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by kazem2
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[電影ゲクジャン]ナレーティブと倫理的ジレンマの不在が惜しい<悪魔を見た>

☆CINE21.com
スペクタクルが映画を目がくらむようにしたよ
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<悪魔を見た>は因果律的に十分に説明しないまま狂気と復讐の残酷なイメージを反復的にスペクタクル化する映画だ。観客は盲目的な狂気(または、復讐)の身振りとそれによってちぎれちぎれに裂けた身体の饗宴を見る。このような映画に対する時、観客は大きく二種類別れ目に置かれるようだ。一つは過剰な暴力のイメージ自体をフェティシズム的に楽しむことだ。イメージに含まれた含意よりはそれ自体が成し遂げた表現の強度を優先的に楽しむこと。もしその表現の強度を新しい映画的体験や映画的成就と認定できるならば、 <悪魔を見た>は擁護するほどの価値がある映画だ。問題はそのスペクタクルをむなしいことに感じながら、過剰なイメージの暴力を無力な凝视で体験しなければならない立場に処した場合だ。 <悪魔を見た>に対する私の体験は偶然にも後者側だった。私の映画的体験と類似の映画の中一場面。軽鉄がスヒョンの妻の父の顔をアレイでずっとなぐる。この時、妻の父はその暴力の前で軽鉄に向かって無力に手をのばす。私はその手助けを見て本当につまらないことだと感じた。この時、カメラは妻の父の視線と類似の角度に位置するが、軽鉄はその手助けを冷遇して殴ったのにまた殴る。私は理由なしに加えられる暴力の前で無力に手を伸ばしたスヒョンの妻の父が出てきて類似の境遇にあるという考えた。イメージの過剰な暴力の前で私がすることができるのは無力にそれを耐えることが全部という点で。もうそろそろ、しながら手を伸びてみてこそ... 。

短い短評だったが、私はすでに<悪魔を見た>に対する基本的な立場を明らかにした( <シネ21> 767号) 。そして同じ観点でこの映画の『荒廃した風景』を繊細に描写したキムヘリ( <シネ21 > 767号)とイ・ドンジン( 'イドンジンドットコム' 、 "荒廃した精肉店スリラー" )文がある。 "殺人だけでなくセックスシーンを含んだ多くの大きな課題で、過剰は何かを表わすための手段でなくそれ自体で目的のように見える。 "(イ・ドンジン) 、"ぞっとするが本当の一端を見ているという考えも、エンターテイメントを楽しんでいるという気分にもならない。 <悪魔を見た>の悪魔は残酷な暴力描写でなくその効果の凄じいむなしさだ。 "(キム・ヘリ)二人の評論家の文を因果関係で縛って読めば、 <悪魔を見た>の映画的体験に関する最も完全な絵を描くことができる。それでも私は<悪魔を見た>に対して文を書くことに決めた。 <悪魔を見た>に再現されたイメージの暴力がなぜむなしいことに体験されるほかはないのかナレーティブと関連して話すことが必要だと感じたためだ。もちろんキム·ジウンの映画に対して、そして<悪魔を見た>に対してナレーティブを話すのは映画の核心ではずれたように見える。だが<悪魔を見た>が持つ過度なスペクタクル、または残酷なイメージのむなしさがナレーティブと関係がなくはないならば、ナレーティブ自体が核心でなくしてもそれに達するところはできないだろうか。

プロメテウスの刑罰に似た復讐<悪魔を見た>で最も興味深い部分はスヒョン(イ・ビョンホン)と軽鉄(チェ・ミンシク)が初めて対面する場面だ。映画がまだ中盤も越えなかった地点で追って追われなければならない二つの人物が会うならば、以後映画が選択できる話は多くない。それでも<悪魔を見た>はそのような選択をする。スヒョンが軽鉄を置いて彼にプロメテウス的な刑罰をおろすシーン的立場に立とうとする時、私は以後二人がいかなる話を描いていくのかあまりにも気になった。なので私はこの場面以後に二人が広げて出す新しい局面を期待したのだ。私の映画的経験ではまだこのような関係に進行された復讐談はなかった。ところで<悪魔を見た>のナレーティブはずっと前進するようでも実際には一地点でずっとぐるぐる回っているように見える。この場面以後スヒョンの復讐は映画を新しい局面に導いたり話を前に進行させるのではなく、ビニールハウス場面で見たその状況に固着されたまま同じ復讐をリプレーするだけだ。そのように見ればプロメテウスの刑罰は設定それ自体は魅力的だが、それを見守ることは退屈にならざるをえないことでもある。昼間に鷲に簡易射して、夜に回復して、翌日また射して、また回復して... 。その反復を見守ることという(のは) ... 。

