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ギム・フィヨウンの文化評論 映画「悪魔は見た」②

ギム・フィヨウンの文化評論 映画「悪魔は見た」②_e0109292_2327100.jpg




<悪魔を見た>の映画史跡(私的)意義 ?

現在の韓国で最高の論議になっている<悪魔を見た>の映画史跡(私的)意義を探そうとするなら何だろうか? 『長い間の歴史の間押さえられてきた暴力の解放? '暴力と残酷性に対する表現の自由?こういういかにも強情そうな名分さえ不可能なほど残酷なみすぼらしい姿だ。この映画の目的が韓国映画の質的な向上、社会問題の告発または、人間内部に宿った暴力性に対する奥深い考察などではないことは見た人らは皆知ることができる。それでは何か?言葉どおり興行すなわちお金( MONEY )のためだ。世界どこの国を見回しても私たちの韓国と同じ事例は探すのに難しい。 <怪物>の、ポンジュノ、 <ティ-ウォー、 D - War >の、シム・ヒョンレ、 <シュリ>の、カン・チェギュ、 <共同警备区域>の、パク・チャヌク、 <王の男>の、イ・ジュンイク、 <奴。奴。奴>の、キム・ジウンなどその国でいくつかの指中に挙げることができる有名監督とイ・ビョンホン、チェ・ミンシクのような最高レベルの俳優らが同時に意気投合してこういう残酷無比をとった後、その社会に大量で供給することは想像さえできない。せいぜい名のない3流監督が企画してそんなものである俳優らが出演して少数の郊外の3流劇場で小さい興行を目的としたり、ビデオやDVDレンタル店で直行している無数の映画がこういう種類だ。当然その国スクリーンの半分に近い大規模封切り館上映は夢も見るのが難しい。 1流監督と1流俳優が集まって3流映画を印刷する国。また、そのような映画をスクリーンを独占しながら配給する国。これが忠武路(チュンムロ)の論理で構造でこれはまもなく韓国大衆文化の現実だ。

<映画>より<お金>をとるために血眼になった忠武路(チュンムロ)

率直に<悪魔を見た>行ってキム・ジウン、チェ・ミンシク、イ・ビョンホンのような韓国で最高度で有名な監督と俳優らが参加しなかったとすれば上の事情は韓国でも別に違わないことと判断される。ひとまず大規模スクリーン確保という配給から難しいだろう。スクリーン確保すなわち配給を保証されるのが難しいから投資受けることも大変だっただろう。それで韓国映画界に今なお残った問題は監督や俳優らの個人的資質と素養の不足も原因かもしれないがその根元は何より投資企画配給に達するまでを網羅した忠武路(チュンムロ)の構造的問題についているだろうという結論に至る。今は忠武路(チュンムロ)が<映画>でなく<お金>を印刷する空間に変わったという感じだ。 "芸術?そのようなことはOや与えろ。それは時折独立映画監督らの作品でも時折見れば良いじゃない。芸術性と商業性の調和?そんなに難しいことをどのようにする?いや何故しなければならないのか?そのまま見どころ中心に残酷にとっておいてマーケティング上手にしてスクリーンだけ独占または、たくさん確保すれば興行になるのに何をしようとあえて...."これが忠武路(チュンムロ)興行監督らの中心ではないか?

せいぜい<悪魔を見た>程度のコンテンツを持って最高の有名監督、最高の有名俳優、巨額の投資、その上最高のスクリーン占有率で封切り......こういう奇怪なことが.....起きた。 2010年8月12日韓国で。より一層驚くことは次にだ。わずか3年前、 <ティウォ、 D - war 、 2007 、シムヒョンレ>に批評でない悪意的非難を日常行った評論家らはみなどこに消えたということか?別の見方をすれば韓国映画歴史上初めだった。おとな子供関係なく共に楽しむことができた健全で正しくなされた家族映画が出てきたことが。こういう<ティウォ>にもあらゆるいかにも強情そうな問題点とピナンコリを作り出してそれをいっせいに吐き出して世論を掌握して行ったその優秀な方々が本当に深刻な映画<悪魔を見た>には特別な問題を感じていられないという言葉なのか? <悪魔を見た>に対する韓国映画界の反応は何より企画投資誘致製作配給批評界などを総網羅して韓国映画界の地図を思うままにしている実力者映画関係者らの素養をのぞくことができる良い手本だ。

