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ギム・フィヨウンの文化評論 映画「悪魔は見た」③

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忠武路(チュンムロ)の明言(名言) :遊べば何をするのか?

カン・ウソク、彼はまだ若い。映画に対する能力でその誰にも遅れをとらないカン・ウソク監督が韓国映画に寄与できる機会は十分に多くて彼ならば十分に可能だ。忠武路(チュンムロ)の大統領と呼ばれる彼が決意するならばチャンジン一緒に能力あって感覚ある重鎮級監督らを大きい人物で育てる事もできまた、能力に比べて光を見なくなっている新鋭監督らを発掘して韓国映画界を革新させることができる十分な力量があると判断する。始めたついでに<カン・ウソク映画学校>きて<カン・ウソクアワード>同じようなものも自身が描いて行く未来の絵に入れることを望む。

それで韓国映画界で有名な話になった"遊べば何をするのか?"という心情で映画を印刷することを明確に減らすことを望む。芸術的感性と想像力が枯渇したあげく<悪魔を見た>流の映画を作って私たちの社会に供給するよりはいっそそのまま遊んで下さるのが社会にはるかに得する。それでいつか想像力と感受性、このその二つがチュンイル日が沈む時映画にまた没頭しても充分だ。到底出来ないならばそのような映画でスクリーンを独占するよりは才能ある新人監督が入る空間を提供するのがはるかに得する。

カン・ウソク監督の才能を韓国映画界のために十分に活用されることができないならば彼や韓国皆に大きいが大きい損失に違いない。カンウソク、彼の力があって光る目を見るとこのようなことを十分にやり遂げてあまりあるだろう・と考える。しかも今まで韓国興行映画を導いて韓国映画界に貢献してきたすごいことより前にすべき仕事がさらに多い監督だ。韩国観客皆が彼を始めとした忠武路(チュンムロ)を注目していることを記憶しなさい!すなわち<ゴールデンスランバー>という日本映画が韓国に大規模に開封される。前にこうしたことはますます多くなるだろう。唯一日本に鋭敏に反応する韓国観客らが韓国映画がハリウッドでなく日本映画にも押される状況を目撃することになれば果たしてどんな反応を見せるだろうか?韓国映画界はもう本当に惰性から目覚めなければならない。チョプティ狭い井戸で飛び出してさらに広い世の中を見なければならない時だ。

<お金>は目がない。 <お金>は価値中立的だとそれだけ盲目的で時には私たちの想像を超越する程恐ろしい結果に導いたりもする。韓国映画が興行のために古墳奮闘することまた重要だ。だが、それだけが主となっては絶対ならないだろう。特に韓国の有名監督、有名俳優らはより一層そうしてはいけない。お金を儲けてもちょっと洗練された方式で儲けなければならない。そうして自分たちも良くて韓国社会にも良いウィンウィンの関係を模索しなければならない。そうでなければ結局には観客らの無視されて作品性はさておき興行さえも取り出すことはできない状況に追い出されるだろう。

<公共の敵>を大衆の前に出す時、カン・ウソク監督が直接TVに出てきて、"そのような悪魔のような奴は殺す。私が映画ででも必ず殺してしまう"という自身に対する弁護性発言までしなければならないことはカン監督自らもその映画を作って社会に流布しながら内心どれくらいケルムチカゲ感じただろうという点を如実に反証する。こういう弁護性発言は<悪魔を見た>を作って社会に配布することに意気投合された、三人物すなわちキム・ジウン、チェ・ミンシク、イ・ビョンホンのインタビューでもよく確認することができる。 <悪魔を見た>行ってどれくらい残酷な表現が出てくるかは同じ時期にウォンビンを主演に開封された<おじさん、 2010 、里程犯>の残酷性はいっそ美学の境地という評が出てくるほどだ。このように、2010年の夏休み休暇シーズンは忠武路(チュンムロ)が出した二<復讐>映画で汚された。

