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『悪魔を見た』 評論家の視線 

☆movieweek.co.kr
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ひとまず一つ偏見に対して確かめて行ってみよう。
ひどく残忍な場面を入れたのが、人々の関心を引いて興行に役に立つようにしようとする意図だったとの話がある。一種のノイズマーケティングを通じてイシューを作って人々の好奇心を刺激しようとしたということだ。だが、この頃がどんな時代なのか。ノイズマーケティングで序盤に観客を引っ張っても、いくら広報バイトをインターネットに敷いても、 1週間もまだならなくてうわさはみな広がる。低予算映画や認知度が弱い映画ならばノイズマーケティングを通じて名前を知らせることが必要だが<悪魔を見た>のようにA級監督とスターが出演する映画ならば状況が違う。

一般的に1,2の場面で残忍だったり派手でけばけばしい場面を入れて観客を糊塗するのは可能だ。だが、一貫して古語場面を押し進めるのは、商業的な面ではかえって逆効果だ。かえって多数の観客が不快感を感じて、暴力場面に集中するのが難しくなる。すなわち、 <悪魔を見た>は興行を考慮したとすれば、当然古語の水位を下げなければならなかった。それがはるかに観客を没頭するようにさせて、ゆっくり観覧するようにしただろう。だが、キム・ジウン監督はそうでなかった。なぜ?

真の悲劇で案内する

<悪魔を見た>は明らか不快な映画だ。いや多数が不快さを感じるほかはない映画だ。軽鉄(チェミンシク)という人間はとうてい人間だと見られない。今は誰でも分かる'サイコパス'という話に完全に一致する人間だ。他人に対する憐憫や感情移入が不可能な、良心と罪の意識が全くない人間。軽鉄に人という存在は事物やコ襟塊と全く同じだ。必要な時使って捨てる。気が向き次第料理して食べる。サイコパスは、この頃韓国映画にもかなりたくさん登場している。 <公共の敵> ( 2002 )と<追撃者> ( 2008 )の殺人魔やはりサイコパスであった。ところでなぜ<悪魔を見た>の軽鉄を見ることが唯一不便なことであろうか?単にとても残酷で。

<追撃者>にも人の頭を情や槌で打つとかという残忍な場面らが出てくる。だが<悪魔を見た>のように不快だという反応は多くなかった。かえって殺人魔を追って攻撃する主人公チュンホ(キム・ユンソク)に共感した。残忍な暴力が登場しながらも<追撃者>は観客と照応できる感情的同船らを適切に配置した。犠牲者の娘、無気力な警察、チュンホの切迫した心情等等。 <追撃者>を見ながら観客はチュンホを応援することになる。どうにか犯人をとらえて人質を救出することになることを望むことだ。

だが<悪魔を見た>はどうなのか。婚約者を失ったとはいうが、観客が見るのにスヒョン(イ・ビョンホン)はますます奈落へ向かっている。スヒョンは誰との関係も拒否する。フィアンセの家族にも、単に自身がすべき仕事をすると話すだけだ。怒りや意志を共有するのではなく、徹底して単独で耐えて行動する。観客にも自身の感情を投射しない。その上スヒョンには正当さがない。 <追撃者>の警察はあまりにも支離滅裂になる。 「チュンホが動かなければ女が死ぬ」という切迫することに観客が同意する。それで彼が何をしようが、彼を応援する。

<悪魔を見た>の警察は愚かでない。軽鉄はすでに容疑線上に上がったし、スヒョンがあえて動かなくても捕えられただろう。かえってスヒョンのために軽鉄がさらに多くの人を殺して、スヒョンに残っている全てのものを奪い取ってしまう。すべての責任はスヒョンにいる。スヒョンに遺憾を感じることはできるが、彼に共感したり応援を送るのは不可能だ。 'フィアンセに対する復讐'というもの他にスヒョンという人物の行動はどれも正当でない。 <悪魔を見た>が不快に感じられる理由は、スヒョンという人物の誤った選択と行動で起因する。