ポチャンとポチャンと封切りとスクリーン独占の横暴

チャンナラが出演した映画<空と海>はその有名な『ポチャンとポチャンと'封切り論議を呼びおこした。これに関連した韓国映画配給界の深刻な問題点らをすでに忘れたということか?その間韓国映画関係者らがみな固く団結してスクリーンクォーターを守ろうとしたことせいぜい<悪魔を見た>のような低質映画を何と70億ウォンも入れて作って全国の500個以上のスクリーンを独占するようにするためは絶対ではなかったと信じたい。これ以上<长靴红莲>と<奴。奴。奴>で洗練された演出を見せたキム・ジウンはない。参考で筆者は韓国映画を非難するより擁護する立場に立ってきた。キム・ジウンの<奴。奴。奴>が出てきた時アカデミー監督賞に光るコーエン兄弟の<老人のための国はない>きて比較しながら<奴。奴。奴>がはるかに優れると絶賛をしたことがある。こういう状況でキム・ジウンの今回の作品<悪魔を見た>は失望感を越えて背信を感じるほどだ。 <アイリス>にしたリュペウの脈を引き継ごうと思ったイ・ビョンホンの存在はこわれた鏡に映ったゆがんだ姿になってしまった。韓国映画市場を保護するために憤然と起きてスクリーンクォーター死守に先に立った大俳優チェ・ミンシクの素敵な姿もまた、みな乗ってしまった焚き火煙のように精彩いない。忠武路(チュンムロ)がどのようにしてこういう状況まで墜落してしまったのか?

忠武路(チュンムロ)の背信に捨てた韓国観客

この重要な夏休みシーズンに私たちの韓国観客らはまともに選択してみる映画がないと韓国映画界に対する愚痴と願望があふれる。おかげで中途半端な水準の外貨<インセプション>が興行疾走をしているのは韓国映画界の自殺を象徴的に表わしている事件だ。少なくとも夏休みシーズンに<戦友分>程度の映画でも韓国観客の前に出品されたとすれば恐ろしい興行疾走ができたことは誰でも知ることが出来る。全世界的に猛威を振るった<アバター>がさらう間にも<戦友分>きて<義兄弟>がだいぶ善戦するほど韓国観客らの韓国映画社とは相変わらずだった。いや格別だった。だが、忠武路(チュンムロ)はこれに対する恩返しで何をしたのか?この重要な夏休み休暇期に愛する人とせいぜいこのような種類の残酷複数劇であるみたいながら、2010年夏の思い出を作れということなのか?恋人が見て戦いでも起きなかったとすればいっそ幸いだ。 <ティウォ>のように家族皆が楽しむことができる健全な家族映画や恋人どうし見ることができるロマンスメルロムル、または、青少年、学生らが見ることができる映画中ただ一つでもリリースしていなければならなくなかったか忠武路(チュンムロ)は本当に深刻に自問してみなければならない。内容もなくて哲学もなくて美学もなしで単にポルコリ、それもおう吐出てくる残酷なポルコリが前夫人韓国映画。これが2010年の夏の自画像だ。韓国映画の総体的な危機はこのように大股で近寄ってしまった。