真の問題はこういう素材と残酷な表現を武器にした映画らが興行で失敗を味わって枯れて行かなくて、かえってその反対に連続する興行成功を滋養分みなしてすくすく育ってきたという点だ。もちろんイム・スンレ監督の<家で> <私たちの幸せな時間>でもシム・ヒョンレ監督の<ティウォ>のように水準高い家族映画、そして低予算映画で大当たり興行をした<ウォナンソリ>のような高感度の映画らが時々大衆にリリースすることもした。だが、これは本当に持って生まれた演出力(イム・スンレ)や最高のIT技術力の構築(永久アート)と驚異的なほどの執念(シムヒョンレ)がないならば不可能なことに近い。普通の監督らは誰でもの夢は見ることができても、実際に実現しようとするならあまりにも難しいことだ。

筆者がティウォ論議の時、すなわちその時点の2007年8月後半頃筆者が韓国映画歴史上最悪の映画に選んだ<公共の敵>が韓国映画版にあまりにも大きい影響を及ぼしてしまったことはその監督が韓国の代表的興行監督という地位を持った人だったためであることも絶対に見過ごしてはいけない。韓国映画版で監督が生き残って名声とお金を両手に握ることができるカードは<興行保証小切手>監督という話であることは韓国観客ならば誰でも知っている事実だ。聞きやすい芸術性、作品性は遠い過去のことだ。興行に成功してこそ次期作に対する投資も簡単に解決される。単純に面白味で見ながら楽しむ自由を享受する一般人らより'兴行]これという過度な圧迫に踏み付けられ生きていく監督らと企画会社らがこういうたやすいロールモデルを見て誘惑されないで簡単に見過ごせないということは十分に予測することができる。

インターネット時代と扇情的な映画の退場

特に長い間の歴史の間、残酷暴力性と共に表現の自由の論議で一つの軸を党たん咳きた高感度エロ映画らの退場も大きい影響を及ぼした。インターネット動画物の氾濫で<エマ婦人><ぷうっと><ピョンガンセ><乳牛部の浮ついた気持ちになったよ>などのエロ映画らが興行の余地さえ消えてしまった。これを勘案する時、残った一方、すなわち残酷ポンニョクソンエウロの関心が傾倒するのはもしかしたらあまりにも自然な雪崩れ現象ということもある。だが、社会に及ぼす被害がはるかに深刻な残酷な暴力性を媒介とした映画が70億ウォンという巨大資本の暗い外套をかけて私たちの前に差しせまってくることを実際に韓国映画界で確認しなければならないことが鳥肌出る。主流監督に主流俳優の組合でこういう映画が誕生して大規模な封切り館を確保することはその間韓国の主流映画界がどれくらい腐っていっていたかを赤裸々に見せることだ。

韓国映画界掘出してみること

過去中国武術映画で見せた派手なピアノアクション物や英雄本性鉄血カップルウンなどの香港loire水一緒に韓国市場以外への進出で市場を広げることは夢さえ見ることができなくなってきたこと韓国映画版だ。メジャーリーグのパク・チャンホ、チェヒソプ、チュシンス、プロゴルフのパクセリ、ヤンヨンウンそして長い間の歴史の間十分に不可能の領域と考えてきた水泳のパクテファン、フィギュアのキムヨナなどスポーツ領域やその他各種の文化領域とは違って唯一韓国映画界はシムヒョンレ監督を除いてはただ一度もどこの誰も世界メジャー舞台、いやアジア舞台に租借進出を模索する人がなかった。不可能の領域だと考えたのかそのまねる人さえなかった。

