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by kazem2
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[キムヨンジンのインディラマ]ますます深まる彼の映画の言語で礼拝を

☆cine21.com
釜山(プサン)国際映画祭で見た映画<豆満江>をジャンリュル監督のチェゴジャクに選んだ理由

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<豆満江>




今年の釜山国際映画祭でジャンリュル監督の新作<豆満江>もっと多くの注目を受けることができなかったのは、You、僕のことだ。 この映画はジャンリュルのフィルモグラフィーでチェゴジャクイルだけでなく、同時代の映画の中でも傑作のレベルに上がっている作品だと思う。 ジャンリュルの映画の言語はますます深まっている。 ストーリーの予定された因果関係をかきわけてピジュクピジュク湧きあがる感情の勢いが強くて、映画の大詰めになると、ほとんど片付けることができない状況にまで至る。 ジャンリュルのミニマリズムに近い方のスタイルは、いつものように淡々とした外観を保つが、内的なリズムの激しさは彼自身のどの映画よりも激しい。

<豆満江>は、豆満江河口から北朝鮮に向かって生きていく中国のどの朝鮮族同胞の村が背景だ。 貧しいが平和なこの村に、北朝鮮の人々が川を越えてタルブクヘ入って来。 北朝鮮の脱北者たちに、最初は同胞として好意的だった中国朝鮮族の村の人々は脱北者たちが自分たちの食べるものを盗んで色々な害に不本意ながらジョジルジャやがて、彼らを気にして憎悪することになる。 このような状況で、母が韓国にお金ボルロガンまま、おじいさんと物の言えない姉スンフイと一緒に住んでいる朝鮮族同胞の窓は、北朝鮮と中国を頻繁に出入りする精進とは、北朝鮮の男の子と友達になる。 彼らの友情も、大人たちの状況と同様に、変化を経る。

画面の中と外の照応と反対の演出方法

簡単なストーリーだが簡単ではないことを盛り込んでいる。 新聞の社会面単身に出そうな、またはテレビのヒューマンドキュメンタリーに出てきそうなストーリーなのに私たちが知っていると考えているゴトエダ複数の立体的な状況を暗黙的に配置しておいた。 朝鮮族の子供たちが、いつも雪の降る村の入口空き地で、中国公安とゴンチャギ遊びをしたり、認知症にかかったの村葬の母は、いつもの川を渡ろうとし、スケトウダラなどを運んで売って村の店のおじさんは、トラックに密かに北朝鮮の脱北者を非表示入って来ているなどの状況が続いれるが、この過程で、建具と精進二人の少年の友情が徐々に発展していくのが見える。 最初は釘の住んでいるところからきたと密かに捧げることを軽蔑していた窓は、精進がサッカーの才能があるということを知ってすぐに降りかかるゴンノトマウルの子供たちとのサッカーの試合で、精進が一緒に走ってくれればいいなと、要するにスカウトする。 精進が病気を患う幼い妹に食べることを助けに鋼ということを知った上でから、窓には精進よりよくしてくれるのに状況は、これらの友情を許さない。

ある日の夜遅くにある脱北者の男が窓の家を訪ねてきてハルトバムマン倉庫からジェウォジュルことを求める。 翌日、建具と祖父が市内で行っている間、脱北者の男は、自分に食事を与えたスンフイに、最初は伏せてジョルハミョ感謝の意をピョハジマンお腹が呼んでも食べるものが上に残っていると密かに酒を求める。 "お酒一杯を食べた場合は、ぴったりジョトガトヌンデ...。"スンフイがコネジュンワインボトルをその男が急に重ねドゥルイキョルときスンフイはテレビの電源を入れ、画面には、金正日を称賛する管制放送が流れる。 酔いが顔にブルクァハン脱北者は、その画面を見てちょっと試合を作り出しスンフイに餌を探し、オオカミの表情でデドゥンダ。 この部分は、<豆満江>の中で最も好戦的な場面である。 他の観客もそうやっただろうと思うんだけど、私はこの場面で不吉なことが起こるだろうという予感を受けた。 同時に、その予感が、実際に的中すれば、この映画に失望するだろうという感じなのでハラハラした。 そんなことが往々に起こるのが現実だとしても、この映画の中で劇的波長を起こすように事件が起ると、何か人為的な監督の介入の痕跡を振り落とさなけれことであり、これは、下水処理の方法のように見えたからだ。 興味深いのは、期待どおりの脱北者は、天使の性格を持つスンフイ、話せないスンフイになる事をやらかすにも映画の劇的な調整方法に情が落としてはいないということだ。 その場面で、カメラは、前述のテレビ画面を映していて何か恐ろしいことは、画面の外で行われる。 スンフイの悲鳴、ホルトクイヌン男の声が金正日賛美放送のサウンドと重なり、感情的に増幅され、画面がカットされると男は、家庭で記載されてあたふたと逃げて、その光景を窓の村の友人のチョルブがこっそり盗み見ている。

