ANEMA E CORE


by kazem2
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

イム・サンス映画監督  [追慕]アラン コルノ

☆CINE21.com
e0109292_13581968.jpg

                         アラン・コルノ監督
イム・サンス監督、1998年から継続してきた縁のひもを追って



[追慕]アラン コルノを‘よく知りもしないくせに’追慕する

GAMMA

去る8月29日フランスのアラン コルノ監督が癌で他界した。 享年67才. 彼は<セリヌアール>(1979),<世の中のすべての朝>(1991),<密告者>(1998),<二番目の息遣い>(2007),<美女らの戦争>等を作って韓国観客にもなじむ方だった。 10年余りの間コルノと縁を受け継いできたイム・サンス監督が彼の死亡消息を聞いて文を送ってきた。 イム・サンス監督は1998年から継続してきたコルノとの記憶を淡々とした語り口に伝えたが、その裏面に位置した水気もまた感じることができる。

1998年<処女たちの夕食>を持って釜山(プサン)国際映画祭に初めて行った時、あるパーティーでアラン コルノに会った。 私は彼が作った<世の中のすべての朝>がデビュー全(前)経た歳月を送った私にどれくらい力になってくれたかをつぶやいて尊敬の意を表わした。 彼は内称賛の話に素早くきまり悪い表情を浮かべて、映画の中音楽が本当に良かったと話を回した。 謙虚で淡泊なおじさんという印象だった。

2004年サンダンス映画祭で<浮気をした家族>をねじった時ある米国人観客は私にこういう質問をした。 “君たちの国ではまだ夫らが妻をこのように割るのか?”激怒を越えてばかばかしさを感じさせる態度であった。 私は当時フランス社会を衝撃に追い詰めたマリ トゥレンティニャンの死に対して話すことと答を与えた。 リトアニアで映画撮影中だったマリがある日の夜酒と麻薬に酔っていた同居の男の殴打で脳損傷を着て死んだ事件だった。 マリが<男と女>の俳優場ルイ トゥレンティニャンの娘ということは察していたが、マリのお母さんナ・ディーン トゥレンティニャンと新しく結婚をして、マリを幼い時から育てた継父がアラン コルノだったとの事実を知ったのは何年後であった。 その時私は<古い庭園>封切りを控えてパリにあった。 アランは私のフランス映画側の友人を通じて出てコーヒーでも一杯したいと連絡をしてきた。 意外だった。 その友人によればアランはその時養女マリの死による衝撃の中で長くて苦痛なちっ居生活を終わらせて新しい作品の後半作業をしているといった。 ダニエル オテユ、モニカ・ベルッチが出てくる製法大きい予算の映画<二番目息遣い>だった。

カフェに現れたアランは私にとても親しかった。 新しい映画を撮りながら<その時 その人々>のいくつかの場面をそのまま書き写したので理解してくれという冗談も言ったし、私が企画していたパリ プロジェクトに対しても激励をしてくれた。 フランス話を一つもできないアジア監督がフランス俳優スタッフらと映画を作るというのが妥当するのにや一つ、という私の心配に彼は自分が日本で映画を撮った経験を聞かせることもした。 そして彼は封切りする<古い庭園>を必ず見るという言葉を残して突然に編集室に消えてしまった。 出てきて一緒にいたフランスの友人らはいったいアランが不意に今日ここになぜ現れたのかしばらく討論をした。 私は彼が私に親しいために現れていたと考える。 私は彼の親しさが有難かったし心よりうらやましかった。

何日か後ソウルに帰ってきた時、アランのEメールが来ていた。 <古い庭園>に対する儀礼的な称賛が入れられた短い文だった。 だが、アランは明確に感づいたことと考える。 映画最後でチ・ジニ、イ・ウンソン婦女がついに会う姿をヨム・ジョンアおばけが見守る場面は、<世の中のすべての朝>中セントゥ コルロンブが毎晩死んだ妻と分ける痛恨の遭遇を書き写したことということを。

アランを最後に本件シャンゼリゼの<良い奴、悪い奴、おかしな奴>試写会場であった。 その時素早く目礼だけ分けたアランの夫人ナ・ディーン トゥレンティニャンが心にずっとかかる。 その親しい男を失って一人で残されるとは。

文イム・サンス映画監督 2010.09.06
by kazem2 | 2010-09-06 14:09