事実は、"できないのでなくしないものです"と一喝したシムヒョンレ監督の話が合った。その例で香港loireの巨匠ジョンウー( Jhon Woo )がハリウッドに進出して<フェイスオフ( face - off ) >で世界的な興行に成功した。中国系米国人のイアン監督の<ワホジャンニョン>の興行とアカデミー巻を例にあげなくても最小限色界のように十分に天性の芸術的感覚でアジア市場でも席巻してみようとする監督が韓国映画界にはなかった。毎年说秋夕(チュソク)の時ならばジャッキーチェン、ジェットリー、チュソンチ映画などが韓国スクリーンを占領してきた。逆に韓国映画が香港、日本、中国など他のアジア国家ででも映画が興行されたことがあったのか?日本だけでも<ラブレター>宮崎駿監督の<千と千尋の神隠し、 2001年> <ハウルの動く城、 2004 >などが韓国映画市場で猛威を振るった。こういう監督らと比較してみれば韓国監督らの能力それだけでなくその努力さえもはなはだ不足したとのことを示唆する。

"韓国映画は海外市場ではダメだ! "こういう固定観念と自虐とあきらめの枠組みを破ってハリウッド市場に出ようと試みた唯一の人物のシムヒョンレ監督の試みに韓国映画界はどのように対したのか?激励はおろか、口にすることもできないあくどい非難と露骨な妨害まで日常行ったこと韓国映画界のゆがんだ歴史だ。ある無知で野卑な人間が映画評論家という仮面をかぶって出てきてティウォを露骨にけなすために、"会ってからいくらも経たなくてキスする! "という悪評も事実は<ティウォ>の主題やあらすじとは何の関係もないチクは<ティー>に過ぎなかった。海辺夕陽を背景に3 〜4秒程度のきわめて短い時間外に出てこなかった部分でこれは編集過程で削除されても関係なかった。 <トランスポモ1>で一番端に不意に単に目妖気感で何秒間見せたメガンポクスと男主人公間のベッドシーンのように処理されたり映画が終わった後メーキングフィルムでも見せてもかまわない部分であったのは<ティウォ>を見た人ならば分かるだろう。

<ティウォ>きて<派手な休暇> :未来と過去

皆知るように<ティウォ>は世界的なIT技術力を持っていた韓国が新技術を接続させて作ったファンタジー娯楽映画だ。だから大きい事件と戦いをどれくらい効果的に演出して出すかが重要なことで微細な部分まで繊細に処理されてこそ成功を保証されるロマンスメロー映画ではない。そうであることにもかかわらず、チンジュングォンという奇怪な映画評論家は極度にささいな<玉に傷>を持ってきて全体イメージにダメージを与える悪質手法を使ったし、無数の悪リプライヤーらは哲と見識と知識、そして素養さえ不足した彼の巧妙なマルパルにオルタグナ!しながら一緒に非難に熱を上げた。こういう無数の悪リプライヤーらが果たして<ティウォ>がすぐに大統領選挙を目前に置いて<派手な休暇>とともに開封されなくてもそのような乱舞を犯したかを考えれば韓国社会がいくらぐらい政治に及ぼして病気にかかったのかが分かる。政治にこのように及ぼしているある大韓民国文化芸術の発展はそれだけ遅れなければならない。 <派手な休暇>は1 〜 2年遅く開封されても大きな問題がないが<ティウォ>のように先端技術力に基づいた映画は封切り時期を少しでも遅らせればその被害が言えなく深刻だということぐらいは誰でも分かるだろう。まさか日ごとに新技術が市場を占領していく時期に3Dで映像革命を起こした<アバター>が1年後に封切りしてもそれだけの興行に成功するだろうと考えるのか?明確に過去を指向する<派手な休暇>きて未来に向かった鳥篭を開く<ティウォー>とどちら側がさらに重要だったか自問してみることだ。 " <派手な休暇>を500万人だけ見れば大統領選挙は終わった"という言葉がおおっぴらに出回ったが何と750万人が超えて観覧してもその年の大統領選挙結果はこの話をあざ笑った。