<豆満江>からの率は、以前の映画に比べてはるかに立体的に画面内に入ったと同じくらい、あるいはそれ以上に、画面の外を見せてくれることにもかなりの暗黙の幅を生み出している。 人物が画面の外に消えた後にも継続されているどのような状況の描写が画面中と外の弁証法の中で、反対の関係を成して照応するパターンは、映画の中の反復される。 先立ってハラハラしていた状況が劇的重点を超えて破綻にチダトジていないのも、このような記述方式のおかげだったことを考える。 画面の中で起こっている状況が外にも拡張され、続くだろうという観客の認識がジャンリュルの演出に応じて、きちんと堆積私たちは、ストーリー展開よりも、画面中と外の状況により鋭敏になり、それが達成見えない帯に反応するようになる。 こんなことをジャンリュルが新たに作成したと言うわけではなくロベールブレソンなどの西欧の監督が、すでに達成されたミニマリズムの弁証法に基づいたり、継承したと言いたいわけでもない。 なんというか、すべて見せてはできないがあまりにも胸が痛いほどの現実の対応が可能な悲劇を抱こうとする監督の芸術的な包容力の深さを、この画面の中と外を合わせたスタイルが代表していると見るのだ。

多くの叫びや悲しみと怒りを押して入れた映画

映画の後半になると、本当に観客にも対応が可能な悲しみが、画面の中の人物たちの淡々とした行動とは異なり、波のように押し寄せる。 友達チョルブに姉スンフイが脱北者に強姦されたということを知ってから後、そしてスンフイが、その日に妊娠したことを知った後、建具は、村の子供たちを連れて脱北者をリンチしに通う。 親しかった捧げると、他の脱北者の男の子たちにも同じようにちょうど接する。 ある日、精進がスンフイお姉さんがしちゃったの食卓でご飯を食べているのを見て家に帰ってきた建具は悪口をする。 "おい、おい、君がなぜここでご飯を食べているの?"精進は、堂々と感謝の挨拶をし、窓にも約束を守るとする。 どんな約束なのかと窓がドゥェムトジャ近隣の村の子供たちとのサッカーの試合のときに必ず来ますノラは約束だと精進が言う。 食べ物を囲んでフォームとするスンフイお姉さんに捧げるは、もう自分の幼い妹は死んだから、それは必要ないと言う。

この映画のクライマックスを説明するのはまだ映画を見ていない観客に失礼だ。 これ以上の内容を明らかにすることが、我々が期待してもどうしても受験できない大詰めの破局が繰り広げられる。 それは先に言っていた、画面の内側と外側の照応と拮抗をつづる最高潮のジャンリュル演出が繰り広げられる瞬間でもある。 評論家として、このように書くことは愚かなジトイルジドしれないけど私は<豆満江>のクライマックス部で泣いてんだけど泣くことができない、コクコクデゴ首の詰まった悲しさを感じた。 ほとんど我慢できない閉所恐怖症を感じた。 登場人物たちの生活についてだけでなく、彼らの生活が包括するこの地の悲劇に対して持つ恐怖だった。 どんな政治家や芸術家がこのように悲痛な悲しみを見せてくれたのか全く思い出せない。 どんな映画がこんなにエレガントに、同胞たちの生活の悲惨さを見せてくれたのかも思い出せない。

ここで、そのギョクイランは、画面の中で物理的にカットを計算して貼って得ることができるのではなく、他の映画で、五つのカットが必要であれば、1つや2つのコトウロドを見せるのが可能な時と似たようなものだと感じられる。 表現したいことが多すぎて、むしろ口数が少なくなっている状況のように、<豆満江>の画面は、グァムクハム後ろ多数の叫びと悲しみと怒りを押して、盛っている。 映画の最後の場面でのクレジットが上昇したときに雪の降る豆満江の橋を歩いていく痴呆にかかった老婆のイメージが長く見える。 このイメージは強烈な象徴を超えた根源的な悲劇性を秘めている。 この狂気の世界に与えることなく、こんなに素晴らしい映画を作り上げるジャンリュル監督の芸術的な自我に、ただ敬意を表したいと思うだけだ。 <豆満江>は、今年、最も冷遇された傑作であり、それだけ多くの人々が見てくれたらと切実に望んでいるような映画である。

文:キム・ヨンジン 2010.11.11
by kazem2 | 2010-11-11 22:59 | Comments(0)