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by kazem2
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[電影ゲクジャン]勝者の敗北  最後の場面を中心に見た「苔」

☆CINE21.com
最後の場面を中心に見た、この「苔」を語る
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(私が以後<苔>と呼ぶ作品は全部カンウソクの<苔>だ) 。
<苔>を見て最もいぶかしかったり、不便だったことはやはりそのエンディングだった。
これはその反転が原作を傷つけたためでなく、 「映画内的」でどんな背信を与えているためだ。それが立派な反移転されるためには私たちが映画を見ながらもそこまで発見できなかった事実(またはかくされた真実)を悟ることになる時感じるどんな快感が伴うはずだが、 <苔>はそういう体験が不可だ。なぜなら<苔>の反転は内容でなく結論が反転するためだ。それでもそのエンディングがどれくらい空しいことか証明するためにこの文を書くのではない。私が<苔>のエンディングに注目するのは、それが単純な反転や四足、または、原作を修正する過程でやむを得ず挿入された場面でなく、かえって<苔>が原作を変奏できた土台がすぐにこのエンディング場面にあると感じたためだ。

私はウェプトゥンの<苔>を見て、映画<苔>を見た。その後私は<苔>に対するナムダウンの評論を読んだし、キム・ヨンジンとカン・ウソクの対談を読んだ。なので私は映画封切り前にすでにウェプトゥン<苔>を読んだ読者、別に話して(映画の中のセリフを借りようとするなら)私はすでに赤い色、青色、黄色などの色で汚された画用紙で、そのために完全な'白纸'状態で<苔>に対して文を書くことは初めから不可能だ。私はあえて白色画用紙になるために努めるよりは、必要ならばウェプトゥン<苔>を参考にしながら<苔>のエンディングに接近してみようとする。これは<苔>を原作と比較してどんな質的評価を下すためにでなく、エンディング場面の含意をより鮮明に表わすためだ。多少帰ることはするが、それはあくまでもエンディングに向かった旅行日程だ。

遊牧型に許諾されないこと<苔>を見て最も変だった点はリュヘグク(パクヘイル)をリュ木型(ホジュノ)の息子と規定しようとする反復的態度であった。常驻役割をするリュヘグクにキムドク川(ユヘジン)が投げた冗談、なので'ホジュノ'と'パクヘイル'を同じような外見なお父さんと息子といった時、私はそれがそのままユーモアに過ぎないと思った。ところでその後リュヘグクを単純な息子でない死んだリュ木型の生きている帰還のように規定しようとするセリフ(死んだリュ氏が帰ってきたとか、その親父にそいつとかする)が反復的に登場する時それはこれ以上冗談でない。 <苔>が原作の主要セリフをそっくり借用していることを考慮するならば、このように新しく使われた使が同じ内容を繰り返すという点は簡単に行き過ぎる問題ではないようだ。また、十分な情報であるのにそれが反復されるということはその過剰の中にどんな目的があると外に見られなくないだろうか。原作と比較してみよう。原作ではその末にリュ木型がリュヘグクを自身と同じ奴であることと話す場面が登場する(英知の回想場面でもある) 。すなわち、リュヘグクをリュ木型の息子と規定するのはすぐにリュ木型自身であり、これは村の秘密を掘り起こすことができた究極的動力が二人の類似性(または、同一性)にあったことを「事後的に」表わす役割をする。お父さんの反復としての息子。

だが<苔>は二人の関係がリュ木型でない、ハソンギュ(キムジュンベ) 、ジンソクだけ(キムサンホ) 、キムドク川などの口で発火する。これは二人が父子関係という事実が村の人々のどんな'根性'を触ったとのこと程度で還元されることはできないどんな問題を提起するという意だ。これは原作になかったまた他のセリフの挿入と関連になる。村の人の中の一つがリュ木型に、"罪、罪ちょっとやめて下さい"として問い詰めるセリフ。 <苔>はリュ木型が村の人々にどんな罪の意識を想起させる存在という事実と、それでリュヘグクやはり首に吊るした可視のように不便にならざるをえなかったということ、そしてそれが彼らでとってリュヘグクを殺そうとする行為に追い出したという事実を原作に比べてさらに強調している。もちろんリュヘグクが村の人々の罪の意識を触ったという設定は原作でも類推可能になることではあるが、カンウソクはこれを映画表面上に見て積極的に引き上げようとする。ところでここで注目しなければならないのはリュ木型が彼らを救援しようとする行為が彼らを救援するどころか彼らの罪の意識を刺激しながら救援とは違った道で彼らを引き渡しているということ、そしてこれによってリュ木型の能無しと自分の錯覚(自身が神と同じ存在になることができるだろうという錯覚)がより一層浮び上がるという事実だ。リュ木型に対してだけはカンウソクが原作のユンテホよりはるかに冷静で苛酷だ。