実際に筆者は<ティウォ>きて<派手な休暇>二つとも1000万人を越えたり最小限それに(彼に)肉迫することを見送った。これはビョンヒジェメディアウォッチ代表に送ったメッセージ文にも確認することができる。その理由は<派手な休暇>は過去を正しく確立するために、 <ティウォ>は韓国映画界の未来のために二つとも重要だといった内容だ。 <ティウォ>を支持するファンたちが<派手な休暇>に悪リプライで埋め尽くすことは珍しかった。本来TV 100討論は<派手な休暇>を対象にしなければならなかったがこれを度外視して<ティウォ>だけ討論してそれも露骨に非難で一貫した。 <派手な休暇>を支持するために<ティウォ>を一方的に非難することが正常なことなのか?もしチンジュングォンがこのことに銃を担いだと奇怪な弁護性主張をする人々がたまにいたが、私はこれを信じない。いやとうてい信じることができない。なぜなら韓国で息をしてまた、お金まで稼いで食わせて生きる有名人として、とても多いこと中でよりによってそんなことに自ら銃隊を結んでからは人間ならば、彼が知識人の仮面をかぶって請負業でもする組織暴力団紙どうして正常な社会人だと考えることができようか?文化評論家の腕章をはめてこうしたことを自ら要望してするほどの人ならば彼にこれ以上希望がない。

<ティウォ>その後の3年...

そのように非難を受けた<ティウォ>の出品以後、十分に3年がさらに流れたけれど、韓国で果たして<ティウォ>に比べるほどの映画が出てきたのか冷静で客観的に考えてみよう。过度なCGの乱発で映画を亡ぼしたという評をする人がまだいるならば、最近全世界的に開封された映画<ラブリーボンズ、 The Lovely Bones 、 2009 >を見ることを薦める。その名前も有名な<キングコング> <指輪の帝王>を作ったピータージャクソン監督の作品だ。また<パーシージャクソンと稲妻泥棒、 2009 、クリスコラムバス>はどうなのか?驚くべきことに彼は<ハリーポッターとアズテバンの囚人><博物館が生きていて、1,2 >を出品した監督だ。

果たしてこういう世界的巨匠らが発表した最近作品らが韓国のシムヒョンレ監督が出品した<ティウォ>より作品性が優れて目で直接比較確認してみなさい。 <ティウォ>にリリースしたCG場面中作品の構成と主題に緊密に関連を持たないのを検索がはるかに難しい。信じられなければDVDをまた回して見よ!こういう映画にCGの乱発という奇怪な紙切れを付けるとは?この人らが本当にCGに基づいたファンタジー映画を知っている人々か?

CGの乱発は<ラブリーボンズ>私<パーシージャクソンと稲妻泥棒>のような映画にでも指摘されてこそかえってさらに正しさをすぐ比較確認することができる。二つの映画みな世界的な有名監督から作られて全世界的に開封された映画関係者点は本当に興味深い。

ぎっしり詰まった脱出口

韓国映画界は海外市場への進出という外部での脱出口が詰まった状況で日ごとに増加していく製作費でもたらされる内部的圧迫がますます窒息を加えてきたので、これ以上突破口がなかった。これを考えればついに<悪魔を見た>のような私生児を出生して自殺の道に走ることはすでに内定していた計算だ。

3年前2007年8月1日、韓国が整えた世界最高水準のIT技術力を基盤としたCGで私たちが劣等感を持って挑戦する意欲も出せなくなっていた香港のピアノアクションまで一瞬にして飛び越えてしまった映画もまた<ティ-ウォー>であった。 <ティウォ>以后中国、香港のピアノアクションをうらやましがる人々はほとんど消えた。韓国史劇ドラマでも目がまんまるくなるほど素敵なアクションが出てくる。 CGなどの技術力の進歩が競争力を翼で付けてくれたのだ。それでも<ティウォ>が出品された当時、これを韓国映画が模索する新しい契機にすることができなかった。時代の変化に目を開くことができなくて低質評論でも日常行ってまたは、単に低質政治論理に陥ってこういう貴重な機会を蹴飛ばしてしまった韓国評論家らの責任もあまりにも大きい。筆者が<ティウォ>を観覧した後韓国映画は<ティウォ>以前の映画と<ティウォ>以後の映画で分けるようになるだろうと確言した理由を今や知ることが出来るだろう。残念なことに韓国はそのエネルギーを政治の部分に減少してしまった理由にその重要な<ティウォ>時代に爆発したエネルギーを正しく使う機会をのがしてしまった。それで<アバター>のような3D映画を作ることができるモーメントや契機さえも忘れてしまった。

