ANEMA E CORE


by kazem2
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

泡のキスよりも甘いシネフィルの誘惑

☆cine21.com
2011年にシネマテックの友達が選択した映画は?
e0109292_192495.jpg

2011年のシネマテックの友達の映画祭が開かれてる。
1月18日(火)から2月27日(日)までだ。 国内の有名な映画監督13人と評論家2人とミュージシャンの2人が選んだ映画が上映される。 シネマテックフランセーズと韓国映像資料院は、友情の名で、各自が保有する映画を送ってきた。 昨年他界したエリックロメールチュモジョンと未知の監督マテオガロネ特別展も開かれる。 真冬を分解するほど豊かである。 その中で久しぶりに上映したり新たに説明が必要だと思われる作品を中心に紹介する。 毎年秒私達を思い出させるのシネマテックの友達の映画祭。 今年はどんな作品があるだろうか。 期待される。 今から鑑賞してみよう。





開幕作<レネプログラムとミラベルの4つの冒険>
Quatre aventures de Reinette et Mirabelle
エリックロメール│1987年│95分│フランス│カラー│35mm│12歳観覧可
e0109292_19302787.jpg

田舎の少女と街の女の子が偶然に道の上で出会う。 黒髪の田舎の少女の名前は、ミラベルは、金髪の都市の少女の名前はレネトゥ。 ミラベルは、感性豊かな一方、事あるごとに、原則であり、レネは、普段は冷静だが、ふと一般の常識に反する冒険心を発揮する。 映画は計4枚で、だから四つの冒険で行われるのにレネプログラムは、ミラベルの田舎の家で過ごす数日間が、最初の章、その後、ミラベルがパリのレネプログラムのアパートに住まいを移して同居を始めながら、残りの三つの章パリで行われる。 エリックロメールの映画には4つの章があるということは素直に答えを出しにくい、少なくとも四つの質問と四つの矛盾が一緒に入っているという話になるだろう。 おとぎ話でもあるし、時にはコミカルなドドクグクな気もしたの逸話が織りなすロメール式の哲学が宝石のように光る。 <緑の光線>を作成した直後にロメールがそのオーラと映画的方式を16mmカメラに収めて即興的に作った作品で、"慎重に軽快で地味な、本当に物語の中に帰結するとは起こらない、それにもかかわらず、ほとんどの種類のピークにある映画監督を示している"(ジョナサンロジェンボム)は、評価を受けたことがある。 2011年、今年のシネマテックの友達の映画祭の開幕作。

キム・ヨンジン チュチョンジャク<サンパブロ> The Sand Pebbles
ロバートワイズ│1966年│185分│米国│カラー│35mm│15歳観覧可
e0109292_19313453.jpg

1926年に中国に派遣された戦艦サンパブロ号にホルメンという新たな機関士が来る。 最初にホルメンは、仲間たちが、まるで奴隷をブリドゥト中国人たちを操ることにも、そのための専門家でもない中国人たちが戦艦の実際の労働者のように働くことにも不満を持っています。 しかし、いくつかの事件や人物たちに会って徐々にこちらの生活に慣れ、彼にも本気で心を破壊する中国人の友達ができるなどの大陸でのエキサイティングな新しい経験が繰り広げられる。 しかし、外部勢力の後押しも適している中国内の雰囲気が激しくなるとホルメンとサンパブロ号の船員たちは、危機に陥ることになる。 リチャードメケンナウイ同名小説を原作にしており、<サウンドオブミュージック><ウエストサイドストーリー><傷だらけの栄光>などで私たちにもおなじみのロバートワイズ監督の隠れた秀作だ。 取り返しのつかない巨大な歴史の流れと個人の切なさが交差するというから時代劇としての魅力が満載だ。 3時間という比較的長い上映時間にもかかわらず、その中で曲げても話が興味深く、魅力的な雰囲気の場面も多い。 その中でも、主演俳優のスティーブマックインの演技と非情の正祖が引き立つ、まるで中国式の伝統的な建物で繰り広げられる西部劇としなければならないかもしれないラストシーンが特に逸品である。

オ・スンウク チュチョンジャク<北極の帝王> Emperor of the North Pole
ロバートアルドゥリチ│1973年│118分│米国│カラー│35mm│青少年観覧不可
e0109292_1933237.jpg

世界大恐慌期のアメリカ。 列車のただ乗りする放浪者たちには、悪名高い車掌シャック(アーネストボーグナイン)がある。 彼は自分の列車に密かに乗った人々を金づちで殴り殺す。 ついに'A No。 1'あるいは北極の帝王とも呼ばれる無賃乗車の帝王(リーマーヴィン)がサメの列車に乗って目的地まで行くと言って、一種の彼らだけの決闘を申請し、サメは、それを阻止すると大言壮語して、人々はそれらのいずれかにお金をかけて、このレースの結果を待っている。 そして、私たちはそのレースを映画の中を見る。 <北極の帝王>は、1970年代のいくつかのアメリカの映画が持つ対決と承継がらみの奇妙な孤独感と連帯感をそのまま抱えつつもジャンル的単純性を極端に推し進めるロバートアルドゥリチシク映画でも遜色がない。 映画は興行に惨敗したが、二人の主人公の対決を特別に描きたかったロバートアルドゥリチヌン後日、このように逆説的に語った。 "二人の主人公の競争がマトブトオトときにそこにはお互いに対する尊敬と呼ばれる一連の作品がある。 彼らは、その競技場(列車)外ではどのような衝突ももたない。 そしてそれが(列車の外側から)お互いに殺す機会があっても、なぜそうしないのかの理由だ。"どちらか一人の主人公ではなく、極度の対決自体が本当の主人公になる映画があり、その<北極の帝王>は、その中の古典である。

