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何でもないが、神秘的なこと、これがない[2]

☆CINE21.com
開始も中間も終わりもない開始と中間と終わり
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                         <キス王>



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                        <大雪后>

反問が十分に予想される。やっとこれだけなのか、何がどうしたとのことなのか。これは単純に四断片の話ではないか。だが、そのように尋ねるならば前の話をちょっと緩く聞いたことであることもある。 <オッキの映画>はオムニバス構造を帯びているけれどまた、一方ではオムニバスではないためだ。それよりは内容が何か変ではないか、 「注文を覚える日」でナム・ジンクは映画監督だというと『キス王』では映画課学生といって『キス王』でソン先生は正教授であるようだったが『大雪后』では時間講師といって、その一方で前のナム・ジンクと後のジンクは全部イ・ソンギュンが、前のソン先生と後のソン先生はムン・ソングンが演技するといって、それでも角壮が同じ人物の現在と過去に分かれることでもないようで、これいったいつじつまが合わない、これが何か、故疑問を提起する人がいるならば彼の問題提起が合う。

<オッキの映画>を見れば私が何を見たことか識別するまで時間が多少かかる。識別した後には私が何でもないものなどの組み立てを見たという事実に驚いてしまう。彼らは誰か。結局その誰でもなくて誰もないとの感じに陥ることになるだろう。彼らを規定できないという感じに陥ることになるだろう。ところでそこで来る興味は言葉でみな説明するのが難しい。イ・ソンギュン、チョン・ユミ、ムン・ソングンという同じ俳優が(男)ジンク、 (本当に)オッキ、ソン先生という名前で呼ばれて「注文を覚える日」で'オッキの映画'まで四回も演技するのに場ごとに彼らが事実全部他の存在らであるようなながらもみな繋いでおいて見ればまた、何か関連になった存在のように見えたりとにかく曖昧だ。 <女は男の未来だ><剧场前>で一人二役または、そのような錯覚をあたえるイメージを見たことはあるがこれは何か変でもはるかに変だ。

この時、二種類を喚起するのが役に立つようだ。私は1枚、 2立派な形で順番どおり分ける代わりに角壮の小題目を順番どおり表記したがそれはホン・サンスの方式でもある。 <オッキの映画>をみた日、ふと映画会社の古くなったうわさ一つを思い出させた。フランス監督ジャンリュックゴダールが伝統的話技法(起承転结)を抜け出した映画を作って世間の注目を集めていた草創期に有名な先輩監督ジョルズフランジュがこらえることができなくて尋ねたという。"それでもゴダール氏、あなたもあなたが作る映画に初めてと中間と終わりが必要だということ程度は認めていないですか?"ゴダールはこのように答えた。"おっしゃったそのままです。ところが必ずその順序に従う必要はありません。"ジョルズフラン主義質問は正しいがゴダールの返事はさらに正しい。ゴダールとホン・サンスは互いに違う芸術家だが配列の自分の順序を持つことができるという点に対しては共感するようだ。つくづくと見るならば<オッキの映画>にこの映画全体を合わせる題名がないことを知ることになる。私たちはホン・サンスがこの映画を<オッキの映画>ラニカしたがって<オッキの映画>と呼ぶことだけだ。ホン・サンスは最後に置いた'オッキの映画'という小題目を今この映画の全体の題名だと話している。彼はここから開始だ、と話す代りに終わった部分が全体だ、と話している。この程度になればどこが開始で中間で終わりなのか話すのは意味がない。

<ハハハ>の一こまを喚起するのはさらに重要なこともある。 <ハハハ>で容認正号(キム・ガンウ)がソンオク(ムン・ソリ)に私たちが花だと呼ぶのを突きつけてこれが何に見えるかと性質を出した時ソンオクが花というとすぐに正号は花でないとしながら何かとまた尋ねる。ソンオクはその時賢明にも他の返事を探す。"名前でもなくて美しい色もあって形もあって自分が生きようとするそんなことも見えてところで花の心は見えませんね。私が愛することですね。花を"という。花という『存在』を見る正号とソンオクの間には差がある。正号はこの事物が何に規定されるかないかを尋ねていてソンオクは最初から認識をまるごと変えてこの事物がどのように感じられるのかでない横答えている。ソンオク式で<オッキの映画>を見るのが良いだろう。 <ハハハ>の、イ・スンシン(キム・ヨンホ)はさらに簡明に尋ねた。彼は木の葉を揺さぶって聞慶(ムンギョン) (キム・サンギョン)に尋ねたのではないか。君はこれが何に見えるから。闻庆(ムンギョン)が木の葉といったがイスンシンは木の葉ではないといった。だが、同時に何か分かるのはまた重要なのではないといってもした。ホン・サンスは今私たちの目の前に当てて(に対し)イ・ソンギュン、チョン・ユミ、ムンソングンを揺さぶって、 <オッキの映画>を揺さぶってこのように尋ねている。皆さん<オッキの映画>が何に見えられるんですか。やはり私たちは分からないが大丈夫だろう。なぜならそれは"本来分からないということだ。そのまま違うようにちょっと感じて、そして感謝すればそれが終わりだ" ( <ハハハ>の、イ・スンシン" 、いや"本来この世の中に重要なものなど中に何故するのか分かってするのはない" ( 『大雪后』のムン・ソングン)だがどのように違うように感じられるのかに対しては話せる。

