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by kazem2
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[キム・ヘリの映画の日記]自虐の詩、あるいは映画を作成する

☆cine21.com
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12月1日の夜。 毎年そうだったようにささやかなクリスマスツリーの点灯式を献上。
今年は、アニメーション<クリスマスの悪夢>のキャラクターたちを招待した。



11月22日
4人の監督が囲む飲み会。 A監督は、次回作のシナリオ草稿と格闘していて、B監督は、キャスティングの進歩に歯止めがかかった。 この日の会議の主賓格のC監督は一昨日に公開された映画の興行成績に悲しい思いをしたし、D監督は、映画を完成したが、公開が遅れた。 ふと学生時代の生物の時間に教えられた"個体発生は系統発生を繰り返す"という説が浮上した。 言い換えれば、この風景は、『映画の作成で発生する受難の系統的進化』を、各'オブジェクト'は、手順を追って例示しているわけではないか。 他人の苦境をノルリミョ自分の憂鬱を忘れてしまったのか、自虐を披露し、他人の憂いを軽減してくれたかどうか確実に見分けることはできないが - 隣の席のお客様は、何か大きな傾斜も出て、集まった人たちであると思っていたのだ - みんな少しずつ軽くて暖かくなって別れた。

11月23日
ソン・ジェゴン監督の<二階の悪人>は、4年という期間を考慮すると、前作<甘く、殺伐とした恋人>(2006)と驚くほど近い。 チュンエンロマンチックコメディー、2階には犯罪スリラーが入居した集合住宅の外観だが、肝心の本領は、犯罪でもロマンスでもない。 本末転倒ご注意というか。 ソン・ジェゴン監督は、現実に起こる場合は、明らかに注意の焦点になる事件を"私たちの町では、いつもの日"という투로対処する。 殺人犯が偶然に録画された証拠を隠滅しようと、ビデオを全部借りて見ている映画ファンになる物語を描いたデビュー作<あまりの人気男>からそうだった。 殺人や窃盗という『セン』をモチーフに物語の始動をかけるが、肝心の事件との場面で作成された部分は、犯罪行為自体ではなく、彼の支度する過程や、細かいドィトガムダンである。 恋愛感情を追っていくのも、普通の映画がかなり呼吸を均等にし、念を入れて描くの関係の転換点をつかつか進んでしまう。 要するに<2階の悪役>で演奏(キム・ヘス)と川先生(ハン・ソッキュ)の間に縁死んだ前夫の影には、通常のドラマで、深刻な障害になるはずなのにも劇中ではほとんど影響を及ぼすことはない。

俳優ハン・ソッキュの演技は、とうとう、'イジュクゴリダ'と'ヌムルヌムル'という単語を国語辞典で拾い読みすることを作った。 'イジュクゴリダ'は'であるジュクゴフロリダ'の短い言葉で、"しきりにミプサルスロプゴ皮肉ビンジョンゴリダ"という意味であり、「ヌムルヌムル」は、"ヌングルヌングルハン態度でクンドクジゴモトドゥェゲ区の形態"とプルイドェている。 電子辞書の二つの単語の項目に<2階の悪人>川先生のセリフの音声をサポートする場合は申し分はないだろう。 何度も、執拗に。 そうだ。 執拗に言葉が降り注ぐ<2階の悪人>には、残ってノプルゴリヌンセリフが多い。 ソン・ジェゴン監督は冗談を制御できないか、あえて制御しない。

試写会場を出てすぐに浮上したもう一つの単語は、ヒステリーだった。 演奏と川の先生は、愛や利権を超えて、ただのヒステリーの中で一つになる。 クリスティーナフォンブラウンの<ヒステリー>を取り出してあさる、ヒステリーという概念よりぴったりと当てはまるのはキャラクターよりも、<2階の悪役>という映画のかもしれないと考えた。 フォンブラウン博士によると、ヒステリーの面の一部には、次のとおりです。 "予測不可能であり、魅力的だが表面的であり、性的にスーパーが、自分は少し不感症である。"でも著者は、他の症状と区別されるヒステリーの特徴は、いわゆる軌道を外れ、自分の行動の裏に隠れた意味を自分ではっきりと意識してている点にあると言う。 この部分は、大半の芸術家たちに適用されている話だと引用として役に立つことがようではありませんが。