リュ・スンワン チュチョンジャク<狂気ゲドゥル> Kidnapped
マリオ馬場│1974年│96分│イタリア│カラー│35mm│青少年観覧不可
e0109292_19335071.jpg

映画が始まると、田舎者の赤い画面の中に女性のシルエットが見え、この上なく陰惨な女性の泣き声がしばらく聞こえてくる。 その形や鳴き声は、恐ろしくもしてオスプギもある。 あまり洗練されたデバイスの一箇所がなくても無限に気に逆らうことを知る場面。 この場面は、イタリアホラー映画の巨匠マリオ馬場の映画であることを立証する。 人間の無意識的に誰よりもしばらく下がったという評価を受けた、あるいは衝撃を与えることができれば、そのすべてのものでも希望したという監督のマリオ馬場。 容赦なく風変り陰惨なのに、同時に粗末で遊び心まで満載の彼の映画は、通常のホラー映画だった。 だが<狂気ゲドゥル>このホラー映画ではない。 この映画は、恐怖の効果をもたらす白昼の脱走劇である。 複数の犯罪者が銀行を奪うことが誤ってされると、二人の女性を人質にとる。 そのうちの一人の女性が序盤に殺さ言ったら、残りの一人の女性を引っ張っていく。 さらに子供を乗せた男の車に乗っていたら彼を脅して、一緒に連れて行く。 撮影はほとんど窮屈な車の中だけで成り立って閉所恐怖を作り出すのに十分で、人物のほとんどは残酷だ。 挙句の果てに最後に達するとマクガパレベルの反転が起きるのだが、それすらもマリオ馬場式の遊び心に属する。 監督が残したノートを基に新たに編集した復元版を上映する。

ジョン・ソンイル チュチョンジャク<木、市場、メディアテック>
L' arbre、le maire et la m?diath?que
エリックロメール│1993年│105分│フランス│カラー│35mm│12歳観覧可
e0109292_19342972.jpg

エリックロメールは『季節の物語』の連作を作っていた真っ只中に彼の最も例外的な、しかし最も政治的な作品である<木、市場、そしてメディアテック>を作った。 彼はいつかは言った。 "<木、市場、そしてメディアテック>のように歴史的、政治的な映画を作った時にも、観客はついてきてくれた。 私は自分自身を心理学的なトピックスやロマンチックコメディに限定炊き思わない。 それが私の最も個人的に複雑だと感じることであってもだ"この映画で、閑静な田舎の村の市場に最先端のメディアだけを作ろうとするのは劇的事件ではなく、'討論の映画'になるための前提だ。 ロメールは、"もし、誰が何をした場合は、していない場合"という仮定のチャプターを表示する中、俳優や女優がや俳優と一般人がペアにし、まるで一村に住んでいる人たちのように当たり前のように意見を交換するフィクションとドキュメンタリーの結合を完成こなす。 ロメールのすべての映画的要素がそのままあり、そこに仮想の政治的な事件が必要になった時、この映画は、最終的に『自然、政治、そしてユートピア』についてのロメールの議論である。 コミューンに関するこのような美しい想像的話も珍しい。

ポン・ジュノ チュチョンジャク<赤い殺意>赤い殺意
今村昌平│1964年│150分│日本│モノクロ│35mm│青少年観覧不可
e0109292_1935248.jpg

種に入って来たが主人の息子の破壊に子供まで産んでネチョ彼の妻として暮らすことになった貞子。 夫は出張を行って子供も義母と一緒に家を留守の間に強盗が入る。 強さは、お金だけ盗んで行かず貞子を破壊する。 夫がいない間に適当なそんなことが貞子は恥辱製の"死ぬよ! 死ぬにして!"と念を押したのにそれとともに彼女は台所に私がご飯を探して食べる。 ここからが尋常ではない。 強さは、彼女をまた訪ねてきて、彼女は罪悪感を感じるようだが、実際にそうではない。 徐々に、この奇怪な状況の主導権は貞子に向かって移動する。 今村昌平は、日本の映画が欧米に植え付けた従来の女性像を揶揄する。 "成瀬の<ブウン>と溝口の<大楼の一生>の女主人公たちのような自己犠牲の女たちは、彼らは存在しない。 私の女主人公たちの人生に本当である。 あなたの周りの日本の女性を見回し見てください。"決して美人とは言い難い貞子の顔と態度は、彼女が人間の欲望と肉体についてヨクギョウルほどに率直な今村昌平の主人公になろう<赤い殺意>は恐ろしい生活意志の映画に変わる。 日本映画専門家のドナルドリッチーは、簡単明瞭に賞賛した。 "深く、汚くてきらびやかな映画"。

