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映画「インセプション」 この複雑な映画に引かれる理由

☆issue.media.daum.net
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   解体されるほど強くなる因果関係に対する欲望











[ OSEN =チョントクヒョンの四角い世界]

<インセプション>を作ったクリストファー・ノーラン監督は恐らくエッシャーの絵らあるいは映画の中にも出てくる'階段の家'に深い印象を受けたのが間違いない。エッシャーの絵らをしばらく見つめていれば持つようになる感じら、すなわちどれが本物でどれがにせ物かが不明なのはその境界があたえる瞬間的な当惑感と解放感をこの映画はよく引き出しているためだ。 '階段の家'が上昇と下降という流れを無化させてしまったように、 <インセプション>という映画は夢と現実という境界を解体させる。

映画が見せる場面らでも進行される方式がとても複雑に感じられるが、事実この映画のストーリーはそれほど複雑でない。誰かの夢の中に入ってそのモリッの中に隠された事実を引き出す仕事をするコブ(レオナルド・ディカプリオ)は過去のどんな事件のために現象手配されて家へ帰れずにいるが、富豪であり影響力があるサイトウ(渡辺謙)が現れて彼に一つ提案をする。ピショ(キルリオンマーフィー)の頭の中に考えを植え付けるならば家へ帰れるようにしてくれるということ。それでコブはチームを組んでピショの夢の中に入るのに無意識によって簡単に発覚しないために夢の中の夢で何段階をより多くいる。

夢に対する話だから夢が可能にするその非論理性はどんな解放感を与えながらも見る人を混同に抜かす。その上単純に夢一つで浸透して入るのでなく、夢の中の夢を何と五段階も入るから話はさらに複雑になる。最初の段階の現実で二番目段階の夢に入ってバンに乗って銃撃戦を行って、その過程でまた三回目段階の夢の中背景のホテルに入る。そしてそこでも再び四回目段階の夢の雪の中のこの頃に入って最後の五回目段階のリンボ(無意識の底辺)まで入るこの一連の過程はそのアクションと一連の驚くべき場面らの連続で退屈な隙間を与えないけれどその一方であたかもあの'階段の家'を目で追うように混同を与える。

しばらくの夢の夢の中にずっと掘り下げてみるならばいったいどれが夢なのか現実なのか把握しにくい状態にまでなることになる。現実と夢を混同することになる頃、それの真偽を知らせることができる唯一の装置はトーテムだ。駒のようなコブのトーテムはそれを回した時、万一、夢ならば永遠に止めなくて帰る。夢という自由自在の想像力の空間の中を闊歩しながらもこの映画がみなぎる緊張感を維持する理由はまさにここにある。 「ひょっとしてこれが現実ではなくて夢ならばどうするだろう? 」というその恐れの中で人物らは任務を遂行していって各々現実に抜け出すためのありったけの力をふりしぼる。いわゆる'キック(夢の中で目覚めるようにする装置) 'の時間に没頭することになること。キックはアリアドネー(映画の中の夢の設計者の名前がアリアドネーであることは偶然でない)の糸の絡み合いのようにこの夢の迷路から抜け出すために必ず握っていなければならないことだ。

この夢と現実を区分しようとする欲望は映画の中人物らだけの話ではない。こういう人物らの話を眺める観客の立場やはりどんなものが現実でどんなものが夢なのかが明確ならばという欲望でこの映画を眺める。映画は夢が持った空間の力で因果関係らをむやみにかき混ぜておくが、それでなおさらそれを眺める観客の前後前後の事情を構成しておこうとする欲望はより一層大きくなる。前段階の夢で見た小さいオブジェは次の夢で他の形態で現れるが、そこに対して映画が何の詳しい説明をしなくても観客らは自動的にそれを連結して考えることになる。

精巧な論理的装置で解体されただけにの因果関係を観客らが自ら連結しようとする欲望に苦しめられてみるならばいつのまにか映画の最後の瞬間に到達することになる。そしてその部分で明確になったと考えられる因果関係、夢と現実はまた五里霧中状態に変わる。夢と現実を知らせるトーテム駒がその真偽を知らせることができなくて帰る状態で映画が終わってしまうから観客らは絶えずこの驚いた監督が構築しておいた'階段の家'を循環してぐるぐる回って夢と現実に対するそれなりの解釈らを出すほかはない。

これは'インセプション'という映画だけが持った観客を引き込む独特ながらも強力な魅力になる。あたかも' A特攻隊'や『マトリックス』を見るようなジャンル的面白味がその面白味の根幹を作り出しながらも、その上に夢と現実を混同させることで作り出した複雑な因果関係は観客にとって結果に合う原因を尋ね歩くようにさせる。それだけ私たちの考えが持った因果関係の欲望が大きいという話だ。論理に合わない場面や絵が登場した時、その当惑するということを私たちはそれなりの因果関係の輪で縛る。ホテル場面で無重力状態でアクションを行う非論理的な場面を見ながら『そうだあれは前段階の夢で今バン(車)が橋の上で下に落ちるその状態であるためは』と考えるように。

だが、どこ世の中のすべてのことらがどうして因果関係で編集されられているだろうか。映画を見に行く前誰かは突然再び真中で広がった自動車事故を目撃したかも知れない。その衝撃的な事件と映画を見ることには何の相関関係がない。ただ広がった事件だけのことだ。だが、私たちは本能的にこの二それぞれの事件を構成して一つの話で構成しようとする欲望を持つようになる。これは数多くのカットらとシーンで事実はぷつんと切れているフィルムらが一つで編集されて話を構成する映画という装置の最も根源的な作動原理でもある。そのような面で見れば驚いた監督はすぐにこの点映画が持った作動原理を映画的な文法を持ってひっくり返す試みをしたのだ。あたかもエッシャーが描いた'階段の家'のように話だ。

だが、この試みの完成者は驚いたこの違って観客だ。観客はこの混同の映画の中に入って映画が論理としてかえって解体しておいた幻想的な場面らに当惑するとしながらも、映画を見にきた者としてなじむ因果関係構成することの努力を通じてかえって夢と現実を区分しようとする努力自体が無位に達するということを知ることになる。すなわち誰か眺めなければ何の意味もないこの'インセプション'という内的論理の世界は、それを眺めた観客らによってはじめて完成されているということだ。このように複雑な映画(事実は複雑に見える)にこのように多くの観客が入ったことはすぐにこういうこの映画だけの独特の作動方式のためだ。私たちは映画を見て驚くべき場面に当惑して、その当惑するということを越えるために絶えず因果関係を自ら作り出して、ある瞬間それが無意味だということを悟って劇場を出ることになる。万一映画を見て出てきながら自身が入ってきたその劇場の雰囲気がどこか見慣れなく思われたとすればそれはすぐにこれエッシャーの絵のようにぐるぐる回る'インセプション'という映画の意図がまともに受け入れられたという反証であろう。そしてもしかしたら冗長なこの文やはりその意図のとおりではないだろうかと思う考えをするようになる。

/チョントクヒョン大衆文化コラムニストmansuri@osen.co.krブログhttp://thekian.net/

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OSEN |入力2010.08.08 08:22
by kazem2 | 2010-08-08 20:26