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チャン・イーモー監督「私の人生、私の映画」

☆Piff.cine21.com
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映画は私の愛であるが、腰が強い運命である
釜山国際映画祭開幕作「サンザシの下」↓チャン・イーモー監督
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文化大革命の時期に私は16歳だった。父が軍出身なので、政府からやったので、最悪の状況だった。 <サンザシの下>の男主人公のジンチオガジャグェジョクイゴ憂鬱な感じだったのもそのような理由からだった。おそらくそのときの私の経験が投影されているようだ。いろいろと中国の人民にとっては苦難の時期であった。

1976年、革命が終わってから代入制度が復活すると勉強に欲が生じた。中学校を卒業し、工場で働いていたが、年齢が多く、これ以上はチャンスがないだろうという切迫さがあった。写真をよくチクウニ映画学校に行ってという友人の勧めで、北京の映画アカデミーに登録しようとした。それから27歳だったが年齢制限にかかってテストを見ることができなかった。だから、文化部長官に直接撮った写真と一緒に手紙を送ったところ、入学許可が落ちた。当時は大学に行くには、韓国の連座制のような政治的な検証が必要だったが、あまりにも高い人の許可があったため、連座制も避けて試験も打てないし、無事に入学することができる。本当に奇跡的な状況だった。

<赤ススバト>でベルリン映画祭に招待された時には、この映画がこれほど世界的に広く知られているとは想像もできなかった。だから、映画祭の審査結果には全く気にせずに映画祭の期間中にお酒を飲んでノヌラ精神がなかった。当時の西ベルリンと東ベルリンの物価が違って西ベルリンの貨幣を密かに持って税関を通過した。気分に酔って東ベルリンでやたら遊んでいたうえ、携帯電話もなかった時期でしたから、映画祭側から受賞者である私がどこに行ったのか知る術がなかったのだ。

<人生>を作ることになったきっかけはこうだ。ある日、小説家作為化が新たな作品を一つ書いて、読んでと勧めた。あまりにも読んでと催促して、無理やり読み始めたのですが衝撃を受けた。最初に作成していた映画は先送りして<人生>を作り始めた。半世紀にもわたって起こった、中国の政治的な動きについての話だったので、中国では、デリケートな素材だった。事前検閲を受けるとすぐに上映禁止になって今日に至っている。中国には、事前評価制度が存在し、クラス分類がない。だから映画が審議を通過するには、すべての年齢層を見ることがなければならない。これが中国映画界の置かれた現実である。中国が国際化時代に合わせて制度を緩和させると、あまりにも多くの素晴らしい素材を表現することができるだろう。

私についての人々がなぜこのように映画をたくさんチクヌか、という質問をたくさんするのに、私は映画をとても愛しているというのが最も大きな理由だ。正直言って今はお金や名誉などはすべて取得する限り、獲得が、それでも常に作業することができるのは、私に与えられた運命に最善を尽くすためだ。私のような同年代の友達は皆、退職して仕事をしない。でも私の弟たちも退職して休んでいる。しかし、映画は、平凡な私の人生をバクォジュン運命とも同じだったので、その運命のチャンスをくれたの時代に感謝し、その運命に申し訳ないしていないために、現実に安住することでちゃいけないと思う。だから今でも最善を尽くそうと努力している。

投稿キム・ヒョンス客員記者・写真オクスドン
by kazem2 | 2010-10-09 19:14