あまりにも政治色を強く匂わして公営放送なのか少数集団の利益のための政党なのかすら混乱させるMBCはその時果たして何かことをしたのか? <ティウォ>に露骨なテロを加えたことに対して関連者らは良心に寄り添ってひどく反省しなければならない。 TV 100分討論は韓国社会に深刻な弊害を及ぼすこういう残酷暴力映画らの氾濫している現象に対して、社会心理映像芸術など多様な分野の専門家たちを招へいして公開討論をしてこそかえって当然だ。今後も残酷な複数劇が何便でもさらに封切りを待っている。シナリオ企画資本と配給もまた、こういう残酷映画部類に偏重されているという反証だ。韓国映画の現実がこのように凄惨だった。日本映画の前てつを踏んで墜落しないだろうということをどの誰が大言壮語することができようか?事実こういう問題において最も重要な役割をしなければならない映画評論家集団の素養不足も深刻な問題だ。

表現の自由と芸術の相関関係

表現の自由とは何か?文化芸術に関連してはどんな主題に関してでも制限がなくてどんな方法の表現方式でも動員できる自由をいう。だが、ひたすら良いことだけ同じだがこれはあまりにも純真な発想だ。なぜなら黄金の光で光るこのコインの裏面にはまもなくどんな方式でも関係なしで利用することができる「低質競争の自由」を合法的に保障する危険性までかくれているためだ。特に資本の論理の商業性が幅きかす現代社会にきては何より大衆の視線を捉えるための低質競争の乱発で文化芸術界に悪化が洋画を構築させてしまうのが常だ。

その代表的な例では近い国日本の映画とドラマの変遷史を韓国と比較してみれば良い。黒沢明監督のラショモン(罗生门: In the Woods 、 1950 ) 、 7人の侍(七人の侍/ The Seven Samurai 、 1954 )で代表される時期の日本映画は世界最高水準だった。荒野の7人( 1960年)にリメークされるなど無数のハリウッド映画がこの映画の技法をそのまま借用するほどであった。だが、このようにきらびやかだった日本映画界が今は世界に名刺も差し出せないほどみずぼらしくなってしまった理由は何だろうか?学者らはかえって表現の自由をあまりにも過度に解いておいたので衰退の道に歩いていってしまったと分析する。これは日本ドラマの場合も同じだった。

表現の自由の逆説

日本映画やドラマで流血狼ぜきした場面や身体の一部が遠く離れていくことは普通だ。 10時程度だけ移ればTVでも暴力と扇情的なドラマが大手を振るう。現在日本映画は韓国、香港、台湾、タイなどのアジア周辺国水準よりもはるかに低い。だが、韓国の場合はどのようだったか?韓国映画が日本の水準を跳び越えたのは非常にながい。特にドラマ分野は日本に比べて果てしないほど小規模資本を投じてもあまりにも誇らしくて圧倒的な質的な優秀性を確保した。いわゆる韓流時代を開いた。その上に日本が比較優位を持っている宮崎駿の<ハウルの動きは城、 2004>などのアニメーションが果たして表現の自由を思う存分享受するところで来た結果らか? "オゲンキデスカ?"というセリフとともに韓国人らの感性まで細心にタッチするのに成功しながら多くない興行に成功した映画<ラブレター>道(ド)映画関係者らが主張する表現の自由論議とは全く関係がないずば抜けた作品だった。もちろん<ラブレター>のように洗練された感性映画で興行に成功することは表現の自由を思う存分享受しながら暴力選定残酷などの強力で無慈悲な武器を使う映画監督が出品する映画で興行することよりはるかに難しい。それだけ監督の映画に対する哲学および繊細で洗練された技術が要求される。したがって興行のために表現の自由を思う存分享受しなければならない監督であるほど能力が不足した監督であることは話す必要さえない。

