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映画「超能力者」 "君は一体何者だ" 超能力者の秘密

☆news.nate.com
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[O2コラム/チョン・ジュヒョン=東亜日報]

新しい映画'超能力者'を置いて恐らく多くの人々がこういう笑い話を先に思い出させるだろう。 '二つの美男の対決'とか、'ガールフレンドとともに見てはいけない3大映画の中の一つ'とか、または'キャスティング ディレクターが真の超能力者'とかする。

そうだ。 この映画には本当によくできた二人の男俳優が出てくる。 これらの姿を見ることだけでもチケット値段が惜しくないほどだ。 だが、2人の俳優の美貌だけで軽く評価するには、この映画の非凡だということが通常でない。

招引(カン・ドンウォンの方)という男がいる。 彼は超能力者だ。 眺めることだけで人々を操縦する能力を持った。 平凡でない多くの人々がたいていそうであるように、彼は自身の特別な能力のために不遇な幼い時期を送った。 'なぜ私を生んでくれた両親さえ私を殺そうとしたのか理解できない'そのような暗い幼い時期を話だ。

▲平凡な超能力者VS非凡な普通の人

だが、彼はその鬱憤を吐き出すために悪党にならなかった。 自身の能力を誇示するために世の中を支配しようとすることもなかった。 単に時折生活費を盗みに私債業者や質屋に訪ねて行く時にだけ自身の能力を使うだけだ。 悪党も英雄もできる超能力を持ったが、アイロニカルにも彼が真に願うものは平凡で静かな人生だ。

しかも他の男がいる。 彼の名前はキュナム(コス)だ。 どこからきたのか分からないこの男は中学校中退の学歴に、遠洋漁船に乗ったり廃車場で仕事をするなどあらゆる底辺人生を転々としてきた。 語り口もどもりがちでどこか少し足りないもようもする。

だが、彼は'きれいな'人だ。 みすぼらしい身なりの彼を置いて人々が当然疑った前科記録もなくて腕に麻薬を注射した跡もない。 欲や偏見もない。 ただ純粋で真剣な青年だけのことだ。 いくら路上を歩いて通ってもその誰も注目しないほど平凡だ。 しかしただひとり、招引だけには特別だ。 招引の超能力が彼にだけ通じないので。

この二つはキュナムが仕事をする質屋に招引がお金を盗みにきながらあうことになる。 そして質屋の中のすべての人を立ち止らせた招引の超能力的統制をキュナムが破った瞬間、窮極的にこの映画全体を貫くお互いに対する質問が始まる。

"君…いったい正体は何なの?"

この映画は脱ジャンル的映画だ。 フィクションでファンタジーだが主人公らは極めて現実的だ。 二人の男の対決を描いているけれどこれはバーディー映画も、善と悪の戦争でもない。 超能力を素材にするが地球を救うスーパーマンの話やはり違う。 灰色都市を背景に二人の男は絶えず倒れて破られて血を流すが、犯罪を暴くスリラーはより一層違う。

"なぜか変なことに心を奪われる。"

監督は映画を置いてこのように話す。 恐らくこの話(言葉)は映画を含蓄して表現できる最も適切な話であろう。 露骨に'超能力者'というタイトルを正面にかけているけれど既存のスーパーヒーロー映画とは出発地点から他の、なぜか変ながらも奇妙な映画.

もしかしたらこの奇妙なことはこの映画がSFスリラーという外形的枠組みをかけていながらも根本的には人間の関係に対する質問を投げるためなのかも分からない。 統制しようとする者と統制受けない者。 数多くの人を操縦して自身がまもなく多数になることができる招引とひたすら自身一つだけのキュナム. しかしかえって自身になる数多くの人々とは他人の関係を結ぶことができない孤独な招引と人を操縦することはできないが数多くの他人の中に囲まれて生きるキュナムという(のは)男の関係の力説.

"数多くの出てきて戦う君が勝つか、でなければ一人の君と戦う数多くの私が勝つだろうか。"

招引はこのように尋ねる。 これは招引とキュナム各個人の関係に対する質問でもあるが、少し拡張させてみれば個人と権力の関係に対する質問になりうる。 意識しようが意識できなくても多数という名前で加えられる集団権力の暴力とこれに対抗する個人の抵抗. 個人、集団、社会、国家に拡張される人間の間力学関係の本質がこの質問が向かおうと思う真の帰着点かも知れない。

それでもこの映画がずっと重いだけのことではない。 特に今まで韓国映画には前例がなかった外国人俳優らの比重ある出演はややもすると限りなく深刻化することもできる映画の雰囲気を転換させて緊張の緩急を調節する。 各々ガーナとトルコ出身という'ポバ'と'卵'が2人の俳優は韓国の人よりさらに上手なような韓国語で適材適所でユーモアコードを味出るように見せる。

また、超能力という無形の素材を映像化するということにあってミジャンセンを極大化した監督の能力やはり注目する価値はある。 多少作為的で誇張された感じがないことではないか'妙に外れたり少し変だったり'とする感じを与えて劇的な緊張を加える撮影機法とあちこちに隠れている新人監督の才気はつらつなことは、彼がキム・ジウン、ポン・ジュノ監督の演出部出身という事実を思い出すようにもする。

特にイエスの最後の晩餐をパロディしたような外国人労働者らの昼食場面、巨大な都市建物のあかりの中で遅れた時間まで労働の鎖に担いでいる現代人らを眺める招引の乾燥した視線、そして神の領域に挑戦でもするような招引とキュナムの屋上対決場面はとても強烈な印象を残す。

一方十分に意味を持つことができた映画的設定や装置に対する説明が不足したことは惜しい点だ。 反転と呼ばれても不足しない程最後に余韻を残すキュナムの出生的根源とか幼い時期からずっと招引をしばった義足の意味など、劇中観客らの好奇心を刺激するいくつかの輪らは互いに連結されることができなくて力なく消えてしまう。 万一、こういう部分らがもう少し真剣に扱われたとすれば、ストーリーはより一層可能性あって精巧に感じられただろう。

'超能力者'はその間の韓国映画界で見るのが難しかった、色々な面で非凡で新しい映画だ。 大衆性を持つためには観客らと一歩を共にして他の反発だけ先んじろといったのか。

この新鮮な衝撃を観客らがどのように受け入れるのか、その成り行きが注目される。

チョン・ジュヒョン映画振興委員会コーディネーターjanice.jh.chung@gmail.com
東亜日報原文記事転送2010-11-08 18:52
by kazem2 | 2010-11-08 20:05 | Movie