もちろん<悪魔を見た>で新しい局面での転換がないことではない。映画で最も印象的な演出は、スヒョンと軽鉄の関係が逆転しながら夜を中心に進行された映画が昼間で背景を変えて雰囲気を転換させる時だ。夜が昼間で代替される時、夏季のファンタジーに留まっていた悪魔が地上で這い上がってきて現実世界を掻き回して闊歩するような魅力がある。告白しようとするなら、私はこのシークエンスだけは(私が前に指摘するこの映画の限界と関係がなく)いくつかの場面をフェティシズム的に楽しんだようだ。だが<悪魔を見た>が持つ致命的な限界は軽鉄でないスヒョン側で発生する。これはこの映画が肝を射すプロメテウスに対する映画でなく、彼が回復した後また肝をつつくために進撃する鷲に関する映画という意でもある。初めからきちがい犬サイコの軽鉄には実存的悩みなどが介入する余地がなくて見れば、スヒョンからリンチの後に従う倫理的ジレンマと彼による心理的深さが感じられないならば映画で再現される復讐の行為は無意味な苛虐的身振りに留まる危険がある(これは罪の意識から抜け出そうとする被虐的身振りでもある) 。

これに対して<悪魔を見た>が選んだ戦略はナレーティブを発展させるのではなく、かえって同じ復讐のうっとうしい反復を避けるために、または、それを隠すためにますます強度を高めてイメージの残酷性を過剰させることだ。フェティシズム的な観客ならば、漸進される残酷なイメージだけでも<悪魔を見た>は楽しむほどのことになるだろう。私はこのような過剰な表現やフェティシズム的映画観覧をそれ自体で問題視したくはない。ただし私がそれに共感できなくて疑問を持ったことは残酷なイメージが過剰的に表出される時、なぜそれがスヒョンの内面に何の影響を与えることができないかという点だった。実際に二人が対面した直後、スヒョンが軽鉄について絶えず動いて、新しい人物に会って、軽鉄にまた苛虐的復讐を行って、誰かの苦痛や死とぶつかるが、彼の心理的状態はそのどのような変化や発展もなしでフィアンセが死んだその瞬間に止まっているように見える。すなわち、 <悪魔を見た>のナレーティブが度々後になって巻かれようとするように、スヒョンは自身の目の前にどんな仕事が広がろうが話しかけた間にフィアンセに怒りで念を押したその瞬間で少しも抜け出そうとしない。

興味深いのはスヒョンのこのような特徴がキム・ジウンの演出意図に内在しているという点だ。キムジウンの話によれば、 <悪魔を見た>は怒りが最高潮の状態の人物が"その感情をそのまま最後までずっと乱れなく持って行く映画だ。 "( <シネ21 > 767号)キム・ジウンはスヒョンの感情を散らかさないためにだったと話すこともできるだろうが、それによって私たちがスクリーンで確認するスヒョンの復讐は目がくらんだ者の盲目的身振りに近く感じられる。 <悪魔を見た>の過剰な残酷のイメージは徹底して観客だけが見る。スヒョンはその残酷性を見ることができない。いや見ない。ただ観客だけが悲鳴をあげたり目をとじてその残酷さに反応するだけだ。スヒョンが軽鉄を追いかけた直後あまりにも多くの人々が残酷な状況に置かれられる、その時ごとに過剰なイメージはスクリーンを赤黒い血と毀損された身体で満たすが、スヒョンはこれに対してどんな衝撃を受けたり内面の変化を起こさない。怒りが人物の立体感を飲み込んでしまったのだ。それでスヒョンは自身の復讐が意図しなかったまた他の誰かの苦痛の原因という事実を悟ることができない。このような面で見る時、 'スヒョンの乱れない感情'という(のは)身体き損のスペクタクルを展示するための一種のアリバイということができる。別の話しで、スヒョンの目が見えなくなった以上、彼は残酷なスペクタクルに対する反応でもある『倫理的ジレンマ』に抜けないこともあって、これは身体き損イメージなどの過剰なスペクタクルが漸層的に持続することができる究極的な動力で作動する。

スヒョンはなぜ常に一歩遅れて到着するのか<悪魔を見た>のナレーティブはスヒョンの行為を因果律的に説得しようとしない。それがキム・ジウンの関心ではなかったこともあるが、 <悪魔を見た>はあまりにも簡単にナレーティブの因果律を抜け出してしまう。もちろんそういう事例をいちいち取り上げ論じるのは格別意味がない。だが、因果律的ナレーティブの省略がスペクタクルの展示のために意図的に選択されたように見えるという点は注目する必要がある。 <悪魔を見た>で因果律的に外れながら最も納得しない設定の中の一つは女性たちが強姦の危険に露出した時スヒョンの到着がなぜ反復的に遅れるのか、することだ。もちろん映画はその原因に対して何も言わない。スヒョンはそのままその場に遅く到着しただけだ。ところで因果律的に省略されたスヒョンの間に合わない倒着この映画の倒錯敵欲望と関連するという点で簡単に行き過ぎる問題でない。

