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手作業の極限まで行くのがジブリの戦略

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手作業の極限まで行くのがジブリの戦略_e0109292_2013465.jpg

(左側から)米林ヒロマサ監督と鈴木トシオ プロデューサー



<床の下のアリエッティ>の記者懇談会は映画の中の舞台でもある東京都、小金井市に位置したジブリ スタジオで開かれた。 スタジオへ向かう道端温室についている‘烏用心’標語が<床の下のアリエッティ>の一場面を連想させて笑いが出た。 <床の下のアリエッティ>は初めての職場ジブリで14年間アニメーターに成長したこの四バー夜店ヒロマサ監督の演出デビュー作. ジブリ職員らが彼を称するニックネームは過去の日本貴族の名前に共通の文字のようについた‘マロ’(麻呂)という。 本人は理由を分からないとしても断定して慎ましい身の振り方が‘お坊ちゃん(若旦那)’らしい。 鈴木トシオ プロデューサーは<魔女の宅急便>からジブリ長編製作を引っ張ってきたベテランで、スタジオ創始者中1人だ。 最近では<トイ ストーリー3>エンディング クレジットの‘特別感謝(スペシャルサンクス)’名簿でその名前を見ることができる。

-歳月が流れて作品が変わってもジブリをジブリで作る本質的要素は何か. この四バー夜店ヒロマサ監督は<床の下のアリエッティ>を通じてそこどんな新しさを加えようとしたか。

=米林ヒロマサ:
家族の理想的な状態と自然の美しさを通した共感がジブリの変わらない主題と考える。 私はそこに私たちが生きる世界の生々しさとキャラクターの活発さを加えようとした。

-<床の下のアリエッティ>の背景はジブリ スタジオが位置しているこちら小金井市(東京郊外)であるが。

=米林ヒロマサ:
スタッフらが観察してスケッチしやすくて近くで舞台を探した。 実際に映画のように小金井南側には野川の川が流れて絶壁もある。

-英国作家の1953年作を日本の話に移しながら脚色した部分は。

=米林ヒロマサ:
当時は大きい戦争の余波が残っている時であった。 人間性に対する不信、大量消費文化に対する批判が原作にある。 特に私は滅亡していく種族を描きたかったが、宮崎駿がその問題も人間対人間の関係を通じて表現すればさらに多いことを見せることができることと忠告した。

-アリエッティ家族が登場する場面はサウンド デザインが違う。

=米林ヒロマサ:
人間の音響が小人の耳にどのように聞こえるのか想像した。 時計秒針もふわふわ通りで冷蔵庫騒音もサラウンドと聞こえることと考えた。 小人が主人公という点を考慮して声だけでなく背景と撮影方法、動きの表現方式もたくさん苦心した。

-3D映画が大勢だ。 ジブリ スタジオは3Dアニメーションに対するストレスがないか。

=鈴木トシオ:
全く。 現代は全てのものがデジタル化されている。 私たちは人間が手作業でやり遂げることができる境地がどこまでか見たい。 誤解するな。 3D映画を否定しはしない。 しかしまもなく飽きることと見る。 映画の歴史は動き、声、天然色が呼び起こした驚きの連鎖でもあったがジブリが愛される理由と生存戦略はそうでなく昔のことを守ることだ。

-宮崎駿に受けた最も大きい影響は何か.

=米林ヒロマサ:
14年間アニメーターとして経験した全体が影響だ。 感情がほとばしる時キャラクターの髪の毛が膨らんだり、落涙をとりわけ非常に大きく描くジブリ養殖は無意識的に自分にも内面化されたようだ。

文:キム・ヘリ| 2010.09.09
by kazem2 | 2010-09-09 20:13