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by kazem2
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"リアリティーを、人物と社会の関係をまた悩もう"

☆CINE21



<ゆきとニーナ>4年ぶりに帰ってきた諏訪裕泰監督

諏訪裕泰監督の触手はいつも関係に向かっている。ブティックで仕事をする女と総てのことがよく解けない男の同居生活を通じて日常の微妙な亀裂を捕らえたし( <M/Other> ( 1999 ) ) 、広島という都市と監督の内面の関係が衝突しながら派生する感情を扱うこともした( <受験(凝视)あるいは、2002年広島> ( 2000 ) 、 <Hストーリー> (2001 ) ) 。 <パーフェクトカップル>以后4年ぶりに帰ってきた<ゆきとニーナ>やはり『他人との関係』を扱った映画だ。大人たちの世界を描いた前作と違い初めて子供たちの世界に顕微鏡を突きつけた。そして俳優イポルリトゥチラルドと共に共同演出したのも差ならば蹴られる。映画は両親が離婚しながら親しいニーナ(アリエルダイコン縁を)と別れることになったゆき(ノーにサム血)の心理を繊細について行く。昨年カンヌ国際映画祭監督主幹開幕作の<ゆきとニーナ>は日本映画評論家ハスミシゲヒコが挙げた『2009年今年の映画ベスト5 』に選ばれることもした。去る7月10日第12回ソウル国際青少年映画祭で<ゆきとニーナ>を上映した諏訪裕泰監督に会った(国内封切りは7月15日だ) 。

-あるサイト( http://www.ustream.tv/recorded/7674129 )であなたが現在のチョケイデハクで進行しているニュダキュメントリ授業動画を見た。ドキュメンタリー的装置らが劇映画やドキュメンタリーでどのように使われるかを扱ったよ。
本間タカシという有名写真作家とともに企画した授業だ。彼や私もドキュメンタリーに関心が多いが同時に抵抗感も持っている。

-抵抗感ならばどんな抵抗感なのか。

ドキュメンタリーでも政治社会的なメッセージを直接的に表わすのは嫌いだ。とても政治的に表現すれば映画は単純なメッセージしかならない。

-授業で<かもめ食堂>の食べ物作る場面を見せながら、"料理プログラムの典型的な映像が劇映画で新しく機能する"としたし、チアジャンコの<公共场所>のバスの中風景を表わした場面を見せながら、"ドキュメンタリーだがショットらが劇映画のように意図的に感情を積み上げる"と話した。
そうだ。リアリティーに対する考えをまたしようということだ。単純に対象だけ眺めるのでなく誰かのリアリティー、リアリティー的な要素ら、人物と社会との関係などを考えてみようということだ。

- <パーフェクトカップル>以后4年ぶりの長編演出だ。

1年の間のフランス生活に対するリアクションが<パーフェクトカップル>だ。この映画はフィルモグラフィー中でひと回り回って原点に立った作品だ。以後新しい方向で膨張するために悩みを継続した。 <ゆきとニーナ>はすでに着手した状態で。なのでほとんどの4年を<ゆきとニーナ>ロに送ったわけだ。

-当時その質問に対する答えを得たか。

得られなかった。事実答を救うのは意味がない。 「次は何の質問をするだろうか」が重要だ。

- <パーフェクトカップル>を作って次期作は、"フランスと日本社会のどんな面目(容貌)を描くことができれば良い"と話した。その点で<ゆきとニーナ>はどんな悩みから出たか。

今まで男女関係を主に扱った。大人たちの話であった。今回は両親と子供の関係を通じて世界を眺めたかった。

-やはりあなたがお父さんなのでそうしたことなのか。

ひょっとして子供いるか? (記者がないとすると)お父さんになって子供たちを育てるならば幼かった時私がした行動らを子供を通じてまた体験する瞬間がある。これをいつか映画で作らなければならないと考えていた中に共同監督であり俳優イポルリトゥチラルドを会った。それはやはりお父さんだ。私的な話をして<ゆきとニーナ>を一緒に使って演出することにした。

-プロジェクトのどんな面で共同演出が必要だったか。

個人的にトップあるいは王になるのを嫌いだ。いつも共同性に対する夢と幻想がある。作業の主体が'私'でない'私たちの'になるということではないか。事実共同演出は今回が初めてでない。 <Hストーリー>する前に米国のロバートフレーマー監督と広島プロジェクトを進行したことがある。広島で撮影するお互いの姿をとる内容だ。しかし進行途中ロバートフレーマーが死にながらプロジェクトが中断された。

