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[チンジュングォンのアイコン]唯物論的神学に関して

☆CINE21.com



ユートピアと左派バーバリマン

スルラボイェチジェクの<时差的観点>を読んで'唯物论的神学』という表現に会った。神学と唯物論の矛盾的結合をチジェクはこのように正当化する。 "デリダは( ... )今日ではただ無神論者などだけが祈祷を捧げることだと指摘する。この修辞法に反して私たちは神学者らだけが唯一真の唯物論者というラカンの主張が持った真理を主張しなければならない。 "この逆説は日常的である。事実お金の全能を認める江南(カンナム)金持ち教会の牧師らこそ真の唯物論者で、世の中にはお金より重要なのがあると信じる左派らこそ真の観念論者ではないか。

だが、この興味深い矛盾の著作権は事実チジェクがでなくワルターベニャミンに帰る。よく『歴史哲学テーゼ』と呼ばれるベニャミンのエッセイ<歴史の概念に関して>にはいまだに学者らの間に入り乱れていた解釈を産むベニャミン特有のアレゴリーらが登場する。代表的なことがファールクレーの絵と共に登場する憂鬱な歴史の天使、 'アンゲルルスノブース' 。だが、それに(彼に)劣らず重要でまたあやふやなのがすぐに『歴史哲学テーゼ』の冒頭に登場する自動人形のアレゴリーだ。

ユートピア的発想に対する力説"広く知られることを相手が数を痘面ライバルを置いていつも勝利するように作られた自動人形があった。トルコ服を着て口に水煙パイプをムンイニョンが大きなテーブルの上に置かれたチェス版の前に座っている。テーブルは鏡システムを利用して安易空いているように見えるか、実はその中にチェスにたけていたなど曲がった小人が落ち着いてひもで人形の手を調整している。哲学でもそんなことを想像できるだろう。人々が'史的唯物论'だと呼ぶ人形はいつも勝利しなければならない。その誰とも戦って勝とうとするならそれは神学の力を借りなければならないが今日神学は矮小で醜くなって垣間見られてはいけない。 "

その小人の名前をベニャミンは『神学』だと呼ぶ。その誰とも戦って勝つために科学的唯物論は神学の助けを受けなければならないのだ。これが何の意味であろうか?チジェクの本で'唯物论的神学』という表現とあう瞬間、突然私が5,6年前にあるインターネット掲示板に上げた文が浮び上がった。自分の引用を通じてそちらへまた帰ってみよう。

このアレゴリーで背中曲がった小人、すなわち『神学』はまもなくユートピアの哲学を示す。ユートピア的発想がなかったとすれば世の中は今日私たちが持ったものだけに発展できなかっただろう。だが、私たちはもまた、いくつかの妄想家のユートピアが世の中をディストピアで作ってしまった経験を持っている。ここでユートピアはなければならないが、同時においてはならないという力説が成立する。これをどのように解決しなければならないだろうか?ベニャミンの自動人形はすぐにその解決策で提示されたことだろう。すなわち小人(ユートピア)は実際に作動しなければならないが、彼の作業は決して表面に現れてはいけない。

歴史のテロス( telos ) 、すなわち人類の最終目的になる理想社会を描いておいて現実を強制的にそちらへ移すという発想は時代錯誤だ。私たちはすでに『歴史以后' ( posthistoire )に生きているためだ。だが、その一方でユートピアをあきらめることはできない。私たちが現実に享受することが一時は実現不可能な以上繋いだためだ。すぐにそのために理想社会の夢は存在しなければならないが同時に存在してはいけないことだ。換言すれば私たちがトルコ人形がよがる言葉、書く文、する行動はユートピアの熱望に操縦されなければならないが、その夢自体は小人のように遮られていなければならない。

存在しながら不在しなければならないユートピア過去のユートピアは完成テで存在した。ある人たちはこの設計図をそのまま現実に移そうとした。だが、今日『ユートピア』がまだ生きているならば、それは存在しながら不在しなければならない(デリダならば『存在すると同時に不在しながら'作動するこれを'ティペランス'と呼ぶかも知れない) 。それがどのように可能かと?存在しながら不在するのは科学的にも可能な現象だ。たとえば触媒を考えてみなさい。化学反応で触媒はそれ自体では化学的結合物に入らないがそれなしでは化学反応が起きることはできない。ユートピアは触媒のようなことでなければならない。

