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<チン・ジュングォンのアイコン>悪魔の哲学

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                  <悪魔を見た>と<ダークナイト>



『線』と『悪』は日常で広がる人間の行為を評価する術語に過ぎない。だが、古代と中世の人間らは形容詞に属するこの術語を『天使』あるいは『悪魔』のような名詞で実体化した。形而上学的実体として悪魔のフィナーレを飾ったことは多分近代初期の魔女狩りであっただろう。その時の人々は真剣に悪魔の実存を信じたし、悪魔の子供たちを捜し出して絶滅させようとした。サタンを追い出そうとするその行為自体が結果的にはサタンの役割だったとの力説。これは善と悪の境界がどれくらい不安なのか見せた

これが神学的悪魔ならば、いわゆる『価値の転換』が横行したロマン主義詩対には新しい類型の悪魔、すなわち美学的バージョンの悪魔が登場する。ロマン主義特有の『アイロニー』感性は悪魔の中で天使を見て、天使の中で悪魔を見る。偽善(天使票(表)悪魔)に対する嫌悪は偽悪(悪魔票(表)天使)に対する選好につながる。ロマン主義者らが悪魔は芸術的天才だ、天才は既存の規則を全部破壊するので世人の目にはあたかも悪魔のように見える。だが、彼らは偽善に転落した古い道徳を破壊することによってさらに高い次元の道徳を予備する。

犯罪と芸術の間には共通点がある。すぐに既存の規則を破壊するということだ。偉大な犯罪には芸術性があって、偉大な芸術には犯罪性がある。かなりもっともらしく聞こえるこの言葉は時には危険なこともある。たとえば『芸術のための芸術』という唯美主義原理の極端場合を考えてみなさい。ローマ市内に防火をしてリラをつけて詩を詠んだというネロ皇帝、お隣りに火をつけておいてソナタを演奏するという金東仁の<光焔ソナタ>、そして戦争の惨状で新しい美学的原理に対するインスピレーションを得なければならないというマリネティの<未来主义宣言>。

ジョーカーの哲学<ダークナイト>のジョーカーのキャラクターが印象的であることは中世と近代の悪魔を一体に結合させているためだ。一方で、ジョーカーは神学的悪魔の形状をしている。彼は純粋悪を追求する。私一人で悪行をするのに終わらないで、文字どおり人々を"試験に入るから"作る。人質らを拉致犯で扮装させて鎮圧部隊を罪のないこれらの殺人に参加させたり、二つのグループの人質らを生き残るために互いに相手を殺さなければならない極限的選択に追い詰める。それこそ人間としてサタンの役割をするわけだ。

同時にジョーカーは美学的悪魔の特性を持っている。ジョーカーの犯行には明確な実用的動機がない。彼は金銭を得たり性欲を充足させるために犯行を犯さない。この無関心性は芸術作品の特性でもある。したがって重要なのは彼がする行為の邪悪だということでない。その邪悪だということの舞台をデザインする彼の演出力だ。だからバットマンはジョーカーの邪悪だということと相対して戦う前に先に限界を分からない彼の想像力と戦わなければならない。バットマンの定義は窮極的に勝利するか、少なくとも想像力の戦いだけはいつもジョーカーに敗北する。

ジョーカーとバットマンの対決は旧約聖書ヨブ記から降りてくる神学的観念、すなわち『神と悪魔の賭け'を似ていた。同時にそれは芸術的遊びでもある。ブチの犬や長期がおもしろくするなら立派なライバルが必要なように、バットマンがなかったとすればジョーカーは多分その悪い遊びを止めたり、継続しても非常に退屈がっただろう。神学的悪魔の敵は'定義』でも、美学的悪魔の敵は『倦怠』 ( ennui ) 、すなわちこらえることはできない人生の退屈さだ。そこにヒスレジャーの優れた演技が合わされて、ジョーカーの形状で観客はある種の崇高さを感じることになる。