韓国での第一等級とインターネットダウンロード時代

韓国映画市場で<青少年観覧不可>だというのが米国やヨーロッパの場合のように厳格に守られているのか?韓国社で形式的には法的な制裁があるが下等の拘束力もなしで覆いだけなのが青少年タバコ購買、公共場所や大人たちの喫煙禁止、 10時以後の青少年ネットカフェ立入禁止、そして未成年者観覧不可映画鑑賞ではなかったか?しかもインターネットダウンロードが二番目に行けと言うなら佗びしい国韓国でこういう規制が何の効果を発揮することができようか?制限上映ということがかえって勲章でもなっているように青少年らの好奇心を呼びおこして興行を促進させるだけということは韓国事情を知っている人は皆知る。だからひたすら'映画従事者らの素養と良心'だけが表現の自由の限界線だと話すのが正確なほどだ。こういう韓国事情を誰よりさらによく知っている人々また、映画製作に参加した当事者らであることは明らかだ。

興行=金+名声

それでも意図的に制限上映等級を受けたことを繰り返して、言論プレイで使っている点は何を意味するのか?かえって制限上映にあわなければならないほど残酷性を入れたことを意図的に浮び上がってノイズマーケティング効果を得ようと思うということだ。他の映画ではとうてい見るのが難しい場面らがたくさんあるという露骨な暗示を与えることでこれを恐るべき興行武器で使っていることを看破できない評論家と観客らもあるだろうか?映画はすでに作られたしとにかく投資金以上は儲けなければならないという切迫感を分からないことではない。映画を作る人が興行を追求するのは極めて当然だ。興行目的ではないならば自分の家に所蔵していれば良いことだ。ところでキム・ジウン、チェ・ミンシク、イ・ビョンホン程度の組合ならばあえてこういう映画を作って韓国社会に深刻な弊害を及ぼす恐れがある方式を選択する必要があったのだろうか?最後ではこの3人の個人的素養の問題で絶対に抜け出すことができないということは自明だ。残りはそれらしい言い訳または、弁解に過ぎない。この現象を最もよく説明するのはただお金の論理、映画界で話す'興行=金+名声'の論理の外に説明する方法がない。

不吉な予想の適中

事実<悪魔を見た>のような映画の出品と大規模上映が韓国映画界に遠からず起きてしまうことだと点はかなり以前から十分に予想していた。ただしその時期が思ったより少しはやくなったことに驚くだけだ。カン・ウソク監督の<公共の敵>を見てからだった。 <トゥーカップス>時期の名監督カン・ウソクを期待して、その映画を見た後どれくらい後悔したかを分からない。本当時間とお金が惜しかった映画であった。 "その多くの遺産を子供に譲らないでせいぜい孤児院に寄贈する。君のような奴が両親なの?"という憎しみのセリフを吐き出しながら自身を生んでくれて育てたお父さんとお母さんを刃物で刺して殺す息子(イ・ソンジェ)を主役で初めて登場させた映画が<公共の敵、 2002 >だ。こういう衝撃的な素材と表現方式を含んでいる映画が大規模上映館を確保して無差別的に大衆に散布されたことはこの映画以前にはなかったことだ。そのような残酷な両親殺害場面を素材としてその方法上では隠喩的に処理することもないまま、赤裸々に露出させた映画がすぐにこのシリーズの初めての方だ。層隔敵素材という件その社会の文化的土台の上で判断すること外にする。孝は人間の根本価値という儒教思想が1000年以上支配して全国だ。全世界で韓国より孝行を強調する国は探す道ない。もちろん西洋でもショキンでに受け入れるだろうが韓国で親父殺害を映画に入れて大規模上映をすることはイスラムを信じるアラブ国家でマホメットを公開的にけなして非難することに該当する。ムスリム国家でマホメットに対する神聖冒涜を公開的にして命がついている人はない。孝行を強調する韓国文化で親父殺害より衝撃的な素材があるだろうか?ヒョの観念を朝鮮時代のように文化的強迫程度で踏襲しようというのではない。親孝行現代に合うように元気に再解釈されることが当然だ。だが、子供が両親を刃物で殺すとは...この程度なら映画関係者たちが"ああしたことまで無難に許されるのを見ると、今はすべてのことがみな解けたんだな"というメッセージに受け入れるようにしたと見ても過言ではない。こういう映画が一度'興行でむくが成功すればそのかんぬきが開かれた効果はそこで終わらない。その後もっと深刻な素材と表現方式が動員されるはずだ。すべての残酷ホラー映画を見ても続編でますます作品性は減って代わりに残酷性はより一層激しくなるのは基本だ。なぜなら一度強い刺激に露出した観客を満足させようとするならいつもさらに強い刺激が必要なためだ。

