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ギム・フィヨウンの文化評論 映画「悪魔は見た」④

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素材-主题( what or 、 for what )と表現の自由

特別に小規模低予算映画には表現の自由だというのがあまりにも重要だ。この時の表現の自由は主に表現方式( how )の自由でなくその映画が入れようと思う素材( what )または'主题( for what ) 』に関することの場合が大部分だ。大衆の視線から抜け出している疎外受ける部類、すなわち移住労働者らの哀歓、障害者らに対する社会の冷たい視線、路上生活者や極貧者らの生活、同性愛など徹底した社会的弱者や非主流の人生を映像に入れて後社会の視線を再照明するようにすることに適用される。パク・ジンギュ監督が70才を越えた老人たちの性と人生を主題で出品した低予算映画<死んでも良くて>などがその例だ。 1990年代後半で今後10年を経てきながら主題と素材に対するタブーはほとんどみな解けた。残酷な私的な復讐(親切なクムジャ氏) 、過去の歴史に対する解釈(派手な休暇) 、南北イデオルルギに対する冷戦的思考脱皮(太白(テベク)山脉、南部军(郡) 、 JSA 、 welcome toトンマクゴルなど)同性爱(後悔しない、西洋骨董(ゴルドン)洋菓子点アンチーク) 、老人たちの性(死んでも良くて、パク・ジンギュ) 、はなはだしくは親父殺害(公共の敵) 、近親相姦(オールドボーイ)を素材とした映画まで出品された。これ以上どの線まで表現の自由を享受してこそ満足するだろうか?事実の上のこういう素材を映画で扱うことはイスラムなどの宗教が支配したり時代に遅れたイデオロギーが強い国では制裁でなく<サルマンルシディ>のように命さえ歩かなければならない事項だ。韓国は高等教育を受けた人々が多いからなのかこういう素材を扱ったといってその監督が危険状況に処することはなかった。素材や主題の自由なことはほとんど大部分韓国文化芸術界を豊かで水準高くという尽くすことができる。ところが問題は表現方式だ。この問題は両面の刃物と同じだ。よく使えば大切な人々に良い料理を接待できる良い道具になることができて間違って使えば殺人の道具で使われる危険まである。

表现方式( how )と表現の自由

<悪魔を....>で見せてくれる残酷さ同じ表現方式に対して『表現の自由』を口にするのはそれだけ哲学的貧困を表わしているだけだ。率直に"この映画製作と広告にお金が多く入っていった。最小限それ以上のお金は儲けなければならないのでちょっと激しくした"と話すのがさらに正直だ。こらえることはできない残酷性を描き出した人が表現の自由を口実にするのはきわめて偽善的だ。 韓国事情をよく知っている評論家の立場で率直に言ってみれば、残酷性をわざわざ表面に前に出して過去の他の映画では見物できなかった見どころがそれだけ多いという高段者の間接広告で一銭でもさらに儲けるつもりだという意図で外に違う考えをする余地がない。 興行に対するその切迫した心情がすさまじさを越えて可憐に感じられるほどだ。

ハリウッド映画中にも残酷性があらわれた映画がたまにあるという弁解をするのにそれで防壁の盾をしてみようとする試みもまた、あまりにも卑怯でみすぼらしい。 たとえそのようなハリウッド映画があるとしてもその監督が<奴。奴。奴>でソン・ガンホ、チョン・ウソン、イ・ビョンホンのような大韓民国最高の俳優らをした作品に出演させる程一つの国で莫大な影響力を持った人が絶対ではない。 超絶頂人気俳優3人をした映画に交渉しようとするならその後背景、すなわち企画会社や投資社、そして配給会社などどれくらい良い立場にあることということは想像可能だ。 外国でその程度のパワーと有名税を持った監督ならば<ドリームワークス>の、スピルバーグ程度級なので<悪魔を見た>のような3流低質シナリオはこと庭浮かび上がってみることもなかっただろう。 <ソウ>の監督ジェームズ王道<奴。奴。奴>以後のキム・ジウン監督が持った地位ぐらいユ・ミョンドと影響力を持った監督ではなかった。 すでに最高の監督隊列にあったキム・ジウン監督が悪魔の誘惑に屈服して墜落とだけ映画が<悪魔を見た>であることは確実だ。 この映画が作品性よりは残酷性を興行のため露骨な武器としていることは題名、ポスターデザイン、その後の監督と主演俳優らのインタビューなどのマーケティング戦略で一貫して現れる。 一つだけ例にあげればいくら島ことある暴力を行使する悪魔的人間が現れる映画といってもたとえば'おじさん' '追跡者''執行者' '公共の敵'等で隠喩的なタイトルをつけるがこの映画のように露骨に'悪魔'という用語自体があらわれる場合は殆どない。 キム・ジウン、チェ・ミンシク、イ・ビョンホンなど二才有名人のインタビューを見ればより一層見苦しい姿だ。

二番目外国で韓国のチェ・ミンシク、イ・ビョンホン程度の位置を占めている有名俳優が<悪魔を見た>のようなそのような3流映画などに出演するか? 韓国で残酷な表現法を例にあげる時、しばしば引用されていてその作品性を認められた<追撃者、2008,ナ・ホンジン>の場合を見よ. その映画で主人公役割をしながら新人男優賞をコモ握ったハ・ジョンウがその映画以前にそれだけ有名俳優だったか? 韓国人ら大部分は率直に<追撃者>以前にはハ・ジョンウという俳優が誰なのかも分からなかった。 ハ・ジョンウは徹底した無名俳優に過ぎなかったのでこの映画を契機に一生に一度だけしか機会がないという新人男優賞を受けた。 追撃者に刑事駅で出演した俳優も同じだ。 <悪魔を見た>のような残酷暴力物にキム・ジウンのような有名監督とチェ・ミンシク、イ・ビョンホン同じ大俳優らが群れを作って走った形態は韓国映画版の質的な水準を赤裸々に見えてくれた。 1135構造だ。 1流監督と1流俳優らが集まって3流映画を印刷する国. そしてそのような恥ずかしくて社会にはなはだ危険な映画を500個を越えるスクリーンを独占して封切りする国. これが大韓民国映画界、すなわち忠武路(チュンムロ)の現状だ。 この方らは韓国映画界で占めて地位に似合う哲学はさて置き当然持たなければならない責任意識さえ探し難い。 映画関係者の名誉は映画関係者ら自らが守らなければならない。 監督は魂がなしで映画の代わりにお金印刷する機械で習う自ら最も良くない意味で卑下する時や使われる'役者' '考えによって'と考えて生きるのが続編だと自嘲しているということだろうか? 真にかわいそうで悲しいことだ!
/キム・フィヨン(文化評論家)

参考で次のインタビューはハリウッド有名俳優らの映画館を端的に見せる例だ。 韓国のキム・ジウン監督とチェ・ミンシク、イ・ビョンホンなどを問わず韓国のすべての監督らと俳優ら、そして韓国映画と文化の発展に関心がある大衆も一度ぐらいは比較して刻んで見る必要がある--2部に続きます。
by kazem2 | 2010-09-02 23:16 | kim jee woon