ANEMA E CORE


by kazem2
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

[電影客杯]その島の、タブーが沸き立つ炉なんだな

☆CINE21
e0109292_19293379.jpg

魅惑と嫌悪を湯煎した魂種のエネルギー<キムポンナム殺人事件の転末>



今や身震い境遇は怨恨のスペクタクルがスクリーンを赤く染めている。報復のカタルシスを渇望する怪物らの再臨とでも言おうか?映画が観客に安楽な観覧を許容しないという意図をこのような方式で表わす時、そういう話を作り出す監督の意図は話の表面に安住するよりその不便な表現の中で創造的意味を探してくれという注文と受け入れられる。 <キムポンナム殺人事件の転末> (以下<キムポンナム> )で新人監督チャン・チョルスはこのような創作の戦略を駆使する。この映画のドラマは図式的に感じられる程単調だ。文明の利器が蔓延した光明(クァンミョン)天地にどんなことが起きても関係ないと思った孤独な人島があるということ、幼年期をこの島で送って都市に行った娘海员(知性院)が帰郷して友人ポンナム(ソ・ヨンヒ)に会ったとのこと、そして美しく見えた閉所恐怖症的な島の人々の狡猾な魔性に苦痛を受けたポンナムの試練が復讐で履行する過程が話の中心軸を成し遂げる。

内外で注目されて今年のデビュー作に浮び上がった<キムポンナム>を通じてチャンチョルスは漸進的なサスペンスを構築する演出に対する非常な理解力を見せる。観客の感情を揺さぶる瞬間らはゆっくり拡大していく雰囲気の暴力中で配列される。だが、ジャンルの快楽を調整する才能を上回るこの映画の価値は一ケ所集まるのが難しい人物と話、スタイルを共存させた旺盛な応用力で見つけられる。どこから見ても<キムポンナム>は秀麗なwell madeと呼ぶ躊躇される。荒々しく飛び越える叙事の飛躍やショット連結の愚鈍なリズム、両立するのが難しい世界観と美学の共存など統一性を崇拝する伝統に従おうとするならしようが多いためだ。だが、映画産業の商業化呪術に惹かれた昨今の新人監督らと完全に区別されるチャンチョルス随意才能はこの制御されなかった不均質性にある。

キム・ギヨンの<离于岛(イオド) >きてチャンチョル随意无道外见上<キムポンナム>は出来ばえが選ばない。ランニングタイムを半分で分けて前と後が完全に他の表情をしているこの映画はジャンルの経済学に便乗したようなジェスチャーを取っているけれど、その枠組みを過激に壊してしまおうとする破壊のエネルギーを内蔵している。同意しない人もいるだろうが、私は<キムポンナム>がイム・サンスの<下女>とは相異なった方式でキム・ギヨンの影響力下にあると考える。イム・サンスの<下女>が怨恨に深くしみた下層民女性の復讐劇という階級的観点でキム・ギヨンを参照したとすれば<キム・ポンナム>とキム・ギヨンの根源的な親縁性はとても深い過剰のスタイルで見つけられる。原始的生命力と呪術的魔性が温存する島の空間的含意ではキム・ギヨンの<离于岛(イオド) >が即刻に浮び上がる。島女性たちの強烈な生命力と対比された死に向かっていく男性キャラクター、生命を象徴する赤い色と死を象徴する青い色の対応を成し遂げた色彩象徴は<离于岛(イオド) >のそれであり、孤立になった島で広がる悲願の死を空間が持った暗示中に溶かして出すという点でもその影響力が考えられるところだ。ただ、60 〜 70年代キム・ギヨンではなくても、 80年代韓国映画界を風靡した'怨女' 恐怖映画シリーズと<キム・ポンナム>の近親性はほとんど確実に見える。被チルガプをして鎌を入ったソヨンヒの背筋が寒くなったイメージが言うようにこれは願望の曲音をたてる女の復讐劇だ。