忠武路(チュンムロ)大統領カン・ウソク監督に

客観的に評してカン・ウソク監督は<シュリ>の、カン・チェギュ監督などと共にハリウッドの攻勢に対抗して韓国映画市場を育てたあまりにも大きい功労がある。だが、彼が韓国映画に及ぼした色々な影響中ですぐにこのような点すなわち残酷な素材と表現方式ですら先導的役割をした点はいくら良く見てあげても失望の水準を越えられなかった。彼が韓国社会に<トゥーカップス1,2>というあまりにも素敵な映画を出品したカン・ウソクだったのでより一層驚いたかも知れない。 <公共の敵>シリーズ物に比べたら観客らがその間皮肉ってきた組織暴力コメディ映画らがはるかにより良い。カン・ウソク監督が先導したこの程度の表現の自由という種が今後どんな実を結ぶことということは筆者はあまりにもよく分かった。そうでなかったとすれば2007年<ティウォ>論議の時韓国映画の歴史を論じながら、 <公共の敵、 2002>を置いて自信ありげに最悪の韓国映画という評価をしはしなかっただろう

<公共の敵>と<悪魔を見た>を詳しく見回してみればその残酷性だけ似ていたのではない。褐鉄中(ソル・キョング)という刑事が警察の本分を捨てて私的な報復をするということさえも<悪魔を見た>の、スヒョン(イ・ビョンホン)が国家情報院職員というものとも似ていた。二つとも悪魔のようなサイコ-国家諜報員(刑事と国家情報院职员) -私的な報復(復讐)の完ぺきな双子構造だ。警察が国家情報院職員で報復が復讐でもう少し専門的で密度が強く進化した。当然さらに残酷無比だった。いやはるかに低質に堕落した。この二映画で登場した警察と国家情報院職員は報復と復讐をさらに容易にすることための職業であるだけで名分とあらわれた報復と復讐はただ残酷性をカバーしようとする防壁の盾だけのことだ。このように<公共の敵>でまかれた種が配給会社のスクリーン掌握で発芽して大衆興行の滋養分を食べてすくすく成長して追撃者(2008年、ナ・ホンジン)という生い茂った枝を育てて、2010年私たちは<悪魔を見た>でその実をすさまじくて辛く味わっている。種に比べては想像もできないクク講義残酷性が表出された。これはキム・ジウン監督が暴力を描いたのでなく韓国観客に映画という凶器で暴力を振り回したのだ。当然最悪の映画は<悪魔を見た、 2010>でバトンタッチされた。事実この程度までどん詰まりに駆け上がった映画が出てくる方法はカン・ウソク監督も想像できなかっただろう。その上に<追撃者>は相当な作品性を整えていてそのような理由に大衆の愛を受けることができた。 ナ・ホンジン監督が<追撃者>で見せてくれた社会的弱者すなわち私たちの社会のマイノリティに対する監督の暖かい愛情が観客らの呼応を得たがキムジウンの<悪魔を見た>はマイノリティはまさにただ虐待とじゅうりんの対象に転落した。監督の哲学的むなしさには残忍と残酷さが一杯になっていることを確認した観客らは嘔吐で答えている。

忠武路(チュンムロ)の明言(名言) :遊べば何をするのか?
つづく
by kazem2 | 2010-09-02 23:02 | kim jee woon