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ホン・サンスの素晴らしい映画、<オッキの映画>

☆blog.naver.com予告編(9月16日公開)
☆CINE21.com
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               <オッキの映画>初めての試写初公開




一時9月13日4時30分場所CGV往十里(ワンシムニ)


この映画<オッキの映画>は四個の章になっている。 ‘注文を覚える日’、‘キス王’、‘大雪後’、‘オッキの映画’. 各場でイ・ソンギュン、チョン・ユミ、ムン・ソングンは各々(男)ジンク、(本当に)オッキ、ソン教授(監督)で反復出演する。 ‘注文を覚える日’では映画監督であり時間講師のナム・ジンクの一日を見せる。 ‘キス王’では映画課学生珍句とオッキとソン先生が主人公だ。 ‘大雪後’では監督であり時間講師のソン教授の授業時間風景だ。 最後に配置された‘オッキの映画’はオッキがソン教授とジンク、このように二人と各々峨嵯山(アチャサン)に行った経験の差を置いて映画で作った。

100字評

ホン・サンス映画の構造的根幹になる‘差と反復’がどのように形成されるかを淡泊だが簡単でなく見せる映画だ。 ‘注文を覚える日’で映画監督ナム・ジンク(イ・ソンギュン)は固定された枠組み中に閉じ込められた映画でない、生きている生物のように多様な局面を持った映画を指向するとしこの映画(あるいはホン・サンスすべての映画)の指向するところを指摘する。 この映画の中あなた側のエピソードは微妙な変奏を通じて絶えず人の席に滑って入るほかはない人生のアイロニーを捕らえてホン・サンスの言語がどのように実体化されるかを見せる。 この映画のすべての人物は自身と同時に彼に似た誰かで、極めて個人的な経験の所有者らだが共通した記号らのいったい可能な塀至慈らでもある。 監督はものすごく反復されながらも絶えず分散する、無定形の人生を表わすための‘人為的な枠組み’として同じ俳優が演技する同じ劇中の名前を持った人物、ところが正確に同一者ではない人物を構成する。 そして‘オッキの映画’を通じて明確に反復されているけれどデカルコマニーのように一致しはしない人生の経験らを並んで付ける。 どんな経験らを並んで引き続きおいてみるというその単純な考えは映画の純粋な祈願を探るようにすると同時に、偶然に引き続きついたものなどを系列化して意味の‘じょうご’の中に入れようと思う欲望の無意味さを直ちに悟るようにする。
-キム・チミ映画評論家

切迫した求愛という(のは)ホン・サンス映画の内容でなく形式といってこそ穏当だろう。 ますます彼の作品は映画の存在論的根源を探索する‘求愛の映画’になっていきつつある。 <オッキの映画>は音楽的構造を持った互いに違うあなた短編のオムニバスだ。 ‘...付きます’で終わる告白体ナレーションが映像にのせられる時、言語は景観や状況とは外れる微妙な感性を伝達する。 今回の映画はその切ないということの情緒が格別だ。 監督は演出の便で‘冬に対するスケッチ’を言及した。 タルリボアこの映画は後ろ姿に対するスケッチあるいは(映画が終わって)字幕が上がる瞬間の絶対的孤立感に対するスケッチ企画する。 私たちの冬がそうであるつもりであるように、弱々しくてボロを着た。
-ソン・ヒョジョン映画評論家

<オッキの映画>に対してすでに多い話らがある。 ジョン・ハンソクは770号に長い文を載せたが(フラクタル構造は<女は男の未来だ>に関する私の文<私は幻滅する。 したがって私は存在する>(<シネ21> 454号)で言及されたことがあって、‘差と反復’に対してもすでに色々な評者によって十分に話されたことはもちろんで、‘オッキの映画’でオッキが最初から遠慮なく話すことなので)それほど新しいことはない。 <オッキの映画>で新しく話す大きな課題はやはり(文石が言及した) ‘ミニマリズム’だ。 最小限の時間、最小限の人材で乾燥しながらも淡泊に自身の考えとスタイルを入れた映画を作ること。 ホン・サンスは映画を作る人々ならば‘夢の境地’と呼ばれるどんな地点に到達したし、多くの称賛の話らはうらやましいということに起因するということだろう。 映画は<歳寒図>私あるいはソバソバのような簡潔だということ中に、飾らないチャルラジョク愛の興味と中深い悔恨を含んでいる。 <幾重にも重なった山中>を含む、五編のエピソードら中人物らは同一人でもあり、違ったりもする。 事実ホン・サンス映画の中すべての主人公らは(漫画旧詠嘆シリーズの旧詠嘆のように)同一人物でもあり違ったりもする。 あたかも前世でもあり、前世のように遠い過去でもあり、出てきて似ていた私の友人でもあり、顔も全く分からない男だが似た誰かでもある。 ここに私の人生、君の人生でない‘非人称的な人生(une vie)’がある。 ホン・サンスはこの人生らを過去にはキャンパスをたたんで対称で印刷するデカルコマニー技法を楽しんだとすれば、今は水面に硫化物感を解いておいてキャンパスに印刷するマブルリン技法を楽しむ。 キャンパス、いやフィルムの上には水と油という物性を持った人物らがお互いを押し合いしながら‘偶然に’作り出した美しい紋がつけられている。 無関心なデカルコマニーを見て各自の心象を熱を帯びるように吐露する‘ロルシャフ検査’に皆が動員される必要はないだろう。 それよりは真冬にオッキの家塀でぼんやりと夜を明かして、オッキとあるふとんに入ったジンクはどれくらい暖かかったかを考えて、その時期を追憶することがさらに幸せだろう。
-ファン・ジンミ映画評論家


文:ジョン・ハンソク 2010.09.14
by kazem2 | 2010-09-15 12:13 | Comments(0)