叙事の流れ上<キム・ポンナム>は両極端的構造を持っている。持続的に観客の視神経を困らせるだけでなく特定場面で分裂症的に見える映画は閉鎖的な田舎共同体を掌握した住民たち間の適宜を描写するのに前半部を割愛する。キャラクターの行為より彼らを囲んだ不安と神経症がきっ抗した緊張を作り出す前半部は雰囲気で圧倒するドラマだ。これに比べて後半部は行為の動機に対する説明や説明を押し退けたままぞっとして容赦ない復讐劇を上演する。この瞬間からよだれを流す白痴のような男たちとひたすら弱者を困らせるために存在するような老婆らが首がぱたんと飛んで行ってぐちゃぐちゃと切る。極悪らしい無頼輩らに対するさっぱりする( ? )報復が行われる時客席では喝采がさく烈するかも知れない。

キャラクターらのあいだの構図やはり両極端的だ。すべての映画がキャラクターを作るが彼ら皆が生命を持つのではないのに比べてソ・ヨンヒのキム・ポンナムが残す印象は強烈だ。男たちが行う搾取によって狂気で唾(针)睡眠するポンナムに対する生き生きした描写を見せるためにチャンチョルスは屈従と犠牲にタコが打ち込まれたある女性が殺人鬼に変わる過程を落ち着いて積み上げる。同時にこの怪奇な農村共同体の魔女らが男たちの性的な道楽をどのように黙認するかを一つ一つ暴く。屈従の島を脱出して「都市女」になった海員はポンナムのき損された女性性から遠く逃げたように見られるが実状は近似値の苦痛を分けている。ソウルの銀行員として海員が体験する前近代的な差別と侮辱は搾取の島に蔓延したそれを想起させる。都市と田舎は女主人公海員とポンナムに各々他の意味で暴力的な場所であるわけだ。殺人事件を目撃しても真実を隠した海員の行為はポクナムイ生きる無道でまた他の殺人事件の目撃者になった時同じ方式で繰り返す。海員が苦しめられる恐怖と神経症は田舎女性ポンナムにもう少し強化された暴力の形態に加えられる。血を分けなくてだけであるこの姉妹は根源的に親密な存在だ。海員はポンナムにいて自由な、憧れるほかはない夢の世界を成し遂げる対象で、ポンナムは海員に逃げたいウォン体験の対象であり存在の影だ。換言すれば彼らはコインの両面だ。

以上と同じように図式的に感じられるほどの二分法構図が<キム・ポンナム>のナレーティブを素早く塗布している。興味深いのはこのような二分化された世界認識をかき分けて出る余剰ら、相異なったり相反することさえした表現形態の選ばなかった噴出だ。決して熟練した手並みと見るのが難しい視覚的捜査の矛盾を自由に扱うチャンチョル随意魂種能力がこの大きい課題で腕力を発揮し始める。これと関連付けてみるならば、 <キム・ポンナム>は対立する二種類港に全部その意味をつくように作る。伝統と現代、都市と田舎、男と女で対比される両極端的構図がそれとなく破られる瞬間なのに、さらにチャンチョルスは同じシークエンスですら矛盾した感情を引き起こす確固たる態度を始終一貫維持している。例えば共同体の異常が破られる以前、前近代的な空間であり文明の汚染でそれた清浄地域無道は牧歌的な島の村の外観と違い荒漠な社会の構造と悪徳の温床だ。そちらは利他だということと認定があふれる共同体も、文明の利器に染まらなかった純粋武具性の空間でもない。このような多層的な描写の結果は夢幻的なムードを作り出して、ジャンルの秩序を大胆にフットゥリヌンガすれば、同性愛と近親相姦、死体爱好症を含んだタブーを何気なく展示する退廃的な映画で<キム・ポンナム>を引っ張っていく。