韓国には表現の自由に対する規制の強度が日本よりはるかに激しかった。地上波ドラマの場合はより一層そうした。こういう環境でドラマ作家らは残酷や暴力そして選定不倫などの興行を得るのであまりにもたやすい武器を奪われてしまった。したがって質的な完成や表現の節制と美学を伴う全く違う次元の美しさで勝負しなければならなかった。こういう状況で産むことができたこと韓流ドラマらだった。すなわち韓流ドラマは逆説的に悪い環境にあまり露出しない恩恵を受けた。すなわちママ腹の中にある時から胎教自体を確かに受け取って生まれることができたのだ。こういう韓流ドラマは韓国のドラマ市場を日本、中国、タイなど十分にアジア全域にむくが市場を広げたしまた、それ位の韓流スターという強力な文化資産まで確保することができた。その後の歳月が流れて、2010年現在には表現の自由が過去韓流ドラマが出てくる時期よりはるかにたくさん許されている。果たしてその結果がどうなのか?朝にも不倫、夕方にも不倫と呼ばれるいわゆる<どん詰まりドラマ>が韓国ドラマの大勢いを形成してしまった。ペ・ヨンジュン、チェ・ジウ、パク・ヨンハなどの韓流スターを排出した冬のソナタ、イ・ヨンエ、チ・ジニ主演の大長今(テジャングム) 、最も最近の花より男など韓流で成功した傑作ドラマら中残酷暴力選定不倫などの奇怪な分野で表現の自由を思う存分享受した作品がただ一つでもあったのか?

芸術のために表現の自由が必要だと主張するのに総論でポ弁決して違った話でない。だが、各論に入って表現の自由を思う存分享受する映画やどん詰まりドラマらより本来この自由をあまり享受しなかった作品であるほど水準高い作品らが多いということは何をいうのか?これが表現の自由の力説ではなくて何か?どの誰が表現の自由に対して反対意志を出すだろうか?だが、表現の自由を各種文化芸術に従事者らが整えた適切な哲学と素養のキ半夏によく活用できなくて、単に興行のために悪臭が出る汚物を突きつけるどん詰まりを開いて抜くための手段でも利用する時はその文化系には暗鬱な未来だけ露呈しているだけだ。

表現の自由と映画の質

表現の自由の力説は特に莫大な資本が投入されて興行に対する激しい圧迫を受けている映画界が最も激しくなければならない。地上波という属性上多くの制約がなければならないドラマを見て表現の自由の限界があまりにも広い映画界はこの逆説が致命的に適用される余地が強い。その上視聴料や広告料などで代表される公的属性が強い資本とは違って映画に投入される理由資本はその速成科目的から余りにも違う。ドラマの視聴率低下で乞食差は人々はごく少数だが映画は興行に失敗すればその関連者らは一時にばく大な借金に座るのが常だ。この前興行の圧迫を耐えず映画監督や助監督らの引き続いた自殺はこれを如実に見せる。小規模資本でも映画を作ることができた過去にはこの表現の自由がだいぶ肯定的な役割をしてきた。だが、大規模な資本が投入されるこの頃は表現の自由ということがかえって毒液として作用する場合があまりにも多い。興行のために表現の自由を悪用しなければならない誘惑があまりにも大きくなるためだ。

続く
by kazem2 | 2010-09-02 23:13 | kim jee woon