ホン・サンス、門を製作する人感じなければならないことは<オッキの映画>で彼らが誰かすることでなく彼らが一時も休まないで活動している、何でもない重要な何かという漸移だ。 <オッキの映画>がどんな忘れることのできない静かでわびしい感じを起こしているならばそれは規定できないその活動性のためだ。ホン・サンスの映画は名詞形ではとうてい捕えられないながらも凍死(同社、动词)型で接近しようと思う時何かフックして感じ上近づく時が多いが、先立って超現実的だと話したことがあるが実は彼の映画は活動を極大化するという点で超活動的だと呼んでこそさらに正しいのかも分からない。私たちはホンサンス映画のその活動がどれくらい畳畳なのかを知っている。したがってこれに関する活動の模型を一つだけ話したいと思う。私は『図形の'ホン・サンスの映画に関して幾何学的に感じることに対して深い共感を持っている( "批評的に言ってみればホン・サンス監督様の映画は代数学というよりは幾何学の構図を持った映画と考えます" -チョン・ソンイル) 。だが、彼の幾何学がユークリッド的な幾何学にだけ関与されるのかに対しては違うように見ることもできると考える( "人物らの間を説明するためには言ってみればユークリッド的な方式でなければ説明できないことを知ることになりました" -チョン・ソンイル) 。

<オッキの映画>に関する限りホン・サンスの幾何学はユークリッド的でなくてフラクタル( Fractal )的なものに近く見える。私は(多分あなたも)科学的概念に有能なことはないからフラクタルという用語をさらに繊細に話して緻密に使うより自然の活動する模型に対する一端の印象として受け入れて言いたい(したがって絵3参照) 。たとえば三角形の中の重なった三角形ら、雪の花房、暖流(乱流) 、東洋会話のどんな筆冷やかし、なので似た形図形やイメージが終わりなしに連鎖を作ることなのに、この時、フラクタルしたことの性質として重要なことはこの類似の図形やイメージらがたたんで展開することを繰り返す中で無制限に自分を新しく組織して自分の発生的な非定型的活動になるという事実にあるようだ。この話(言葉)は難しい。それでは、私たちはホン・サンス式で理解すれば良い。 '畳畳心象' (畳畳心象) 。イ・ソンギュンら、チョン・ユミら、ムン・ソングンらは言ってみれば重なって広がって展開するフラクタル的な三角形と四角形とウォンという畳畳心象に該当するだろう。 <オッキの映画>はそうした点でフラクタルある超活動性または、畳畳心象のどんな核心的モデルのように見えることさえする。

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                  <絵3 >フラクタルイメージ


ややもするとかたい概念説明に陥る危険があって詳しく解きほぐそうとするなら別途の職人必要でまた、そのような能力にも至らないから私たちはここらで本来軌道に戻らなければならないだろう。ただし、この見慣れない用語を取り出したのに切実な理由があるということは言いたい。ホン・サンスの映画がフラクタル的な超活動性を持ったとすれば、この時、彼の映画が違わなく映画の生態という問題を無意識的に直感して作られていることは話しておきたい。映画の生態だなんて、でもまた、何か突拍子もない声なのかと思うだろうが、言葉どおり生態、 『生物が生きていくようだが状態』だ。フラクタルは理論的意味よりは有機体が生きていく新しい無限環境の可能性に対する展望をいう時さらに価値があるようだが、 「注文を覚える日」でナム・ジンクは自分の映画の地平を、"生きている何かと似ていた映画になること"と話す。ホン・サンス映画と共有されるところがある。生きている何かと似ていた映画を有機体的な映画と呼ぶことができるならば、 <オッキの映画>は形式自体がその有機体的自分の組織性で展望を模索するだけでなく、不思議に今と同じ映画生態系( 「注文を覚える日」のソン先生の表現によれば、"お金、お金、お金しながら腐って陥った"映画生态系)で有機体としての映画はどのように生きていくことができるかに対する純潔に近い自分冒険的精神が極限にまで立ちこめているようだ。ホン・サンスの映画が倫理的でまた、政治的ならば実にこの点とも深い関連がある。 <オッキの映画>にバンあの意分からない寂しさと孤独なことはなので映画の内容だけでなくきっとこういう映画生態系中で彼の映画的生存とも関連が深く見える。もちろんこれがこの文の要点はなることができないけれど注意深く考えてみる必要があった余地はいくらでもある。ただし今は<オッキの映画>のどんな具体的活動に関する部分に帰らなければならない。