このような変奏に対して善と悪、神と悪魔、救援と復讐、加害者と被害者などの両極端的警戒(境界)を曇ってしようとする原作の意図をもう少し強化したこと程度で還元することもできるだろう。ところでリュ木型を変化させた理由が単にその程度ならば充分なことであろうか?ひょっとしてさらに大きい絵の一部でそういう変化を位置づけるのは不可能なことであろうか?私たちはリュ木型の救援に向かった行為が村の人々の罪の意識を刺激するアイロニー程度で<苔>の変奏を還元してはいけない。なぜならこれと関連した最も重要な変化は映画で'最も大きい絵を描く主体'が変わったというところにあるためだ。カンウソクは原作でリュ木型に最も核心的だった設定の中の一つの'自杀训练'を削除する。その結果、リュ木型は自ら死ぬことによって息子を呼称してそれ(彼)にとって村の秘密を暴くようにした主体の席で強制退却される。 <苔>のの、リュ木型はこれ以上'最も大きい絵を描いた主体'ではない。カンウソクが見るのに、その席の主はリュ木型になれないことだ。脚色過程で削除された内容がリュ木型と関連したことで終わるのではないが、私にリュ木型と関連した変化は他の変化らをささいにさせる程重要なように見える。なぜならこれはその場の新しい持ち主で英知を指名するための先決条件であるためだ。カンウソクはリュ木型が(原作と違い)完全に『失敗した理想主義者』で最後まで残ることを望む。それならここで提起しなければならない質問はこうしたことだ。なぜリュ木型に許諾されることはできないその場が英知には許諾されるのか?カンウソクが英知にその主体の席をプレゼントして具体的に願うものは果たして何か。

質問に対する答えを探すために一つずつ解いていってみるようにしよう。私が<苔>で堪え難かった場面の中の一つは『苔』の意味が直接的に提示される瞬間だった。なぜなら私はウェプトゥン<苔>を読みながら苔という題名をそのような意味と解釈できるだろうと考えることができなかったためだ。私はウェプトゥン<苔>の題名が具体的などんな意味を持つというよりはヌアルジョク世界に似合う陰湿だということでも冷たさ、非情だということなどの情緒を実現すると考えてきた。反面<苔>はパクミヌク(ユジュンサン)がリュヘグクに冷笑的に吐きだす"ぺたっとうつ伏せになって生きて。苔のように。静かに"ということで苔の意味を具体的に規定しようとする。カンウソクのこのような解釈がウェプトゥン<苔>きて関係がないと断定することはできないが、原作とはある程度距離をおいた解釈であることは明らかなように見える。誤解はするな。私は今原作と比較してカンウソクの解釈が違ったと話すのではないから話だ。私に重要なのはそれがウェプトゥンと多少関係がない解釈のように見えるという事実にあるのではなく、 '苔'を一つの具体的意味と規定する時それが映画でいかなる役割を一手に引き受けるのか、することだ。

苔のような人生言い換えるが、カンウソクに苔という人生の一方式だ。私なりにそういう生き方を解釈するならば、それは目をとじて、耳をふさいで、口閉じたまま適当に現実と妥協して生きる人生だ。そうでなければ平たくうつ伏せになって自身の存在を隠したまま静かに生きていくということは不可能なためだ。 <苔>で最も苔らしい生活を送っていく者らはもちろんハソンギュ、ジンソクだけ、キムドンチョンだ(表面的にだけ見れば英知やはりここに含まれるはずだ) 。彼らは苔のように生きながら彼ら人生に最高の平穏さを味わっただろう。私は彼らが村に定着した後適当にリュ木型をだましながらチョンヨンドクと隠密な甘さを味わう一連の回想シークエンスが映画で最も平穏な瞬間だったと感じた(リュ木型が投げる救援に関する質問は彼らから苔としての平穏な人生を奪い取ることだ) 。ちょっと見れば、苔の存立基盤が岩のように、苔としての人生を回っていくようにするのはチョンヨンドクのように見える。だが忘れてはいけないのはそういう人生の開始と終わりがチョン·ヨンドクならば、それを可能にした人がすぐにリュ木型という漸移だ。カンウソクは苔に対するこのような定義の中に最も現実的な私たちの生活を話そうとする。苔としての人生を俗物的な人生だと呼ぶこともできるだろうが、概して多くの人々が本当にそのように生きる。キムヨンジンがカンウソクとの対談( <シネ21 > 761号)で指摘したように、映画の人物らに日常的質感らがより増しながら原作に比べて現実的な人物のような感じがさらに強化されたように見える。