私が左派バーバリマンを嫌うのはそのためだ。 21世紀に相変らず肯定的ユートピア文学をするその指摘怠惰も気にくわないが、大衆の前に服すっかり脱いで真っ赤な者であって、黄色い者であって審判する形態は私の性好みをはなはだ逆らう。現実は恐ろしく帰るが、そこに結びつくつもりはできなくて、私寝るが色の原色性を根拠に他の人々に『自由主义者'とか、 'プチブル'とか紙切れも付けるのはそのまま中世的悪習だけのことだ。 『宗教裁判』 ( inquisition )の語源はラテン語の1人称'私が尋ねます' ( inquisitio ) 、すなわち他人の信仰的アイデンティティを尋ねた質問だった。

言語ゲームで『ユートピア』がする役割を正確に理解しなければならない。歴史にテロスは存在しない。だが、それでも現実でどんな政治的目的を設定すること自体が不必要だったり不可能なのではない。ユートピアは具体的に溢れでる懸案を判断するところに進んで懸案に対処する代案を作るところにひそかに作動しなければならない。あたかも触媒のように。今回の選挙を通じて成り立った無償給食を考えてみなさい。それは事実そんなに急進的な要求ではないか、平等社会のユートピアに向かった重要な一歩ではなかったか。

私たちは決してユートピアに到達できない。それは『どこにもない』を意味するその単語の意の中にすでに含まれている。私たちはそこにただ無限に近接することさえできるだけだ。それも現実で遊離した実験室で考えるの1,2人のレトルト夢想を通じたのでなく、個別的で具体的な問題をもって取り組む数多くの人々の理論と実践を行って。ユートピアを描くことに比喩しようとするならそれは人生で遊離した政治的修道院に住む妄想家らが描く宥和作品でない。それは生活を送る数多くの人々の夢の組閣(雕刻)で成り立ったパズルだ。

いわゆる『左派』に不足したことは...不幸にも私たちは今私たちが追求するユートピアの姿を見ることができない。だが、いつか長い間の歳月が流れて振り返ってみれば私たちの夢がすでに実現されていることをはじめて悟ることになる。ユートピアの姿はある妄想家の『ビジョン』の中であらかじめ見えるのではなく、遠い将来闘争する世代の集団的夢の中で『记忆'で一歩遅れて現現下ということだ。ユートピアという名前の小人は鏡の反射を利用して背中を曲げて机中に隠れなければならない。現実で私たちはひそかに彼の操縦を受けるトルコ人形にならなければならない。

唯物論的科学がなぜ神学の操縦を受けるべきか?それはユートピアの実現が科学に変えることはできない世俗宗教的信仰、科学で説明することはできない非合理的情熱を要求するためだ。チジェクは話す。 "神学的次元-ベニャミンによればこれなしでは革命が勝利できない-がすぐに衝動過剰の次元、 '過度に多いということ』の次元ではないのか?"事実狂的なクリスチャンらの問題は情熱の過度だということにあるのではない。彼らの問題は時をわきまえず、どこにでも、誰にも表わすところにある。これは左派神学者らの場合も同じだ。

神学は他人を審判する基準でなく、自分を動かす動力でなければならない。声高い左派らがいつも彼らが『主体思想派』と軽べつするこれらに敗北する理由もここにある。いわゆる『左派』に不足したことは、ホンセファ先生が指摘したように、自分を動かす情熱だ(チジェクはこれをフロイト-ラカンの『冲动'と解釈する) 。また他の理由があるならばいわゆる'主体思想派'らは自らの小人を隠しておいてトルコ人形で行動することができるということであろう。不幸なのは、その立派な習性が奥深い哲学的理解でなく国家保安法の現存から始まったということだけだ。

文:チン・ジュングォン(文化评论家)2010.07.23
by kazem2 | 2010-07-23 13:08