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by kazem2
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貸してください~小さくて美しい世界のために

☆CINE21.com
東京ローカルで、スタジオジブリの<床の下のアリエッティ>世界をプレビューするよりも...
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“その年夏”で始まる多くの話がそうであるように<床の下のアリエッティ>はある少女とある少年の人生を以前と以後で分ける決定的出会いを描く。 ただしこの話の中の少女は人間にこっそりと人間の物を少しずつ借りて床の下で生きていく小さいこの家族の娘だ。 死をいつも考えながら生きてきた病弱な人間少年の前で、滅亡していく種族の少女は必死のあがきをつくして叫ぶ。 “私たちはそのように簡単に消えない!”去る7月17日封切りして日本観客500万を越えて宮崎駿でない監督が演出したジブリ作品としては優秀な興行成績をおさめている<床の下のアリエッティ>が9月9日韓国劇場街にくる。 <シネ21>は映画の面々をあらかじめ見回してスタジオ ジブリを探して製作スタッフ インタビューに参加した。 付け加えて宮崎駿以後ジブリの未来を東京通信員が展望する。

アリエティは小さい神のアイダ. 今年十四才の彼女の背は10cm. 概略計れば人間の手首で親指最後まで道だ. <床の下のアリエッティ>はジブリの‘小さい’映画だ(以下<アリエッティ>). 約2年に一便ずつ劇場用長編アニメーションを出しているスタジオ ジブリの作品は‘大きい’映画と‘小さい’映画で分けられるのに-ここで多様だという表現は作品性や予算でなく素材の規模をいう- <千と千尋の神隠し> <モノノケ ヒメ>が‘大きい’側ならば<床の下のアリエッティ>は<隣の家トトロ> <赤い豚>のような系列の‘小さい’映画に属する。 ジブリの鈴木トシオ プロデューサーは“2年前宮崎駿が‘これからは5年間計画で進行しよう’でした。 その間には計画をたてて何をしたことがなかったが、‘3年は新人監督作品を、2年は大きい作品をしよう’でした”と明らかにした。 いわゆる新人監督プロジェクトの初めてのケースが<アリエッティ>だ。

通常の時より成熟したジブリのソニョアリエッティ家族は床の下に隠れて人間の世帯道具を借りて生きていくところでウォーズ(Borrowers)族だ。 曽祖父の時から一戸にくつろぎの場所をねじってきたアリエッティ家族は、心臓手術を控えて他カラシナ集に療養来た少年ショウが庭園でアリエッティを発見しながら大きい危機を迎える。 同じ年頃から落ちて本に埋もれて過ごしたショウはどんなことにも驚かない12才少年だ。 アリエッティは変なほど冷静な少年が差し出す手助けに恐れとときめきがこんがらがった感情を感じて夜の睡眠を成し遂げられない。 花と草中にで会う病弱な少年と元気な少女、そして後ほど合流するりりしい野生の少年まで、<アリエッティ>の劇的構図は<秘密の花園>のそれを連想させる。 <風の谷のナウシカ>(1984)から大多数ジブリ アニメーションは少女が支配したし母性でない少女性が救援する世の中を描いた。 アリエッティは数多くのジブリ少女らの中で最も女性美が強くて綺麗な娘だ。 彼女は眼に触れる心配を押し切って好む赤色服を選んで鏡の前で洗濯ピンセットで頭を上げた後几帳面にそばの姿を点検する。 ヒロマサ監督は“<アリエッティ>を演出することに決めた後プロデューサーと宮崎駿に初めて受けた注文はアリエッティをとても官能的に作ってくれということだった”として微笑を浮かべる。 明確なロマンス エピソードがないことにもアリエッティのこのような雰囲気は映画にずっと初恋の緊張感を吹き込む。