人間を多層的に描写するドラマ旧朝日面だけでその実体があらわれない人間に対する<キム・ポンナム>の探求は厚い量感を持っている。この映画の中には世の中を眺める監督の意識が投影されているがたびたびチャンチョルスは自らも制御できない異物らしい情緒をその中に流す。整然な論理と道徳律と説明されない人間欲望の本土台を表わそうとするこの映画はリアリズムの束縛から自由で、復讐の叙事にだけ執着しなくて遊びほうけた血の臭いを漂う原初的な野性の人生を肉質的に描写するために非難を恐れない。図式的に説明されることができる単純なナレーティブ構造を克服する<キム・ポンナム>の裏面はこれと関連する。都市と田舎、現代と伝統、男と女、加虐と被虐の移項対立の上にたてられたように見える叙事は一瞬一方通行的二分法の論理を破って脱走する。一見加害者と被害者の関係が自明に見える構図中で明確に加害者の席にある夫晩鐘までも貪欲な老婆らに労働力を搾取されるかわいそうな境遇に描かれる。これは私たちが目で見て観察することより世の中あるいは人間の内面は複雑でミステリーだということを話すためなのか?荒漠な世俗の利器に強迫された人間の肖像を描写する<キム・ポンナム>の価値はこのような意味の複雑性にある。

こういう主張をもう少し押し進めてみよう。 <キム・ポンナム>はソウルと幽閉された島の間の対照と類似性を暴風前夜の静寂に描写している。たとえポクナムイ永い歳月漢菓怒りをしずめてきた女性といっても、何が彼をきちがいで作ったのかに対するこの映画の決定は多少曖昧に処理されている。これを立証するためにポクナムイ復讐の化身に急変する瞬間の場面化を見回すことがとても重要だ。ワン悪漢島の搾取者などが平常陰で暇そうに酒宴を行っている時、金科玉条のような娘を失った可憐な女性ポンナムは焼き付ける陽射し下ハアハアと息をしてジャガイモを掘る。搾取の鎖に束縛された無ミミズ田舎女性で敵がい心に燃える怨女で彼が表情を変えようとする瞬間、この履行の同期化はとんでもないポンナムの脳天で照りつける痛い太陽の光で正当化される。現実に対する政治をした認識の下出発した映画が突然実存主義的態度を表わすこの瞬間に対して、ポンナムは"太陽をしばらくにらんだところ、话をするんだって"と話すことによって解釈の曖昧さを加重させる。 <異邦人>のムェルソのように、痛い太陽が引き起こす存在論的不安に包まれたポンナムは鎌を持って反撃に出る。

瞬間明白にその起源を持っていた復讐の同期化は曖昧な観念に席を渡す。一種の神経症的な開くと太陽の恐怖によって貫通したポンナムの豹変の中には複合的な態度らが互いに衝突している。 <キムポンナム>は世俗を掌握した悪魔らを懲らしめなければならない復讐ファンタジーなのか、存在の不安と精神病的な状態に対する実存的探求なのか、すべての緊張を誘発するのは搾取者と被搾取者の食物連鎖的関係なのか、ねばねばする島の空気なのか、明確に現実に祈願を置いたように進行された一昨日までの話はこの瞬間から傾いているように屈折になる。均一でない欲望らが衝突する場として<キム・ポンナム>の特性を表わす場面らはもっとある。搾取者などを一つずつ処断するポンナムのオディセイが夫晩鐘に達した時、彼女は海員を人質でとらえて威嚇する晩鐘の刃物と指を舌でなめる"自分に申し訳なくて描きます"というポンナムの話は性的に願った夫に対する惻隠の心を何時の間にか流しながら暴力で綴られた晩鐘の以前行為に対する論理的同期化として作用する。疑問は依然として残る。言ってみればポンナムに対する晩鐘の虐待はセクシャルな疎外に対するゆがんだ報復心なのか、晩鐘に向かったポンナムの態度は幼い時期トラウマに対するまた他の複数なのか、晩鐘は心よりポンナムを思慕したことなのかなどの慰問。

