 バルトはこれを‘ストゥディウム’(studium)に対立させる。 ストゥディウムが写真の意味を読むようにするどんな慣習的コードならばプンクトゥムは一切の解釈のコードを転覆して私たちを襲撃する一種の事件とのことだ。 事実のようなメッセージを投げてもどんな写真は何の興味も与えない反面、あるものは理由なしに目を引っぱらなかったか。

ローラン バルトによれば、写真はメッセージを伝達する‘記号’でなく、コードの外側で私たちを刺して、心を破って、時には戦慄に震わす‘事物’だ。 換言すれば写真は何かを再現する絵(icon)でもなくて、何かを伝達する文書(symbol)でもなくて、ただ存在したどんなものの跡(index)であるだけだ。 それはそこにあったし、そこにあったので光を照り返したし、その光がレンズを通じて集まってフィルムにバリン感光物質に反応を起こしたことだけだ。 一言でそれは事物、たとえば目の上につけられた足跡と同じことだ。

プンクトゥムはこの被写体が一時存在したという事実から出る。 だが、デジタルは写真のこの本質的側面を威嚇する。 たとえばデジタル写真はピクセルで形成されていて、加工もピクセルの水準で可能だ。 このように事物の生成単位と存在単位が一致する時操作は完ぺきになる。 デジタル イメージの場合、それが果たして存在したことの再現なのか、でなければ存在したことないことの想像なのか区別しにくい。 それはあえて被写体を要求することも、それの存在を証明することもないためだ。 被写体がないならば、当然プンクトゥムもあってはならないことだ。

デジタル写真のプンクトゥマジマン デジタル写真でも私たちは相変らず‘プンクトゥム’だと呼ぶほどの触覚的効果を経験する。 それはいったいどこから出てくるということだろうか? 恐らくそれは米国の評論家するポスターが超現実主義芸術の特徴で聞いた‘オンケニのプンクトゥム’と関連があるだろう。 たとえばデジタルは存在しないことにまで写真の生々しさを付与することができる。 だが、大衆は古い視覚的慣習により相変らず写真の中の被写体が本当に実存したことだと信じる。 ここでデジタル イメージは存在すると同時に不在するという、微妙な重義性を帯びることになる。

デジタル写真は実在したように見えるが実際には存在したことがないことのイメージだ。 このように存在しながら不在するという点でデジタル イメージは幽霊に似た。 幽霊が背筋が寒くなるように感じられるのは、それが生と死の境界線で出没するためだろう。 幽霊という(のは)結局死亡者が生きて動く現象ではないのか? ドイツの心理学者イェンチュィはこのように死んだのか生きたのか不明な対象を見る時感じる感情を‘凍った掘るから’(unheimlich)と呼んだ。 その感じが知りたいのか? それではマネキンでぎっしり埋まった部屋で一人で夜を送る場合を想像してみなさい。

それを‘プンクトゥム’だと呼んでもかまわないのか分からないが、デジタル写真にも明確に私たちを襲撃して圧倒する効果がある。 だが、その効果は被写体が一時存在したという事実から出るのではないだろう。 デジタル イメージで被写体という(のは)必須不可欠な要素ではないためだ。 その効果は一時存在したが今は存在しない対象のかすかな思い出でなく、存在しないながらも存在するように見られる対象で感じられるどんな背筋が寒くなるということと関連があることだ。 するポスターの表現のとおり、デジタル イメージの効果は‘凍った掘るから’のプンクトゥムだ.

キス カッティングハムの写真はちょっと見れば典型的なスタジオ肖像のように見える。 黒い背景にハイライトを受けて立っている人物は他の見方をすれば美しそうな少年で、他の見方をすればまだ成熟が軽薄な女と見える。 だが、その人物は実存するのではない。 それは作家が素描と塑造で先にフレームを浮かび上がって、その上に色々な人物を取った写真をスキンで負わせて作り出した加工の存在であるためだ。 よく彼の写真には“恐ろしい美しさ”(frightening beauty)があると入る話す。 一言でオンケニの美しさという話だ。

ナンシーポスンという作家はスターリン、ヒットラー、毛沢東の写真を合成して独裁者の肖像を作り出した。 日本作家キタノゲンは特定コミュニティ構成員の写真を撮った後そのフィルムらを重なって焼き付けする。 その効果は非常にぞっとしてあたかも闇の中に幽霊が立っているような感じを与える。 英国作家クリス ドリーブラウンは特定年齢帯に属する限り村の女性たちの写真を撮った後コンピュータを使ってそれを一つの肖像で総合した。 2千人の顔が重なる所に現れた人物はあたかもたった今空から降りた天使のように美しい。

ドイツ作家ロレタルクスのモデルは友人や隣の子供たちだ。 彼はこの子供たちをとった後コンピュータを利用して子供たちを自身が手で描いた背景の中に配置させる。 写真の中の子供たちはポトショプを通じて実際より目が大きく描写されたせいで人形なのか人なのか区別するのが大変だ。 デザイナー出身のロシア作家アレック屠牛は主にファッションモデルらを対象に作業をする。 カメラで撮ったモデルらはポトショプを利用した操作を通じてほとんどマネキンのように見える。 人形とマネキンは凍った掘ると効果のために超現実主義者などが好んで訪ねた材料であった。

肖像のチュグムノルランバルトが<カメラルシダ>でプンクトゥムの例にあげた写真らはたいてい肖像写真だった。 写真でも絵でも肖像の本質は人物の外面を通じて彼の魂を表わすところにある。 だが上から見たようにデジタルの肖像には魂が存在しない。 なぜ? その人物らは存在しない加工の存在らであるためだ。 恐らくここで‘肖像の死’を話すべきではないだろうか? デジタルの肖像は一言で‘死んだ肖像の肖像’ということができる。 デジタル肖像にも相変らずプンクトゥムがあるならば、それはこのオンケニで出てくるだろう。

フロイトによればオンケニという‘抑圧されたことの回帰’と関連がある。 人間は生まれる前に生物と無生物、有機体と無機体、生と死の区別を分からなかったために、生まれた以後にもその状態に戻ろうとする無意識的欲望(‘謝意(辞意)衝動’)を持っている。 人生の真中でその抑圧された欲望を連想させる対象や現象を見る時、人間は背筋が寒くなるということを感じることになるということだ。 20世紀始めに無意識を解放させようとした超現実主義者などが凍った掘ると効果に執着したことはこのためだ。

デジタルと一緒に超現実主義が戻ってきたことだろうか? 魂ない肖像、無機物を似顔の背筋が寒くなった美しさ(“無機物のセックス アピール”?)銀すでにファッション、広告、映画市場で大衆の好みに成っていっている。 だが、デジタルのオンケニの美学が20世紀始めのようにアワビ的、解放的機能を持つのではない。 残念ながら今日欲望はこれ以上抑圧されない。 むしろ市場で技術と資本の全幅的支援を受ける。

文:チン・ジュングォン(文化評論家)2011.03.18


イラストレーション ジョン・ウォンギョ
by kazem2 | 2011-03-20 19:31