滅亡の不安、落ち穂拾いの道徳そしてアリエッティは私達が知るまた、1人の少女を連想させる。 壁の後秘密の部屋で毎日発覚するか家族を失うか気をもんで生きた少女、アンネ・フランク. <アリエッティ>は何より不安な人生の基盤に関する話で底辺に流れる恐怖の情緒を隠れない。 ショウとアリエッティの初めての対面で少年の巨大な耳目口鼻は十分に威圧的であり烏がアリエティが立っている窓側に駆け寄るエピソードはヒッチコックの<鳥>を思い出させる程脅迫的に演出されて目を引く。 生活騒音を小人の聴覚に合わせて増幅させたサウンド デザインも小さい存在が感じる遠い恐怖を生かしている。 一方監督が観客を不安にさせる危険を甘受して繰り返し強調する主題は‘絶滅’だ。 アリエッティの両親は彼らに何かことが起これば彼らの娘が最後パロウォで孤独に生きていかなければならないかもしれないと心配する。 ショウは苛酷にも“お前らはまもなく滅亡するのだ”とアリエッティに予言する。 すでに多くの種族が消えていったしそれが摂理と。 アリエッティは反発する。 “私たちはそのように簡単に消えないわ。 あなたに何が解ると言うの? 皆次第熱心に生きていて!”

パロウォスに熱心に生きる方法は‘借りること’だ。 言ってみれば<アリエッティ>は落ち穂拾いの道徳を主張する映画だ。 持ったものがなくて弱い社会構成員が誰にも害を及ぼさない限り、残っていく財貨を無料で取って生存を維持するように容認する世界が<アリエッティ>の以上だ。 映画は登場人物の口を通じて借りることと盗むことが違いを数回強調する。 初めてのビリ期冒険に出たアリエッティが“パパ、借りることはおもしろいです”と明るく話す時私たちはそれが少しでも悪い行為と想像することがさえない。 ところが‘借りること’をこれ以上許容しない時代がくるならば? <アリエッティ>は文明の利器が必要ない狩猟と採取の野生に帰った小人少年スピラを通じて寂しい返事を提示する。

手作業ファンタジー攻防の細工品<赤い豚>(1992)程度を例外にすればスタジオ ジブリは子供を仮想観客の中心に置いて映画を作った。 宮崎駿は子供映画には再び始める可能性があるが、おとなのための作品が描く世界では根本的に変えることができることが多くないという理由のために子供映画を好むと話したことがある。 一方少年ショウの回顧ナレーションで始まるヒロマサ監督の<アリエッティ>を貫く心は遺憾だ。 宮崎駿代表作に流れるよどみなく伸びていく想像力と若干の狂気、エネルギーが欠乏した代わりに<アリエッティ>には思春期の痛みと寂しさ、消滅していくものなどに向かった郷愁が初夏の森影のようにゆらゆらする。 華麗な飛行の運動で数を数えたジブリのいくつかの代表作らと対照的に<アリエッティ>は動勢よりミジャンセンの映画だ。 例えばアリエティ君の家族がとんでもない用途で活用する人間の生活小道具ら-シチムピン、両面テープ、植木鉢など-は開けてみるほどおもしろい。 要するに<アリエッティ>は画面隅々を吟味してこそ満喫できるアニメーションだ。 最も激烈な冒険がこの部屋であの部屋に渡っていく行為にならざるをえない<アリエッティ>でスリルは速度でなく大きさの対照で発生する。 食器棚隅にソン アリエッティが眺める台所の息が詰まる巨大さをカメラがつかみ出す時観客は自然にこの企画こそ3Dとよく似合わないかと思う想像をすることになる。 しかし8月20日東京で開かれた記者懇談会に参加した鈴木トシオ プロデューサーはジブリの3D製作の可能性をとても冷酷に一蹴した。 それは哲学に関連した質問にだけ出てくることができる種類の断固たる反応だった。 スタジオ ジブリを出るのにかなり以前宮崎駿があるインタビューで残した話が新たに浮び上がった。 “バーチャルリアリティはファンタジーと違う。 バーチャルリアリティはリアリティーの夫人だ。”ジブリはあくまでも他の現実を描く手作業ファンタジー攻防で<アリエッティ>はその攻防の内省的な若い妻の父が出したこぢんまりした細工品だ。


文:キム・ヘリ| 2010.09.09

邦題は「借りくらしのアリエッティ」でしたが韓国では
「床の下のアリエッティ」となっているようです
by kazem2 | 2010-09-09 19:45 | Comments(0)