11月26日
体験三亜の子供パッドを数日間いじり種だ頭が複雑になった。 この世の中には機能的にあまりにも巧み政治に設計され、完全に駆動されるので、必ずそれを使っての存在の意味を完成させてくれば以下のような強制を抱かせるものがある。 酸っぱい果物を口にしていない人さえ誘惑するフィリップスタルクのレモン汁チャゲとか、(非常に危険な例として)ルイージコーラ君がデザインした素早い長銃がそうだ。 つまり、必要があるツールを作成する通常のパスは逆立ちを立てるのだ。 子供パッドのなめらかなヨプリョプハムド一抹の不安を呼んだ。 この素晴らしい新世界は、最終的にしなければならない事を限りなく猶予と思う私たちに与えられた綺麗な迷路のではないだろうか。 洗練されたアプリケーションで通じる無数のパイプラインは、あえて出口を探さなくてもいいと思うように作る幻想的な迂回路ではないだろうか。

ウェブの時代は行ってアプリ(アプリケーション)の時代が来るという噂が持ち上がったれるかなりされた。 ワールドワイドウェブのオープン性と、それが約束された新たな広場のイメージは、まさに牧歌的だった。 ただし、ブラウザの前で育った世代が、ブラウジング(browsing)に疲れてしまった。 スティーブジョブズ氏は知っていた。 歳月が流れ、購買力を持つと同時に人生が有限であることを削減し始めたのはそれらが無限の共有、無限競争の海の上を漂うことに尽力を出すつもりなんだ。 "さあ、好奇心は、いい加減にチェウォトウニになりお金がちょっと聞いても、自分の好みに合って質が保証されているコンテンツをすばやく簡単にガトゲトオ"ここでのポイントは、"お金がちょっと聞いても"にある。 網の広場に表示された場合にのみ限り、社会的影響力はないとしても、結局、コンテンツ企業とメディア企業に必要なのはスイクイルから。 著作権者であるアーティストは、言うまでもなく、収益源となる広告を作り上げるの広告の専門家の意欲だけみても、網は競争力が走る。 Webバナー広告は、すでにTV、床、ビルボードで成長するように発展してきた広告分野の専門家に過度に粗いのプラットフォームだったと思うが一歩遅れて入る。 作る人と、流通させる人、流通のプラットフォームを作る人の利益が一致したときに水の流れは速くなるしかないであろう。

ジギョプジマン再び<ソーシャルネットワーク>。 フェイスブックの成功の秘訣は、それが適当に閉じているシステムでは、アクセス性を階層化できる構造だという点があった。 産業革命期のエンクロージャの動きから『垣根打撃』は、資本主義の自然な生命維持装置だった。 一つの技術が普及に親しくなって後、誰かがそれにフェンスを打って、他人を排除して所有している。 本当にApp網を完全に圧倒される時代が来るとしたら? インターネットは不特定多数がぶつかって乱舞を繰り広げる掲示板/広場の機能を縮小し、高速道路の役割に重点を置いたのではないか。 ウェブには目に見える商品を取引するショピンモルマン残って、その他のすべてのことはアプリケーションのストアで取引される世の中が来るのだろうか。 商品性を認証されたコンテンツは、アプリケーションのストアでは、アマチュアたちが生産したコンテンツは、Webサイトに遠心分離されているのだろうか。 ああ、もう! ソルイクウン推測はこれ位に壊し、心を新たに同期しよう。

11月29日
<ベリドゥ>(Buried)を119消防災難本部の乗組員たちとある劇場で見た(いかにも安心された)。 映画は、芸術的なカンマか領事の事故であるかどうかちょっと揺れるほど長い暗転に開始した。 そういえば、気を失った間センメジャンドゥェン男の話なので人物が状況を把握するまでは、光も声もないのが正しい。 上映時間中の人物と映画の砂漠に埋もれた管の中に徹底的に監禁されたこの映画は、一つのロンテイクで撮影された映画や全体の視点ショトマンウロ編集した映画などと一緒に『映画のスタント』ジャンルで囲んでも良いそうだ。 設定を知っていた私には2つの心配があった。 一つは、フラッシュバックやフラッシュフォワードで映画が卑怯な脱出をクェハジではないかという懸念であり、もう一つは、独り言のセリフがソトアジミョンどうする恐怖だった。 幸いにも両方の杞憂だった。 違う言葉だが、映画やドラマを見て、"さあ、今からでも逃げて!"という避難のサイレンを受け入れなければならない場面があるので、主人公が独り言で内面の感情を中継し始める時だ。 とにかく、このような部類の映画には<ベリドゥ>に対する観客の反応は両極だった。 映画が終わるやいなや、沈痛なうめき声を出して同行とのけんかを始める人々がいて、一方では、劇場の明かりが点灯するまでの座を守ったが喝采を送った。 最近では、<哲プルーフ>と<パラノーマルアクティビティ>の試写会が同じような風景だった。 趣向を去って閉所恐怖症の観客への警告は、添付する必要ではないかと考えた。 '閉所崖号証'に近い私のような観客の爪も映画を見た後、列のうち七がムルオトゥトギョていたから。

文: キム・ヘリ 2010.12.17
by kazem2 | 2010-12-17 20:25