単一な特性で均質化されることはできない複雑多端な人間の特性を描写するためにチャンチョルスは多層的な脈絡を植えておいた。テキストの表面はデコボコしてしたがって穴が多い。いくつかの評者らから女性主義複数劇で呼ばれるこの映画の女性に対する態度は時々二重的であり、さらに反動的であるほどだ。暴力と性欲の奴隷という島の男性を懲らしめる女性復讐劇に走って行く後半部とは違い前半部はたびたび女性の肉体に対する観淫症を隠れない。海員の尾行する哲宗の視線、酒場酌婦の服を破ってオーラルセックスを強要する晩鐘の乱暴な手助け、ポンナムと海員の脱いだからだを見せる入浴シーン、晩鐘が腹違いであった娘演技のからだを撫でるシーンなどでエロチックな視線は露骨になる。欲情の暴力性を表わす一方しらじらしく作動するエロチックな快楽の視角化でセクシュアリティーを扱う一貫した態度を推定することは大変だ。欲望の低劣さを暴露するための戦略で理解することもできるだろうが、同時に視線の快楽を楽しむことで機能するこの場面らにどんな姿勢を取らなければならないだろうか?女性に対する映画の紛らわしい態度と女性/男性人物らの関係は二つのメインキャラクターらのあいだのレズビアン的引かれるということを暗示するいくつかの場面らによってより一層理解することはできない方式で伝えられる。ポクナムイ海員のヨガをまねる場面や平常に横になった二余人の姿で暗示的に、友人以上の感情を交流する幼年時期に対するフラッシュバックと一夜の入浴シーンで明らかに処理されるポンナムと海員の関係は性的な緊張を互角に維持する。

<キム・ポンナム>は観客の神経を持って遊戯を行おうとするようにふるまう。共通点があまりなく見える二人の女性キャラクターらを扱いにあってチャンチョルスは狂気に包まれた極端な混乱で彼らを導いていくことによって根本的に相異なった特徴らを混ぜておく。初めに海員は一次元的で利己的であり、どんな頭が痛いことにもかかわることを敬遠してする冷たい女で描写される。導入部は人間味を欠如した海員の性格を表わす場面に開かれる。道路で広がった残酷な殺人の目撃者として彼女は明白な殺人者らに対する証言を拒否することによって性格を表わす。海員はポンナムと完全に反対になる人物だ。ポンナムは島男たちの性的オモチャで、一生の間かたい島のネットワークによって膏血を搾取される疲れてだるい労働者であった。地獄の中で彼女が人生を持ちこたえる唯一の理由は娘演技で監獄と同じ境遇で娘を解放させようと思う熱望だ。自分だけ分かる典型的な利器の人間の海員に比べて自分の犠牲的なポンナムは欲望を喪失した女のように見える。都市で島で、海員でポンナムで、ドラマでホラーで徐々にナレーティブを進展させながらチャンチョルスは微妙で複雑な人物らの状態を道徳の名前で平面化させない。断面だけを表わす人間の本質を完全に貫いて知ることができないようにすべての人物らは純潔でない。海員は休息のために故郷に戻るが、彼らの記憶のように暗くて原形的な悪と対面する。自然は美しくて人間は悪魔的であるだけしているか。美しい自然はただ美しいだけのことでなくこの幽霊的でありひっそりとしていた島を包囲して壊した後手をこまねく元凶でもある。話が進行される相当な時間の間観客は海員がこの殺風景な悲劇に中立的な視線を取っているという幻想を持つことができるが、チャンチョル随意ミジャンセンはその反対を話す。彼女は悪夢の主体であるより傍観者だ。

