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[キムヘリの映画の日記] 8月30日〜 9月7日

☆CINE21.com
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<オッキの映画>

映画の弱点が私の目に過度に大きくて明確で見せた場合、修辞が捜査を呼ぶ雑誌文を書く属性上判断が愚鈍になったりもする。その危険を避ける一方法は、私が好む好まざるにかかわらず、監督が最初に抱いた最善の意図に立って映画を考え直してみることなのに<ラストエアーベンダー>はそれも容易でなかった。同席した他の人らはシャマルランの最高作で<オンブレイコブル><ヴィレッジ><サイン>を挙げた。 <シックスセンス>は一票も得られなかった。


8月30日日記を書くことにする。私の日記でなく映画の日記だ。映画館の闇に浸って数千万回目宇宙の初めの光がスクリーンに落ちるのを静まって待つ時ごとに私はもう一度暮らしてみることを決心しているというおかしな感情に捕われる。その映画に何の期待がない時さえ。それで映画の日記を書くことにする。映画を見る心という(のは) 、激流に押されて投げられる行き来するところない被造物の気持ちと同時に生きているということを最も能動的に実感する高揚された状態だ。映画、私たちの真昼のような夜、'デーフォーナイト' ( Day for Night ) 。これはただ映画を見る者の出納簿と似た記録になるだろう。どのように使うだろうか。もしかしたら<ユジュエルソスペクトゥ>のように?他のものは分からないがごちゃごちゃに陳述を終えれば小林のように足を引きずって尋問の部屋をあわてて抜け出ることだけは明らかだ。

8月31日今月封切りする<オッキの映画>に関してホン・サンス監督をインタビューした。難しい対話であった。彼は単語で思考しないためだ。"私の映画が生きている何かと似た物になったら良いです。"劇中イ・ソンギュンのセリフは、ホン監督の肉声と聞こえる。スタッフ四人、撮影回送13回。 <オッキの映画>は頭の中に描いておいた映画を現実に移す一般医道に従わないで、最善を抜き取ることができる状態で創作者の感覚を作った後おりしもの前に置かれた対象に近付くホン・サンス的方法論をほとんど扇情的に実践する。ただし、哲学や追求する映画の最終的格好と離すことはできない彼の製作方式を他の監督らに低予算製作の模範事例で推奨することはナンセンスだ。

ホン・サンスは人間の内的活動を待機中に今なお残る'污染'から守ってこそ保存される軟弱なことで信じる。それで映画作り過程で'培养'する構造らを通じてそれを防御してきた。 <オッキの映画>は絵解答(解釈)が不可能な、少なくとも平面図形を通した図解をいろいろ避けて通る構造を作ってあげたという点で過激だ。この小さい映画は、ホン・サンスフィルモグラフィーのすべての前作を突然Aでざっとまとめた後Aの女集合になってしまった。総4编で構成された<オッキの映画>は通常展示会や音楽会に属する体験を呼び起こす。ギャラリーで一点の絵はその次に観覧する絵に関する一定の期待を作って次の絵が感想者に起こす波紋は前の絵が呼び起こした期待をどのように充足させて裏切るかにより変わる。交響曲の各楽章は他の楽章との関係によって不断に地位を変える。 <オッキの映画>の相手方もそうである。この作法は危険を押し切って人物にまで適用される。私たちが見る人物/実体は空気中に飛び交った元素らが特定瞬間その場にかたまってついて成し遂げた偶然な形状だ。ホン・サンス監督いわく、 "ポジションは永久的でない" 。突然に小説<第5屠杀场>に登場するエイリアン開けというパーマドア人が浮び上がる。彼らは死体を見れば死んだ人がすぐにその瞬間には悪い状態だが他の多くの瞬間らにはとても良好になると信じる種族だ。

9月1日退屈な子供手に持たせたヨーヨーのように、考えが度々 <オッキの映画>に帰る。友人Kと久し振り通話したが話題がこの頃どんな映画が見る満一街で流れたし話は<オッキの映画>を描写しようとする試みにつながった。"おもしろくて。なのでイ・ソンギュンとムン・ソングン、ホン・サンス監督の領域が部分的に重なってその交集合をチョンユミが通過すると話す事もでき、 1编と4编を各々 2编と3编の現実から派生した映画の中映画と見ることもできるので... 。 "重ねて言う私に友人が話す。"そう?君言葉通りならば全くおもしろく聞こえないのに。"挫折らしい。不正確でもやはり記事に絵説明を入れるのが良いだろうか。