軽鉄が女性に対する態度にはどんなパターンの変化がある。軽鉄の最初の殺害対象。その女性はスヒョンのフィアンセだ。私たちが見るのは容赦なく殴打されるのと裸にされたまま死を待っている姿だ(軽鉄の友人の話を参考にするならば、この省略された時間に軽鉄はスヒョンのフィアンセを強姦しただろう) 。二番目の殺害対象。バスを待った女性やはりスヒョンのフィアンセと類似の方式で処理される。ところで三回目、四回目殺害対象ではそのパターンが違う。女子高生と看護師は殴打の代わりに彼女たちが服脱ぐ(またはむける)場面が挿入されている。ところでこのようなパターン変化は'その原因を分かることはできない'スヒョンの間に合わない到着と関係がなくはない。スヒョンは女子高生のパンツとブラジャーはむけるが軽鉄のそれが挿入されはしなかった瞬間、看護師がオーラルセックスの対象はなるが挿入の対象はならない瞬間に到着する。一歩遅れた、または、一歩はやい到着。それならなぜ、わざわざ多くて多くの女性中に彼女たちが選別されたことだろうか?彼女たちの服装に答があるということはあまりにも自明に見える。フェティシズム的な性析倒錯、なので日本AV ( Adult Video )の主要素材の服装到着と関連したポルノグラフィー的欲望話だ。日本AVで服装が性的魅力を付与する代表的な女性キャラクターが女子高生と看護師というもの、そしてそういうキャラクターが日本AV業界を支えさせる乾かないわき水ということは長く説明する必要がない。

因果律的説明が削除されたスヒョンの間に合わない到着は服装到着証跡快楽の展示会以後になされる。服装倒錯症に陥った者らに女子高生と看護師の性的魅力はどこにあるのか?からだ。違う。その快楽はあくまでもその身分を指示する服装から始まる。それで日本AVで女子高生はセックス中間にも制服スカートを脱がない場合があり、看護師は本当に不便に見える看護師帽子をかぶってセックスをすることだ。実際に<悪魔を見た>は女子高生の白い下着(これは韓国エロ映画でも女子高生をハンユ的に指示する対象だ)が露出する瞬間に傍点をつけたり、特に看護師が服を脱ぐ瞬間はロングショットでかなり長く見せたりもする。なので女子高生と看護師の服装がからだで滑る倒錯的スペクタクルの展示のためにスヒョンの到着は遅れなければならない。もちろんこのような場面を置いて、軽鉄の性的によじれた悪魔的性格を強化するためのものだと話すこともできるだろう。彼がどれくらい獣のような奴なのかを説明する必要があるのかどうかに対しては疑問が残るとしても、この場面が軽鉄のキャラクターと関連したことを否定することはできない。

だが、これを事実そのまま受け入れるとしても、この場面らが加害者の悪魔的性格を浮上させること劣らず、被害者の苦痛を倒錯的に楽しもうとする欲望に従属しているという点を否定することはできなくないだろうか。 <悪魔を見た>行って因果律のナレーティブに支持されるどころかかえって刺激的場面の展示のためにそれをはずれているという点はこの映画のスペクタクルが窮極的に自分自身を目的とするという点を見せる。 <悪魔を見た>は映画全体が復讐の終結を猶予させて展開するという点を念頭に置くならば、この場面らは因果律が去勢された復讐の行為と過剰なスペクタクルの展示がいかなる関係を結ぶのかに対する最も兆候的な場面でもある。 (それに対する十分な説得なしに)スヒョンの復讐が遅れる時、ナレーティブの空っぽの空白をスペクタクルが上書きする。 <悪魔を見た>に対するフェティシズム的耽溺の終わりが窮極的にむなしさにならざるをえないのは、空いているイメージ、自身がガランと空いているということを隠すためにより一層残酷なことはイメージに対する快楽を基盤とするためだ。

