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映画「悪魔は見た」残酷な暴力描写 その凄じい むなしさ

☆CINE21.vo
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復讐の叙事はそんなに簡単分だけはしない。 当てられただけ返そうとするなら必要な苦痛の比較はどのようにすべきか。 どこで止まるべきか。 <悪魔を見た>の、キム・スヒョン(イ・ビョンホン)は、愛するフィアンセを一部分殺害した病的な連続殺人犯チャン・ギョンチョル(チェ・ミンシク)に死刑はとても寛大で無期懲役は過度にのんきな儲けと判断する。 それでできるだけ長時間多い量の苦痛を与えるという私的評決をおろしてきっぱりと執行する。
国家情報院警護要員らしくGPSカプセルを利用してチャン・ギョンチョルの一挙手一投足を把握するスヒョンは、チャン・ギョンチョルが強姦と傷害を犯す現場ごとに現れて死なない程度傷つける。 そして次の報復まで持ちこたえられるようにお金まで刺して消える。 スヒョンの怒りはあまりにも熱くて真犯人が誰なのか分からない時も容疑者らを訪ねて行って厳しく暴行して自分の足で警察を訪ねて行くようにさせる。 どうせ悪人らであるから。 <悪魔を見た>のライバルの二つの人物は対照的だ。 キム・スヒョンは高度で訓練された戦闘力と節制された話と表情、整然な動きを見せる。 反面チャン・ギョンチョルはどんな特別な戦略的頭も傑出した肉体的能力もない鈍重なからだの中年男だ。 お決まりの悪口を口について生きる彼の最も恐ろしい武器は肺一言と駆け寄る手のつけられない状態暴力性と予測不許可するということだ。 彼は考えということを全くしなくて息がついている犠牲者の悲鳴で喜びを感じる。

今まで多様なジャンルを巡回したキム・ジウン監督は、<甘い人生>から該当ジャンルの可能性を減少するというよりジャンルを代表するアイコン的イメージを吟味する映画を作った。 彼の演出が蘇生するジャンルが、途上の支配を受けないコメディであることも偶然でない(虚を突くブラックユーモアは相変らず彼の長所なので<悪魔を見た>行って面白味をあたえる部分もそのような大きな課題だ). キム・ジウンの才能は<静かな家族>でも<長靴、紅蓮>のように映画的空間が‘家’一時安定的に発揮される。 <甘い人生><良い奴、悪い奴、おかしな奴>(以下<奴奴奴>)のように追撃の叙事が結びつく場合、キム・ジウン監督はとても漠然として中身が空っぽの抽象的目標を唯一の動力に設定して映画が自動機械のように動くようにする。 <悪魔を見た>は特定ジャンルを念頭に置かなかった映画で話の動力が復讐という鮮明な内容を持っているが追撃のサスペンスが薄いのは同じだ。 代わりに入るのは舞台化された暴力の連鎖だ。 チャン・ギョンチョルは続くシークエンスでぞっとするように合っても安い悪行を繰り返して犯してスヒョンに罰を受ける。 そしてスヒョンではなかった後犠牲者に応戦の暴力を行使する。 スヒョンは必ず誰かがチャン・ギョンチョルに被害をこうむった次に現れるが、彼がチャン・ギョンチョルを当初から監禁して拷問しないものは変なことだ。 相次ぐ流血の風景の中にはパク・チャヌクの復讐3部作に向かったことの意図的目くばせがある。 <復讐者に憐みを>に登場した革命を夢見る武装団体とアキレス腱、<オールドボーイ>の天使翼と舌、<親切なクンジャ氏>のセックスと遅い報復を観客はまた会うことになる。

他人の苦痛に対して共感したり想像する能力がないサイコパスと彼の敵対者には別に動機が必要ないのかも分からない。 それを意識したように映画にも“完全犬サイコだね。” “及ぼしたの?”のようなセリフが反復的に登場する。 しかし彼らが処した状態と個別状況の動機は納得しなければならない。 これにチェ・ミンシクとイ・ビョンホンは写実主義的演技を努めて堅持する。 イ・ビョンホンは目下震えまで調節する程感情を細分してチェ・ミンシクは存在感と技巧を発揮する(ただ、チェ・ミンシクには彼が空っぽの目を決して持つことはできない習えとの難点がある). アクションが中心の映画には<悪魔を見た>のショットは俳優の顔に大きい比重を置く。 それでも悪魔性と復讐に対する概論を同語繰り返すセリフは俳優らを助けることができない。 ジャンル的にホラーと最も近いこの映画で推理過程は重要ではないか分からなくない時で分からなければならない情報を分からなかったり分からなくなければならない情報を分かるように動く人物らの同線は没入を邪魔する。

キム・ジウンは“なぜ?”という質問より“どのように?”という質問を好む監督だ。 <悪魔を見た>で‘どのように’の関心は奇抜な‘形’の考案に集中した感じだ。 この話は他人の命と尊厳性を場襟言葉で三隠ゲームに飛び火するが、これはジャンル映画の中ですら乱用されれば面白味が半減する危険な設計だ。 <悪魔を見た>では典型的なセリフと作為的状況が窮極的に揮発性刺激のために配列されたと見られる。 ぞっとするが本当の一端を見ているという考えも、エンターテイメントを楽しんでいるという気分にもならない。 <悪魔を見た>の悪魔は残酷な暴力描写でなくその効果の凄じいむなしさだ。

文:キム・ヘリ 2010.08.18
by kazem2 | 2010-08-18 16:29 | Comments(0)