チョンヨンドクが村を建設するのにリュ木型を必要としたことやはりこのような脈絡で理解するはずだ。苔としての人生が持つ平穏なことはこの二つが共に作用して作り出した外観の中だけで維持されることができる。もちろんこういう反論が可能だ。その外観が平穏に見えるにしても、その中は腐っていないかと話だ。それに対する私の返事はすぐにそのように分裂した人生が苔としての人生それ自体というものだ。苔同じ人生の最上バージョンはリュ木型の原則を大義上の名分で前に出したまま、その裏面にチョンヨン徳義原則を不文律で結合することだ。リュ木型の原則が私たちの首を固く締めつけるならば、 (それの違反として)チョンヨン徳義不文律は呼吸をする穴を開いてくれることで、リュ木型が表面に現れた法の世界ならば、チョンヨン徳義原則は見られなくひそかに維持されなければならない。チョンヨンドクとリュ木型全部このような事実をどの程度知っていたが(そのために二人は手を握ることができなかったのだろうか) 、リュ木型は自身の象徴的地位と役割を実在的だと勘違いして、チョンヨンドクは自身の人生の原則を見せない領域に留まるように放置していない。

リュ木型とチョンヨンドクがコインの両面で機能する時だけ苔の平穏な共同体は建設されることができる。リュ木型が自身の実在性を主張することでも、チョンヨンドクが天下に自身の存在を表わすのは自分たちの終末を操り上げるだけだ。それならこのような苔のような人生を話すカンウソクの現実認識は何だろうか?このような苔のような人生自体が問題というものなのか、でなければリュ木型が象徴的な死(チョンヨンドクを害しようとしたが失敗した事件は彼の能無しが暴露される象徴的死の場面だ)を迎えた以後、チョンヨンドクで代弁される不文律がリュ木型の席を代えたまま自身の地位に固執する伝導(転倒)した世界が問題というものであろうか?エンディング全(前)までに限定するならば、カンウソクは苔としての人生自体を否定すると話すはずだ。

リュヘグクの激情的な吐露を記憶しよう。私は苔のように生きることはできないです、という。 (原作の内容を土台にするならば)リュヘグクがそのどの所でも歓迎されることができない異邦人にならざるをえない理由は不文律の世界を受け入れることができないためだ。たとえば異邦人を分類する最も良い方法を考えてみなさい。彼らが成文法はよく分かるにしても不文律まで従うのは難しいことだ。それで彼らはバカ正直にふるまう。リュヘグクがぴったりそのパートナーではないか。なので苔のように生きられないという彼の吐露は私はまったく不文律に従うことはできないです、というものと違わない。パクミヌクが'あなたは過ちがない』で免罪符をくれる時、それでこそ不文律を拒否したままそれなりの勝利をおさめたリュヘグクを励ます時、カン·ウソクはこのような苔同じ人生の偽善は止まらなければならないと話すように見えた。しかもリュヘグクを助けて事件を共に解決したパクミヌクやはり(検査世界では)苔のように生きて不文律を破ってしまって蓋果川善良な者ではないか。ところでこのような結論はそのエンディングでひっくり返ってしまう。

お父さん(入る)の復活<苔>のエンディングで一番最初に関心を引くのはリュヘグクの顔全体をかばうどんな情念の表出だ。ところで私はその表情が過剰なように感じられた。これはパクヘイルの演技が過剰という意でない。今までリュヘグクが観客を媒介する役割を遂行したことを考慮するならば、情念が表出されるこの瞬間観客とリュヘグク間にはどんな間隙が発生する。リュヘグクはどんな実体的真実を悟ったような表情をつくるが、観客はその真実に到達できない。もちろん観客やはり映画で最も大きい絵を描いた人が英知だったことを知ることになるが、その絵が何かは相変らず手で捕えられない。リュヘグクの顔にあらわれた情念は観客にいちはやくその間隙を満たせとの一種の命令であるわけだ。カンウソクの表現を借りようとするなら、それは"観客との戦い"だ。カンウソクがどんな意味でそのように言ったのか正確に分からないが、エンディングに登場する視線の交換はカンウソクの映画で無数に反復されたその特有の直接話法に相応するショットの構成であり、これは彼が観客に積極的に何かをいおうとするという意味のように見える。