9月2日<オッキの映画>インタビュー記事に入れるベンダイヤグラムを一つ一つ描いて持って編集チームに相談しに行った。ひょっとして絵がとても誘致するとみられるのか、そのまま抜く側がより良いだろうか暗示したところ編集記者が非常に力を込めて同意する。"そうですね、先辈! "尋ねなかったら大変なことになるところだった。 (数時間後チョンハンソク記者が<オッキの映画>记事に絵を添付したが何とフラクタルの絵だ。 )編集記者は概して正しい。特に締め切り前夜にきらりと光らせたアイディアならば理性の最後の守護者の彼らに必ず検証受けなければならない。

遅れた夕方約束。 S先輩が突然M.ナイトシャマルラン監督の<ラストエアーベンダー>が世間で話すだけに悪くはないといった。比較的気迷いなしに失敗作で判断した映画だったので帰宅大きくなった。映画の弱点が私の目に過度に大きくて明確で見せた場合、修辞が捜査を呼ぶ雑誌文を書く属性上判断が愚鈍になったりもする。その危険を避ける一方法は、私が好む好まざるにかかわらず、監督が最初に抱いた最善の意図に立って映画を考え直してみることなのに<ラストエアーベンダー>はそれも容易でなかった。同席した他の人らはシャマルランの最高作で<オンブレイコブル><ヴィレッジ><サイン>を挙げた。 <シックスセンス>は一票も得られなかった。

9月3日短編映画制競争部門審査に参加中だ。思弁的短編映画に対する反作用でジャンル的再起を誇る流れが掛けると、今は監督がよく分かる小さい素材、親しい空間を食い込む映画らが大勢だ。コンミヨン監督のドキュメンタリー<酒の席エピソード7 :詩>を見てびくっとする。会社員の男は大学院生、就職活動学生の友人らと酒を飲んで最近日記を書き始めたと打ち明けて付け加える。"日記を書いていようとするなら軍隊で手紙書いたことが思い出されて。なぜ、手紙書く時が軍隊で一番自律的な時間だったじゃない?"誰も強制しなくてもいつのまにか日常が兵営のように感じられるという意味であろうか。それなら思い通り放漫に生きている人に日記は逆に生活に若干の『军律』を吹き込もうとする試みになるだろうか。

概して若くて自然貧しい監督らが作った三十一個の短編には特定のいくつかの空間が繰り返し登場する。頻度では屋上が断然一番上。屋根裏部屋と据え付け世帯が付いたワンルームがその次だ。わざと冷淡な表情と奔放な姿で街を闊歩する若者たちが夜ならば帰って横になる2010年の困難で愛らしい部屋と広場ら。このフレームらを一ヶ所に集めたアルバムを想像してみる。

9月7日珍しくも<キムポンナム殺人事件の転末> (以下<キムポンナム> )は広告文句が映画の核心をすぐ指定している"君はとても不親切で" <親切なクンジャ氏>を召還する連想作用を押し切ったこのコピーは映画を見れば納得が行く。変に聞こえるが<キムポンナム>は女性虐待や復讐よりも「不親切」に関する映画だ。私が見るのでこの映画が切ってしまいたい主な敵は怪物に近い直接加害者らでなく、状況によって無難なチュイム間を入れて口径一字ら、容認した人々 、小さい努力で防げる苦痛と悲嘆を見ないふりをできなかった者ら、要するに十分に親切でない人間らだ。それでポンナムの友人のソウル女海員が映画で占める持分は余剰でなく決定的だ。银行員海員は彼女の貸し出し商品案内を間違って理解して借家を得た貧しいおばあさんを積極的に助けない。彼女は人を害しなかったが恐らく面倒で誤った判断の可能性を放置した。悪行をしたのでもないが善良に行動しようとすることもなかった。海員を懲らしめる人は第三者の銀行美化院だ。ポンナムを虐待する義理のおばと夫と義理の弟はその極悪らしいことにもかかわらず手をこまねいた'彼ら'に対する兄の執行を引き出すための装置で見える。

文:キム・ヘリ 2010.09.24
by kazem2 | 2010-09-24 20:41