「悪魔を見た」という題名は衆議院的だ。直接的に悪魔は軽鉄だが、観客が見るにはスヒョンやはり悪魔に成っていく。深淵を覗いて見て捕われてしまう話はあまりにもなじむが、 <悪魔を見た>はそのような典型で少し櫛を入れて行く。悪魔と戦うこれらはある瞬間自身が似通っていっていることを悟って苦悩する。あるいは捕われて完ぺきに堕落して行く。だが、スヒョンはそうできない。自身を見て回らなければならない瞬間ごとに軽鉄が邪悪な悪魔であることをまた悟ったりすでに自身が帰ることができないということを知ることになるためだ。キムジウン監督はスヒョンを完ぺきな闇の中に押込む。

最後まで走って行くほかはないように状況を作ってしまう。その上そのすべての結果は結局スヒョンの選択から始まったのだ。スヒョンが初めて軽鉄に会った時殺してしまったとすれば、世の中は相変らず地獄かもしれないが少なくともスヒョンの周辺だけはしばらく楽園になっただろう。だが、スヒョンのものすごい怒りと復讐心が結局は全てのものを地獄火に投げてしまった。スヒョンは悪魔ではないが、私たちが見るのは結局悪魔でそれこそ<悪魔を見た>を真の悲劇で作る理由だ。キム・ジウン監督が願ったことは自身の高潔な意志のために全てのものを破局へ推し進める悲劇だった。

世の中の本質として暴力を描く

<悪魔を見た>は地獄道だ。私たちが見ているのは、どうにか悪魔だ。もちろん『あえてそこまで残忍に描写して状況を推し進める必要があったのか』という質問も可能だ。だが残酷な暴力を排除したり緩和したとすれば、 <悪魔を見た>は全く違う映画になっただろう。軽鉄の悪魔性はどのようにあらわれるのか。軽鉄という人物の全てのものは徹底して暴力で描写される。 <悪魔を見た>は軽鉄の暴力がスヒョンの暴力を呼びながら暴力の連鎖反応につながる。ところでスヒョンは国家情報院要員だ。すなわち、公認された暴力を行使できる、それも最も上位の人間だ。

反面<追撃者>の、チュンホは一時警察であって「报道方」事業主になった、今は孤独な人になって生存するために暴力を振り回す人物だ。スヒョンとチュンホの位置蹴られることの天と地ぐらいだ。普通の人で脱落したチュンホが選択できる唯一の手段が暴力だったら、スヒョンは自身の地位と能力を最大限活用できる方法で暴力を選んだのだ。初めから正道をはずれた暴力が、 <悪魔を見た>の全てのものだった。

一つ訊ねたい。本当に不便なのはいつであったか。ちりぢり小さく割れた女性の肉体を見た時なのか、スヒョンが軽鉄のアキレス腱を切り出す時であったか。あるいは軽鉄が死んだフィアンセのお父さん頭をアレイで打ち下ろす時であったか、スヒョンがまた他の殺人魔のあごを取り壊す時であったか。もちろんすべての暴力が不便なこともある。だが、スクリーンに描写される暴力が不便ならば、 <悪魔を見た>を見なければ良い。暴力を直接的に描写しないスリラーもいくらでもある。

<悪魔を見た>は暴力を意図的に、直接的であり極端に表わす映画だ。すなわち、暴力がこの映画の最も重要な部分だ。ただし暴力に対する方式はよく話「顧問映画」とは違う。古語場面の効果に重点を置く顧問映画とは違い<悪魔を見た>は暴力を世の中の本質として描き出す。よく選果悪と考える、加害者と被害者そして殺人魔と刑事(国家情报院要员)が行わなければならない極度の暴力を通じて世の中の極限まで走って行くことだ。

だが肝に銘じなければならないことがある。私たちが<悪魔を見た>で見る暴力は、この世の中に存在する暴力の一部分であるだけで決して最も激しい程度ということもできない。私たちが数えきれない程ニュースで見たことだ。そして報道されなかった暴力らはより一層多い。何人を殺しても、彼らは監獄に入ることで補償するだけだ。その時被害者が、犠牲者の家族ができることは何があるだろうか?

容赦? <おじさん>が暴力のファンタジーを見せるならば、 <悪魔を見た>は暴力の凄惨な悲劇を見せる。暴力を通じて得ることができるのは何もない。得るどころか全てのものをなくすだけだ。だが、世の中にはそれを選択するほかはない、スヒョンように同じ人らもある。冷遇したいが、人間の世の中を支配する強力な法則はやむを得ず暴力である。
by kazem2 | 2010-08-29 10:21 | kim jee woon