<オッキの映画>の具体的活動ならばそれは通過することだ。 '通過する'、 <オッキの映画>を見た時一番最初に頭の中に浮び上がった印象がこれだった。ところで何を通過してどのように通過するということか。無数に多くの文があってその文らを通過する。それではどんな文らか。 <生活の発見>の夫妻を借りようとするなら回転門( <生活の発見>の英語の題名)らだ。 <オッキの映画>で通過する活動は回転する活動でもある。誤解を避けるために言ってみれば文はホン・サンスの映画で必ず比喩に属することはできない。それは文であって入口や出口ではない。ホンサンスの映画で文は室外に出て行く出口や室内に入ってくる入口でなく、言葉どおりドアをあければまた、文があってそのドアをあければまた、文がある通路の膜に該当する。本来の席を回るようにする文、しかし帰ってきて同じ席でまた開けば結果が変わる文、そのような回転門であり差の文だ。ホン・サンスは、"峨嵯山(アチャサン)がなぜ峨嵯山(アチャサン)だと思うか"と尋ねると、"美しい差がある山なので峨嵯山(アチャサン)だ。ハハハ"した。いや何こういうひんやりとした冗談があるようだが事実だ。峨嵯山(アチャサン)も回転門だ。そういえば突然詩1行が浮び上がる"あなたは文を製作する人。 私は門を製作する人" (移民下衣<音楽のようにスキャンダルのように>中で'问题作' ) 。ホン・サンスの映画を見る時ごとに私が感じるのはその反対であるようだ。 <オッキの映画>を見るとさらに明確だ。あなたは門を製作する人。私は文を製作する人。ホン・サンスの映画はいつも"问题作"だ。

最初の回転門は前作<幾重にも重なった山中>だ。 <オッキの映画>で人物らの関係は師匠(ムンソングン)と愛弟子(イ・ソンギュン) 、その間に愛弟子ながら女性(チョン·ユミ)というような類似関係の格好で前作<幾重にも重なった山中>を一度通過している。差があるならば小説界でない映画界という漸移だ。二番目回転門はうわさだ。 <剧场前>で俳優チェ・ヨンシルに対するうわさはついに真実ではないと明らかになったが、ここでは最初から飛び交ううわさ中明らかになることが一つもない。 「注文を覚える日」でソン先生は金を受け取ったり受けなかったことで、ナム・ジングは過去に恋愛をしたりしなかっただろう。それが事実なのか違うのかと思うのが重要なことでなくこのうわさが回転門になって叙事を通過するようにしているということが重要だ。三回目、場所も回転門になる。文字そのままの文がある。 '注文を覚える日『初めてのシーンでナム・ジンクが妻とともに出勤する青い門家があるが、 『キス王'最後のシーンではオッキがジンクにメリークリスマスと話す家がその家の門の前だ。二つの場面は同じであるところで撮影された(この映画は角壮が続く時ごとに毎度青色の門がある!)四回目は俳優の肉体自体が回転門になることだ。 <オッキの映画>はイ・ソンギュンという、チョン・ユミという、ムン・ソングンという俳優の肉体を文で置いて、 (男)珍句、 (本当に)オクヒ、ソン先生という人物らが通過、回転していく。図形で想像しようとするならウォン(イ・ソンギュン)一つを置いて三角形(ジンク1 )が通過してウォン-三角形(ジンク2)になって、また四角形が通過してウォン-三角-四角形(ジンク3 )になって、また特別(じんく4 )が通過して、ウォン-三角-四角-别(じんく4)になるそんなことだ。もちろん二重でも女性(オッキ)という存在はさらに決定的な回転門になる。