倫理的ジレンマがない映画のホマンハムチョンサの翼が悪魔の目になって餌を眺める映画導入部のイメージはそれ自体ではかなり魅力的だ。だが、問題は善と悪の境界が曇るという設定が新しくないのみならずさらに重要にそういうアイロニーが映画全体的に溶けていないという点だ。これと類似の場面は軽鉄が二番目に殺害を終えた後スキンを心を込めて塗ってその他を打つ場面だ。これは軽鉄にどんなアイロニーが内在していることを見せようとする意図だったが、窮極的にこの場面は軽鉄のキャラクターに統合されないまま例外的な場面に残ってしまう。これは軽鉄が友人と会った時、友人が世の中をひっくり返そうとした若い時期を回顧する時も同じだ。ところで(取り上げ論じた場面だけ持って話すならば)友人の話は<復讐するは我のこと>を想起させて、殺害の後軽鉄の姿は<ケープ咲いて> (マーティンスセッシ)のロバートデニーロを連想させる(彼が長い髪をスーッと後ろに倒す場面は特にそうだ) 。 <悪魔を見た>は色々な映画を混成模倣するが、それが映画内的に統合されたということよりは(または、反対にそれらが互いに衝突して非均質的な魅力を与えるよりは)参照した映画らがただわんと既成期縛られているような感じに近い。印象的な場面らが多いということとそれが内的によく統合されているということは別個の問題だ。

<悪魔を見た>は導入部場面と違いアイロニーな魅力がない一本調子の性格の映画だ。映画は軽鉄にもアイロニーな容貌を付与しようとしたが、彼は初めから最後まできちがい犬サイコで留まるだけだ。言い換えるが<悪魔を見た>の問題は軽鉄でないスヒョンだ。この映画が怪物の深淵を眺めて怪物になったスヒョンに対する映画だと話すことに、私はそれほど同意することはできない。出た怪物になったスヒョンの姿は見たが、その以前に彼がどんな姿繋いだかに対してはどんな確信も持つことはできない。映画のアイロニーを生かさなければならなかったとすればそれは軽鉄でなくスヒョンであってこそした。惜しくもスヒョンには倫理的ジレンマが感じられない。これはスヒョン内部にフィアンセを殺した殺人魔に対する怒りだけあってはいけないということで、彼と互角に吊り橋幾何はまた他の意志が感じられなければならないという意だ。スヒョンには十分にそのような余地があった。だが<悪魔を見た>は身体き損を中心にしたスペクタクルの悪魔を見せるためにその潜在力を自ら殺してしまった。

もちろんこれが<悪魔を見た>はそういう試み自体をしなかったという意ではない。映画は軽鉄に復讐する段階ごとにウンを合わせるようにスヒョンの顔をクローズアップする(クローズアップの開始はフィアンセの死体が発見されてからだ) 。ところで私は無数に反復されるクローズアップが映画に固くついているよりは機械的に挿入されているような感じを受けた。 <悪魔を見た>はスヒョンに対してナレーティブ的にはケチな反面、復讐のスペクタクルを細部的に描写するにはとても厚い。スヒョンの行為が適切な因果律に会うことができない時、それは機械的運動に近い復讐のスペクタクルを再生する。キム・ジウンの前作<良い奴、悪い奴、おかしな奴>は人物の機械的運動だけでスペクタクルを創り出して映画全体を導いていった作品だ。 <良い奴、悪い奴、おかしな奴>はそれだけでも十分に楽しむに値する。だが<悪魔を見た>は<良い奴、悪い奴、おかしな奴>でない。スペクタクルの饗宴自体が如何に魅力的であっても、その中に倫理的決断のパトスが結びつかないならば、 <悪魔を見た>は窮極的に無意味なジェスチャーを繰り返す映画に留まるほかはない。

<悪魔を見た>が参照した映画の中の一つと見える<復讐するは私のこと>はポクスを連鎖させるメカニズムとその動力に関する映画であった。運命に近い復讐の網にかかった者らは復讐として自身の行為を追求させるが、その中には倫理的ジレンマとそれにともなうどんな決断の瞬間が内在していた。それなら<悪魔を見た>は復讐に対して何を話すのか?キム・ジウンは<悪魔を見た>は"戦利品がない戦いに飛び込んだ一人の男の空しい破局"と話した。これは復讐にも成し遂げることはできない実在のむなしさと無意味さを意味するだろう。復讐劇に似合う主題だ。ところで<悪魔を見た>を通じて私が経験した空しいことはスヒョンの復讐が電解与えたプレゼントでない。かえってそれは映画観覧自体から来る空しさに近い。キム・ジウンの表現を借りるならばそれは復讐のスペクタクルにだけぶらさがったある映画の空しい破局で感じられる感情だ。

文:アンシファン(映画評論家)2010.09.09

私はラストのスヒョンの歩き方に倫理的ジレンマほか全てが現れていると思いました
筆者の言う 「スヒョンには十分にそのような余地があった。だが<悪魔を見た>は身体き損を中心にしたスペクタクルの悪魔を見せるためにその潜在力を自ら殺してしまった。」は
観客にそう思わせるほどの演技力だと思います
最後に我に返った瞬間のスヒョンの表情に実在の虚しさと無意味な一人の男の破局を見たように思います

by kazem2 | 2010-09-09 09:19