それなら私たちはこの間隙をある内容で満たすべきか?なのでカンウソクはどんな絵を描いておいて観客と戦っているのか? <苔>で最も大きい絵を描いたこれは二度話すこともなく英知に明らかだ。ナムダウンが正確に指摘したように( <シネ21> 765号) 、 "英知は大きい打者(タイプ)が不在するという事実を耐えることができない。 "だが、ナムダウンと私が分かれる地点はすぐにその次文章にある。ナムダウンは英知が、"救援 =復讐という事実を信じたくない"と話す。そのために英知はリュ木型で代弁される先限お父さんの幻想を守るために戦ったしそれを守ったと話す(ナムダウンはその戦いを通じて編み出した新しい共同体が成功できることが出来るかに対しては悲観的だ) 。だが、英知が苔のように生きながら感じた人生の真実は救援と復讐がコインの両面という事実でなかったのだろうか?なので英知は二人のお父さんを見たことでなく、それがあるお父さんに内在した二種類の姿という事実を悟ったのではなかったのだろうか?英知が最も大きい絵を描くことができたことはこのような悟り以後にでも可能なことではなかったのだろうか?

私は英知が'チョンヨン徳義方式'で'リュ木型が夢見た世界』を建設しようと思ったと言いたい。英知に救援を与えた人がリュ木型で。英知のために復讐した人がチョンヨンドクであったという事実と関連させて話すならば、これは複数を通じて救援(旧怨)を完成することとも話せるだろう。もちろんこういう疑問が可能だ。リュ木型が'目には目、歯には歯'を前に出して英知を強姦した者らとチョンヨンドクを処罰しようとしたことは復讐ではないか?なので英知がチョンヨンドクに復讐することやはりリュ木型の方式でないか、する疑問話だ。だが、リュ木型が'审判'だと呼んだのを英知は'复数'と呼ぶ。シニなろうとしたリュ木型が'チョンヨンドクを通じて'英知を強姦した者を審判しようとしたとすれば、英知は'リュヘグクを通じて'自身を強姦した者に復讐する。それが過去を清算するために英知が描いた絵だ。リュヘグクがお父さんの焼身で、 (ナムダウンの指摘のように)彼を通じて死んだお父さんがさらに強力な名前に戻ったと話せるならば、これは英知にあってリュ·ヘグクがいつのまにかチョンヨン徳義席に入っているから可能なことだ。そのように英知は(リュ木型の教えのように)自らを救援する。

ところでこの絵は単に過去を清算することにだけ限定されない。英知は新しい共同体を実現させるところだ。だが、英知から到来する世界は二つの人物に具現されたお父さんの原則が英知という人物一つで統合されただけ、究極的に変わったのがないように見える。なので英知はお父さんの席で『お父さん-法でありそれの違反でもある存在』として位置している。英知を通じてお父さん(入る)はさらに強力な名前で復活するだろう。もし英知がこのような結合体としてその場に立っていることならば、それは苔としての人生以上のその何を可能にすることができるだろうか?結局最終勝者は苔としての現実的な人生の原理だ。苔としての人生は悪いが、それが伝導した形態、なのでリュ木型が自身の実在性を主張したり、チョンヨンドクが自身の存在を表面の上で固執するのはさらに悪い結果を招く。この時、私たちは'さらに悪いこと』を避けて『悪いこと』を選ぶ。このような面で見ようとするなら、 <苔>は以上を指向するが息の根を固く締めつけるお父さんと、猥褻的だが私たちの窮地を救うお父さん中あなたは誰を選択するのかを尋ねる映画ではない。 <苔>はこのようなお父さんの両極端の共存が私たちが生きる現実世界の存立基盤ならば、あなたはこの世界の中でどのように生きていくのかを尋ねる。もちろん英知の視線の中にはその質問と応答が共に存在する。

その質問の有効性にもかかわらず、私はこの反転が不便で空しく感じられた。ここで発生する最も大きい問題はエンディング以前に自身がおりた結論を一挙に無効にするところにある。なぜならこのような反転はリュヘグクが死を辞さないながらも解決しようと思った全てのものらを元の状態でまたひっくり返すこと(熱心にひっくり返したことをまたひっくり返す事態)であるためだ。これはエンディング以前まで勝者であった自家敗者で没落する瞬間であり、今まで観客がついて行って応援した全てのものを無為に飛び散ることになる。自身が否定したその世界がまた再建されるのを眺める時の空しさこそリュヘグクの顔をかばう情念の原因だ。 <苔>エンディングの反転は内容を反転させるのではなく結論と主題、そして彼と関連した現実的人生に対する態度までも一気にひっくり返した。

文:アン・シファン(映画評論家)2010.08.19
by kazem2 | 2010-08-20 23:10