ここで問題はもう少し複雑なこともあるので、たとえば俳優がお互いを通過する時がそうだ。たとえば図形で打つ時、イ・ソンギュンという図形とムン・ソングンという図形がお互いを通過する時だ。そのような例は多いが、一つだけ聞いてみよう。 「キス王」でオッキの友人は、"ところでその年齢多くの男は誰なの?"とオッキの恋愛相手を尋ねるが、その時の友人が意味上で示すのは『キス王』でのソン先生だ。だが、私たちは同時に彼と類似の過去うわさで苦しんだ「注文を覚える日」でのナム・ジンクも思い出される。だが、そこでナム・ジンクを演技したイ・ソンギュンはそのような対話が行き来するその見解にオッキの家の前に今座っているまた他のジンクも演技する。オッキの友人が意味上ソン先生を示す時私たちはムン・ソングンの肉体を思い出させるが、意味上でジンクも喚起されるから、思い出させたムン・ソングンの肉体をイ・ソンギュンという肉体がまた通過する。こういう状況らをたどりながら四個の章の人物らは誰が誰と規定できない状況になる。その頂点を見せることが'オッキの映画'だ。 <オッキの映画>を単純に1人4役の各々別途の君の話と話せない理由だ。ホン・サンスはあらかじめ与えられた情報と印象を前提に存在と俳優の肉体を理解しようとする私たちの脳の活動を、何か同時多発的非論理の秩序で縛って出している。

ボイスオーバーナレーションにチュモカラグロンデ<オッキの映画>で新しく注目するほどの回転門がもう一つあるならばそれは次のような文だ。事物や肉体でなく声、回転音だと呼ぶほどの、ホンサンスのすべての映画をあわせてで<オッキの映画>で最も多く最も全面的に使われているボイスオーバーナレーションだ。ホン・サンスの映画でボイスオーバーナレーションが使われたことは<剧场前>の上院(イ・ギウ)が初めてなのに<オッキの映画>は今までの映画中ボイスオーバーナレーションが最も多く使われた映画だ。もちろん<オクヒの映画>でボイスオーバーナレーションの使われるということは時により違う。心理を説明する時があり、単純に時間経過を知らせる時があり、目の前のイメージの事実とそこに重ねて負わせた声の事実を互いに不一致させ奇異な韻律を起こす時( 'オクヒの映画'で精子の前の場面)もある。その中でも特に注目するだけのことはあったのは前シーンで退場した人物が時間を省略したまますぐに後のシーンで登場する時だ。大慨はその間に短いインサートが一つあったり最初からショットとショットでつく。この時、前と後に続く重要な役割をすることがボイスオーバーナレーションだ。

一つ、ホン・サンス映画で画面の外の人の声はある(どんな)人の退場や再登場で重要な情緒を担当する時がある。 「画面の外の人の声」と話した理由はそれがボイスオーバーナレーションである事もあってピディジェシスサウンド(叙事空間外側のサウンド)として人の声場合もあるためだ。ホンサンスの映画で後者の場合はたいてい電話音声だ。 <生活の発見>で肉体より電話音声で先に登場する春川(チュンチョン)の先輩声優を考えよう。画面外側の音声がそのようにある時そこには人間関係の新しい出発または、終息と再整理という問題が挟まっている。言ってみれば画面外側の声が一種の互いに違う系をつなぐ、関係の接続地帯あるいは通過地帯とするに値したのを用意するのに着実に利用されてきたという事実だ。デジタル以後にホンサンス映画のボイスオーバーナレーションは、あたかも私たちがフィルムルックとデジタルルックがちょっと違うと話すようにフィルムボイスとデジタルボイスが多少違う。後者は確かに画面全体を覆うしかし淡々として扁平な声で聞こえてくる。もちろんそれは明らかに技術的な状況のためだが、だとしてもそれがあたえる情緒まで無視することはできない。 <ハハハ>でいくつかの筆者がこの映画で死ぬということを見たものに対して、実は私は全て映画に依存して言ってみれば白黒のスチール写真のためでなくその上に負わせた、いや画面を覆ったあたかも他の'系'で鳴り響くような声の扁平な感じテムニオスリと考える側だ。空で聞こえる無心で動揺することがない独白。この話をする理由があるのにホンサンスの映画でイメージの試製、時間性を一瞬にして揺さぶるのはイメージでなくボイスオーバーナレーションである事もあって、 <オッキの映画>にそのような感心するほどの場面があるためだ。<オッキの映画>の'オッキの映画『後半部に登場したそのボイスオーバーナレーションの活動に対してまだこの場面の興味を告白するだけどんな場面だと説明してはいけないようだ( <オッキの映画>の奇異なポスターはこの場面の興味で製作された) 。あたかも<剧场前>の後半部で監督異形数の存在が明らかになった驚きに次ぐということだけ話しておこう。ただしその時の場面が恐ろしさを持ってきたとすれば今この場面は寂しさそしてその寂しさ向こう側の感情でいっぱいだ。ボイスオーバーナレーションが突然あるショート案で時間のブラックホールを作った後どんな人物の退場と再登場を一瞬に成し遂げるが、この秘密は前に提出される評文らが明らかにすることを期待して私は単にこの時、このボイスオーバーナレーションが新しい回転門であり回転音であり宇宙の船のように感じられた、故感心するだけだ。