-撮影序盤はイポルリトゥチラルドが一人で準備したと聞いた。初めから共にしなかった理由は。

2008年から東京チョケイデハクで学長を引き受けたせいでせわしくなった。フリープロダクション過程に合流できない状況だった。クランクイン直前にフランスに到着したししてみなければ分からないことらが多かった。俳優やはり二つの監督中誰の話を聞くかも知れない混乱があったし。

-役割分担が切実だっただろう。

序盤にはフランス人のイポルリトゥが俳優演技を、私がカメラを引き受けた。ところで仕事が決心したとおり分けられなかったよ。結局毎日スタッフらが集まる前にイポルリトゥと通訳と共に会議をしなければならなかった。

-前作の<Hストーリー><パーフェクトゲーム>を撮影したカロルリンシャンペティに(ジャンリュックゴダール、ザックリベット、アルノテスプルレセンなどと作業したフランスの女性撮影監督)と今回は共にしなかった。

なぜかカロルリンが合流すれば同じフランス人のイポルリトゥハゴマン疎通しそうだったよ。それで二人の作業になることだね。孤立になるかと思って怖がり今回だけはカロルリンと共にしなかった。正確な理由を分からないカロルリンは今すねている。 (笑い)

-二人の意見が衝突する時ごとに基準になったことは主人公ゆきだ。

ゆきは非常に複合的なキャラクターだ。現場には3人のゆきがいた。私のゆき、イポルリトゥのゆき、そしてノーへのユキ。その中最も重要なことはノーへのゆきだ。映画を見ればノエが非常に可愛くて魅力的な子供なのに、撮影当時その子供を理解するのがだいぶ難しかった。

-どうである点で難しかったか。

(ノエが)何を考えるのかまったく分からなかった。ノーには演技をしてみた経験も、誰かに演技指導を受けてみたことがないアイダ。それでもとても熱心にしたよ。たとえば怒る場面で次第深刻に怒る。それで周囲で"ノーに、腹が立ったように見えないで。さらに怒らなくちゃ"という。 (笑い)ノーにはしばらく悩んでまた怒る。そのように習っていった。

-専門俳優と考えられる程演技が上手だったよ。どのようにキャスティングしたか。

ゆき役は二種類原則があった。最初に、混血人であってこそするということ。二番目、日本語とフランス語を全部できなければならないこと。果たしてそのような子供がいるのか大いに心配した。オーディションが夏バカンスシーズンに開いたりもしたし。それでも40人余りの子供たちに会うことができた。初めにはゆき役を男あい路設定しようとしたがすぐ止めた。二つの監督すべて男とどうしても私たちの幼い時の姿をキャラクターに投影しそうだった。私たちが分からない存在の女の子と共にしてみたかった。 40人中で唯一真剣で考えが多い子供がノエだった。

-反面ニーナはゆきとは違い総てのことが積極的だ。

消極的なノーに一人でご両親の離婚に抵抗するには力が不足するとみられた。この子供をリードできる積極的なパートナーを作らなければならないと考えた。それで二人の子供が力を合わせて何かをすることができはしないかと思った。

-俳優らと共にシナリオを作業して現場で話を作っていくことで有名だ。しかし今回は子供たちが俳優であった。その点で演技演出方式が以前と違ったようだ。

成人俳優と作業する時は互いに理解しながら関係が成立する。しかし子供とおとなの関係で理解(利害)というものはありえなかったよ。おもしろかったり難しいこともした。

-劇中で大人たちがさらに子供のようで、子供たちがさらにおとなのように見えた。

ひょっとして幼かった時大人たちを見ながらそのような考えていないのではないか。 「なぜああいうのをで戦うだろう? 」といいながら。 (笑い)反面大人たちは直ちに生きていくことために子供たちを世話する余裕がない。劇中でゆきのママがゆきが送った手紙を読んで泣く場面だけ見てもそうだ。ママが先に泣いてゆきは泣くことはできない。事実本当に泣きたいことは両親の離婚を受け入れなければならない、それで友人ニーナを置いて日本に行かなければならないゆきなのにね。その場面はNGカットだ。別に指示しなかったのにママ役を担った俳優が泣いてゆきは笑った。