シネマテックフランセーズ展<ローラモンテス> Lola Montes
マックスオプウィルス│1955年│116分│フランス、ドイツ、ルクセンブルク│カラー│35mm│15歳観覧可
e0109292_19354985.jpg

彼女は『記憶の女王』と呼ばれる。 たかがサーカスの動物や、違うところない光景になったが、かつて彼女がジニョトドン高貴で威厳のある伯爵夫人としての姿は、まだ消えていない。 どこにもとどまらず、あらゆる人が魅了させることができた彼女は、今では物語に観客をホルリンダ。 世界の変化と一緒に没落て行った彼女がサーカスの舞台の真ん中に登場して、過去の話を展開していく際に、映画は奇妙な時間の経験をプレゼントする。 発表当時は論争に包まれるほどものすごい興行失敗作だったが、時間が過ぎては、"オプウィルス的なものの創造的統合体としても、それ自体の完結性を持ったスペクタクルとしても楽しむことができる作品"(アンドリューセリス)という評まで勝ち取った。 マックスオプウィルス映画の創造的な美しさがすべて集約された作品といっても過言ではない。 カメラの動き、交差する記憶、定住していない人物たち、その中でも説明されていない女の存在。 これらのすべてがカラーで作業したマックスオプウィルスの最初の作品であると同時にユジャクインこの映画に込められている。 今回の上映作品は、2008年にオリジナルのテクニカルダラーに復元されたいずれかの版を上映する。 <ローラモンテス>は、本物のスペクタクルを見る醍醐味は何かを教えてくれる。

シネマテックフランセーズ展<ボバリー夫人> Madame Bovary
ジャンルノワール│1933年│101分│フランス│モノクロ│35mm│15歳観覧可
e0109292_19365030.jpg

ギュスターヴフローベールの同名小説が原作だ。 エマは、医師シャルルボバリーと結婚するが、退屈を勝つことができなく、他の人に出会うことになり、同時にドンムンジェエ苦しむようになる。 そうして最終的に破局を迎える。 後日イザウィペルをマダムボバリーロテクヘトドンクロードシャブロルは、不気味な狂人に彼女を描き出した。 一方、ジャンルノワールはそれとは別の方法ではるかに豊かな人物で、ボバリー夫人を想像していたようだ。 ルノワールが最初に出したのは3時間がふわりと越えるのバージョンだったが、製作者の削除で、今は101分の上映のバージョンが残っている。 今までの章ルノワールの映画の生命力と活力まで削除されたようではない。 アンドレバジェンはボブワリ夫人役のバルランチンテシエルル"驚くほどの、常識に反するキャスティング"と言いながら、これを学びを重要視したルノワールの"肯定的挑発"とした(一方、シャルルボブワリヌンルノワールの実兄ジェーンピエールルノワールが延期した)。 エリックロメールは、"ルノワールは、原作のセリフやシーンへの文字通りの忠実な再現を放棄することなく、フローベールの黄金のような文体にいじけないていない"とし、原作と沸き力を争われたこの映画について、支持の文を残したしている。

シネマテックフランセーズ展<サンタは青い目を持った> Santa Claus Has Blue Eyes
章ウェスタシュ│1966年│47分│フランス│モノクロ│35mm│15歳観覧可
e0109292_1941873.jpg

毎日の友人たちの喫煙を得吸っシシコルロンハン冗談やしながら、カフェで時間を殺すの青年ダニエルは、ある日ふと、お金が必要だという考えにアルバイトを探して出るようになってサンタ服を着て写真のモデルをして小銭を得る。 その後映画にはマイナーなものがいくつかそれ以上でありれるが奇妙なのは終始一貫して感度は圧力である。 挙句の果てに青年たちが肩を組んで夜の街を放ち今チャンニョチョンにガジャミョみんな退屈な人たちのように歌を歌いながら路地を抜ける最後の場面はどこかチョヨンまでである。 20代の青年章ウェスタシュヌン彼の2番目の映画の中で、自分の周囲に散らばっているやつれている風景を撮って出す。 主人公にジャン=ピエールレオは大変よく似合う。 しかし、章ウェスタシュヌン"私はリアリズムの出現ではなく、映画のリアリティに到達するために、人為的な方法で人物を言っている"と語ったことがある。 だから、これは事実そのままではなく、ジェベヨルドゥェン事実であるかもしれない。 一部の批評家は章ウェスタシュウイ<ママと娼婦>(1970)は、「68年5月以降に道に迷った青年たち」に関するものだったと語っており、まるで<サンタは青い目を持った>は、その時間がまだ来る前に、暴風前夜のそれのように危うい。


文: ジョン・ハンソク 2011.01.27
by kazem2 | 2011-01-27 19:38