<オッキの映画>が映画だ<オッキの映画>はホン・サンス自身の作品世界を豊かにためにでなく彼が自身の現在を支えるために必ず作られたという印象を濃厚に与える。前作<ハハハ>が録音が濃厚に茂った豊かな森だったら<オッキの映画>は凄然な冬雪原まん中丁重に立っているハンサムな冬木ひと株だ。音楽的に<ハハハ>が美しい協奏曲ならば<オッキの映画>は強烈な独奏曲だ。 <ハハハ>が豊かな心の映画ならば<オッキの映画>は切実な脳の映画だ。 <ハハハ>が打者(タイプ)に向かって頭を上げる映画ならば<オクヒの映画>は私に向かって頭を下げる映画だ。このように話したらさらに率直な私の感情をいってこの告白を終えたくなる。

チョン・ソンイルはホン・サンスとの記念碑的な対談で<オッキの映画>に関して、"誓って大言壮語することができるのに<オッキの映画>はとても悲しくて見れば誰でも涙をふかなければならないだろう"と話した。その感情を理解するようだ。ただし私は私が感じた他の感情も告白したい。 <ハハハ>が幸福を指向するが幸福の映画でなく幸福直前の映画という事実を記憶したら良いだろう。 <オッキの映画>は私に悲しみの映画でなく悲しみ向こう側の映画であるようだ。 <ハハハ>が幸福を待ってる人々の映画のように<オッキの映画>は悲しみに負けなくてよくこらえる人々の映画であるようだ。悲しいものか。いや耐えられることができなくみなぎることだ、と話したい。ここにはただ活動的感動があるだけだ。ところでそれがホン·サンス映画の感情を作る実体だ。何がみなぎるのか。それはよく分からない。繰り返そうとするならとにかくみなぎるということというその活動だけがあるだけなのにそれが感動的である。それに関して私は今まで観覧車と至る、ホン・サンス映画の何でもないのと<オッキの映画>の何でもないのを、その活動と通過するということを、あるいは回転門らを置いて回って回って経験することを願ったのだ。

純粋とこれを噛んで心にだけ持ちこたえれば負けるしかない。その純粋は通じない。 '注文を覚える日'でナム・ジンクが学生に叱り飛ばす時した話をもう一度伝えたい。彼は人為なしでは純粋を伝達できないと話した。それがホン・サンスのこともできると考える。 <オッキの映画>が心だけ、純粋だけ、感情的に訴える映画が決してないことにそれを確認することができる。人为に対する必要を認めてしかしほとんど要諦としなければならない程それを圧縮して、脳の動力を全部みな活動するようにして、支えながらも進展することによって私たちに起こす深い感情的動謡が<オッキの映画>にある。ホン・サンス映画の日が進むにつれさらに驚くべき点の中の一つは一端の感情を狙うのではなくどんな感情の反応としての活動で映画を完成するということだ。私は<オッキの映画>が悲しみに反応する映画と感じる。悲しみでないそれに対する反応ならば何だろうか。私はそれが哀傷にも倒れない格調と考える。格調と話したら気品とも言いたくなる。オ、こういう感情なのか、それでは映画で作ればどうなるだろう、するそのような反応。その反応をさらに鮮明に名付けられないけれどその行為は勇敢だ。勇敢さ、ついにさらに正確に言ってみれば悲しみに反応する威風堂々とするということだ。そのすべての騒々しいということを後にしたままはやくないけれど気品あるように活動する行為。音楽が<威风堂堂行进曲>であった訳ではなくこの映画のリズムとこの音楽のリズムが同類のことのためであろう。そうして遠くて長い告白はここが終わりだ。映画の中冬木はとてもハンサムだったし<オッキの映画>は神秘だ。いや、私はいつかどこかに映画という神秘だ、という文句を見たことがある。だから<オッキの映画>がどれくらい神秘な映画なのか誰かが尋ねるならばこのように言いたい。いや、 <オッキの映画>が映画だ。

文:ジョン・ハンソク 2010.09.16
by kazem2 | 2010-09-17 19:16 | Comments(0)