-そうしたことなのか。その場面を見て本当に緻密に計算された演技と考えた。

ベルリン国際映画祭の時ある記者がノエに"なぜ笑ったか?"と尋ねた。返事は、"ママが泣いて化粧が消されるとすぐにそれがとても笑わせました"といった。 (笑い)

- '劇映画でドキュメンタリー的瞬間はいつ出現するのか'という主題で講義すればおもしろい。

編集過程でその場面を置いて激烈な議論があった。イポルリトゥ監督は演技の集中力が乱れたで見た。しかし私はノーへの行動が重要なジェスチャーと考えた。ママが泣く時笑えば変だ。それは大人たちの考えじゃないの。子供立場で十分に可能だろうと見た。後ほどイポルリトゥが納得してその場面を使うことができた。

-森でさ迷ったゆきがどこかに出て行くとすぐに日本のある田舎の村に到着した。何気なく地球反対空間に移動した。

一種のファンタジーだ。この場面が漫画ならばそのまま日本を描けば良い。だが、映画はすべてのスタッフらがカメラを持って日本に行かなければならない。その点でこの場面は二重的によじれている。一つはゆきが劇中から日本に空間を飛び越えるということ。また、一つは製作スタッフがその場面のために日本に移動することだ。

-ゆきが日本子供たちと家で遊ぶ場面は即興的に撮影したことで聞いた。

本来渓谷で汗ダラダラ流れてからだあたりながら遊ぶ場面でとろうとした。しかし進行過程上そのようにとることができなくて家に変えた。俳優らが服を着替える扮装室用で借りた家だった。ただし家が登場しながら日本色があらわれるか心配した。オズヤスジロウのような... 。どうであれ家場面は今まで見られなかったゆきの積極性を引き出すための目的だ。

-森でゆきが走りながらニーナに自身の心を表わすナレーションは映画で最もエネルギーがあふれる場面だ。

ゆきは一人で自身の内面を表現するとは思わないアイダ。話すタイミングをよくのがしたり。森に単独で残された時初めて自身の話をする。現場で"ニナに手紙書くようにユキの話を一度してみる?"程度でノエに指示したが、一人で考えては映画に出てきたように話したよ。驚くべき瞬間だった。

-また、一つ、森の中場面が皆昼間だ。ゆきとニーナが森に入った時間が午後だったが、ゆきが日本に行って帰ってきた時も相変らず昼間だったよ。夜になっていなければならないのではないか。
ハハ。 (笑い)本当に重要な指摘だ。フランスの昼間時間が唯一長いとだけしておこう。 (笑い)

-共同演出だと編集が骨を折ったようだ。

二人が離れていたとのことが最も大変だった。一緒にいれば対話で解けば良いのにどうしても... 。途中「さっとそのまま日本映画で作ってしまうだろうか」したかった。 (笑い)イポルリトゥに<ゆきとニーナ>は映画が編集を通じてどのように完成されるかを悟ることになった最初映画であった。それだけ欲も多かったし不安に思ったし。

-完成作を見て"まだ理解できない場面があって、予想と違った部分がある"とした。それが何か。

ゆきのパパが酒飲んでゆきに弁解する場面。イポルリトゥが考えた場面なのに私ならばそんなに作らなかっただろう。何でも言葉で説明しようとするのは良い表現ではないようだ。時には沈黙がはるかに効果的だ。それでその場面はイポルリトゥに任せて全く関与しなかった。

-映画を作って子供たちをちょっと理解できるか。

とうてい理解できないことが存在するということを理解した。 (笑い)大人たちはいつも子供たちに『このようにしてくれ』でする。だが、子供たちはそのように考えない。その瞬間子供たちの考えは無視されていることだ。男女関係も同じだ。理解するが中(案)一つが重要なのでなく理解しようとアクションを取るかしないかが重要だ。

-次の作品が気になる。

まだ計画がない。当分学校で映画教育に努めることだ。映画を一つとるというのは映画人生に対するリポートを一つ提出するようだ。学生たちと共に勉強しながら次のリポートを準備しなくちゃ。

文:キム・ソンフン 写真:ソンホンジュ(写真部长) 2010.07.23
by kazem2 | 2010-07-23 20:28