悪魔性と残酷性<悪魔を見た>として劇場に行ったが、本来悪魔を見ることができなかった。映画のあちこちで<ダークナイト>を参照した跡が感知される。たとえば永遠に笑えと口を裂いてしまう場面でも、犯人の家族に彼の処刑を任せる場面、特に軽鉄がスヒョンと一種のゲームの状態に入るという設定などはやむを得ず<ダークナイト>を連想させる。いや、その以前に<悪魔を見た>は題名自体がジョーカーと似た、あるいは彼とは全く違う類型の純粋悪、絶対悪を見せるという監督の意志を見せる。だが... 。

悪魔性は単純な残酷性'以上'のことでも、映画でその'以上'を見ることは大変だ。もちろん軽鉄の悪魔性が感じられる大きな課題がないことではない。たとえば活かしてくれと頼むふりをしてまたののしるモードに戻る場面。 (ここで重要なのは軽鉄がスヒョンのみすぼらしいコードを'あざ笑っている』という漸移だ。 )軽鉄の悪魔性が最も良い暮らしをした部分は女の頭を鈍器で打ち下ろして血をはねる場面でなく、彼が最後のすべき仕事を片づけて自首する場面だった。どんな意味ではこれが手足を切断することよりさらに残酷なのだ。

軽鉄に似通っていくスヒョンの悪魔性は標的を失った感じだ。ジョーカーの手法のように関係ないこれらに処刑を任せる彼の復讐は観客に虚しさを与える。どうせ軽鉄は家で出した子供、彼に家族が何か意味があるだろうか?いっそ軽鉄が自首する場面で映画を終わらせることによって絶対悪の前で人間が感じる無力感を見せるのがより良くなるところだった。平気で自分に死刑を宣告してくれと話す凶悪犯の実存的冷笑の前で『法』の刃物は無力になる。このように定義自体を解体させること。絶対悪はそんなことだ。

悪魔を捉える方法『ハードコア』 ( hard core )と『ハード古語] ( hard gore )の言語的類似性は実はジャンルの類似性を含蓄する。ウンベルトエコによれば、 『一つのエピソードで他のエピソードで履行する時間が無駄に長くかかること'がポルノだ。あえて性器を表わしてこそポルノでなく、プロットの進行に必要な以上の視覚的過剰はどんな意味で全部ポルノという話だ。監督自身もこの映画を[古語スリラー』で理解するようだ。この映画が悪魔性の哲学的探求より残酷さの視覚的顕示に注力するのは多分そのためであろう。

だが、監督がそれ以上のことを追求しようとしたとすれば、悪魔性を'行為の残酷さ'よりは'考えの邪悪だということ'で探さなければならなかっただろう。だが、映画は始終一貫考えよりは行為に、精神よりは肉体に執着して、復讐やはり犯人の精神に苦痛を与えるよりは彼の身体に残酷さを行う側に成り立つ。だが、自ら"苦痛も恐怖も感じられない"と話す者の身体を破壊するのは無意味なこと。スヒョンはそのゲームを通じて軽鉄の考えを、彼の企画を、彼の人生を支えるコードを破壊するべきだった。

ニーチェの言葉通り、"最も大きい批判は相手の異常をあざ笑ってくれること" 。凶悪犯らはいつか自身の身体やはり破壊されるだろうと予感する。彼らの(生物学的、あるいは社会学的)死はすでに彼らの企画の中に含まれている。サタンはアンチキリスト( Antichrist )だ。死を押し切ってどんな価値を追求するという点で彼らの行為やはり英雄的だ。ただし彼らが追求する価値が線でなく悪という点で、彼らは反英雄( Antihero )とすることができる。この内容ない形式的英雄主義でこそすべての偉大な( ? )犯罪の真の動機だ。

悪魔を批判する形式はこれに対するあざ笑いだ。悪魔も傷を受ける。悪の英雄に『悪い奴』とののしるのは意味がないこと。彼らに損傷を与えるのは本来"そうしてみても、君はトゥッポジャプ"という話だ。彼が絶対悪でなく相手悪にすぎないという事実。彼が偉大な英雄でなく単につまらないもの、町内チンピラにすぎないという事実。真の復讐は悪魔自らこれを自分の内面から認めるようにさせるところで成立する。悪魔を捉えるために悪魔よりさらに残酷な必要はない。悪魔を捉えようとするなら悪魔よりさらに邪悪でなければならない。

文:チン・ジュングォン(文化評論家)2010.09.03
by kazem2 | 2010-09-03 18:33