リアリストと表現主義者の区分を知遇告示作から最後まで不安と神経症を高調する<キム・ポンナム>は厳密な転換装置なしでドラマで古語で履行する。ジャンルのための意味がない死と違いこの殺戮は特徴的な方式で舞台化されている。鎌の新しい使用法を発見した( ? )コまで話せる暴力的な後半部は流血が散り乱れた屠殺劇だ。最も民衆的な延長( ? )イン鎌にだけ行われるこの血だらけ舞踏会は人間の深い内面を掘り下げる力を持っている。 <キム・ポンナム>の描写は動物的本性または、最も陰湿な欲望で私たちを変えておく。

キム・ギドクの門下で実らせたシル体験を無視することはできないが、チャンチョルスは伝統的映画学習や同時代映画作品に借りたことが考えより多くない監督だ。場面らが作り出す刃が鋭くなった緊張と違い彼らの連結は体系的でない。特に復讐が終了した以後続く終結部シークエンスらは引き伸ばす感がある。なのでこれは悪く話せば整頓されなかった粗雑な好みの産物であり、良く言えばその粗雑だということが既成の美学を破壊して更新することができるという可能性を抱いた突然変異的盛運だ。個人的に後者の側に期待をかけることになる。このような期待は初めに見慣れないということと奇異だということ、相当な当惑するということと抵抗を一度に抱かれたナレーティブが時間が過ぎるほど予想できない吸入力を発散しながら息つまるように没頭するようにさせるためだ。

前述したように話とスタイル、形象化の矛盾と時々炸裂する非論理性は<キム・ポンナム>の短所でない。それは同じ衝動中で魅惑と嫌悪(いくつかの場面は本当に耐えるのが難しい)を同時にかもし出すこの映画の真の価値とまで話せる。こういう主張は<キム・ポンナム>が目不忍見の古語的描写と息が詰まる怒りの視角化に没頭するこの映画が観念的な是正をふと見せる時力を得る。驚くべきなのは視覚的捜査を扱うチャンチョル随意熟練した手並みでなくこの丈夫なナレーティブ構造中に魂種の美学を働かせておいた彼の応用力だ。徹底して二分化された叙事構造中で作動するようなジェスチャーを取った<キム・ポンナム>は結果的にその二分構造を破壊しようとする熱望を同時に内蔵している。両極端的な世界認識は単純に対立する二つの範疇を創造することに終わらないでその二つの範疇の間の偽計を作り出す。女と男、都市と田舎、魂と肉体、黒と白など両極端的範疇のどこにも属することを敬遠する魂種が存在するという理由だけでそれは二分化された体制に対する反逆になる。

<キム・ポンナム>は危なっかしいタブーが沸き立つ溶鉱炉だ。内容と形式、世界観、スタイルを通じて全面的に貫徹される<キム・ポンナム>の二律背反性は一貫性と統一性の原理の上に構築された古典的美学の道理を婉曲に逆らう。チャンチョル数はドラマとジャンルに対する既存の常識を退く多彩だということと個性を持った監督に成長できる材木と見える。事件の展開が現実の論理と外れて、叙事的な流れが柔軟に続かないのに(特に後半部がそうだ) 、童話的な叙述と詩的な描写、意図が明らかにあらわれる象徴戦略、諷刺的笑いなどの色々な要素らを混ぜた粗雑だということが正当化されることができる理由は魂種のテキスト戦略がこの映画の本質と一致するためだ。リアリストと表現主義者の区分を消すチャンチョル随意越境はとても興味深い。雑種は自らの粗雑だということが持った力を自覚する時はじめて創造的になることができるということを<キム・ポンナム>は見せる。自分の卑下的暴力を展示する最近流行性映画らの濁流中でこの映画が光る理由がここにある。この点がまた「キムギドクの子供」でなく独自の自分の世界を作り出すに当たりチャンチョル元手になるだろうと考える。

文:ジャン・ビョンウォン 2010.09.16

キムポンナム殺人事件の転末
by kazem2 | 2010-09-16 19:29