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[外信記者クラブ] <キム・ポンナム殺人事件の転末>は最高だ

傲慢な私の批評を読む読者の友人らにこの映画を推薦する
☆CINE21.com
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<キム・ポンナム殺人事件の転末>

少しの傲慢なこともなしで批評家になることができるだろうか? 周囲の人より少しでも私の意見が優れるという確信と一抹の自尊心がないならばそのような人が使う映画評判は退屈になるはずだ。 “<キム・ポンナム殺人事件の転末>は良い映画だ。 最小限私が受けた印象はそうだ。 多分他の人々は同意しないかも知れないが、良くない点を探せなかった”という式のレビューならば私は絶対に読みたくないことだ。

映画批評は自己確信を必要として自己確信がない批評は無用の物だ。 確信がある批評家は同僚より自身の主観的意見が価値あるだけでなく‘客観的真実’にもさらに近いと主張する。 こういう類の批評を読んでいれば<ターミネーター>は星三つ、<タイタニック>は格別二つと定めた本がすでに私の賞天国にあるような印象を受ける。

批評家の観点で見ようとするならこれはあまりにも当然だ。 しかし映画批評家らのこういう態度は映画観覧に関連した色々な複雑で不確定的な要素らを隠している。 批評家らは自身の評価に影響を及ぼす極めて個人的な期待、好みと洞察力を通じて映画を見るという事実を認めるべきではないだろうか? 自身の年齢と年輪が特定映画に対する反応を左右して、もし同じ映画を20年後に見るならば違うと考えないだろうか? 時に映画を見る日のコンディションがどうか、たとえば疲れたり普段より気が短くて入ってからにより他の評価が出てくることもできる。 また、とても熱烈な反応を見せる観客と映画を見れば映画に対して違うように反応することになるだろう。

どんなジャンルの映画批評を使うかによりどんな批評家らはこういう要素を言及したり無視したりもする。 例えば、田舎で育ったので<キム・ポンナム殺人事件の転末>がより良く感じられたりという事実を認める方がもう少し率直だ。 しかし一方では、こういう事実を認めることが批評に別に助けにならない。

結局こういう多様な映画批評らに特定の意味を付与するのは読者の役割だ。 映画に対する客観的美学が存在するならば意見が正確な少数の‘精通した’批評家を探さなければならないだろう。 しかし真実を正そうと映画評判を検索してみる読者らは高度で知的な映画批評家らが同じ映画に対して完全に対立した意見を出しておくのを見てたいてい紛らわしがったり絶望することになる。 映画批評家と読者の間の関係は先生と学生の関係というよりはパートナーの関係と考えなければならないようだ。 映画を一緒に見る人を選ぶように、彼らの意見を聞きたい批評家を選ばなければならないだろう。 あなたが選んだ映画評論家の友人は、傲慢な錯覚の中に陥って多少非合理的であることもあるが一緒に映画を見るには最もおもしろくて最高の人々であってこそするだろう。

ア、だから… <キム・ポンナム殺人事件の転末>は今年最高の映画だ! そのように考えない人は全部バカだ。

文:ダルシバケット(koreanfilm.org運営者) 2010.09.08

翻訳裏書遅延

面白い人です^^
だから私はあなたを選んだ!
by kazem2 | 2010-09-08 12:18